執筆「身の丈に合ったお金を使い お金の生きる使い方を知ること」

 美容院には月に一度、まめに行く。そこで高級婦人雑誌が読めるのはささやかな楽しみである。
 ページを捲ると、贅沢な美の世界が広がる。世界や日本の観光地、美食の数々。ブランドの宝飾品や服飾品。値段を見て、びっくりするのは毎度のことだ。宝石は千万円単位、服やバッグも百万円を超えたりする。こういうのを普通に買っている人たちがいるのよねえ。少しの羨望を、たしかに感じる。
 だが、手が届かない物はしょせん仕方がない。無理をしない範囲でお洒落はできるし、反対に、お金があれば素敵に着こなせるとも限らない。まして幸せかどうかは別ものだ。幸せとは、苦労なく与えられることではなく、あと少し頑張ったら手が届く、そのために努力しようと思える状態であるからだ。
 しかし、世の中には、身の丈を超えて金や物を追い求める人が、結構いる。買い物依存症の人たちの心は常に飢餓状態で、借金をしてでもブランド物を買いあさる。詐欺で稼いで、パチンコやブランド物、高級飲食店でそれこそ湯水のように使いまくっていた女もいた。出所後はまた繰り返す。俗にいう「飲む打つ買う」は、犯罪に走る三大動機である。
 先日、自己破産希望の男性から法律相談を受けたのだが、唯一の趣味の競馬、職業としての投資を続けたいとのこと。それでは債務の免責はされないだろうと答えると、困りましたと言う。それこそ困った人である。
 生きていく背骨に金銭感覚があると、私はずっと思っている。生き方は金の使い方に如実に表れるからだ。何にどう、いくら使うか。ケチは駄目、さりとて浪費家も駄目。相性がいい人というのは金銭感覚が合う人だということも分かってきた。
 粋な人、素敵な人は金の生きる使い方を知っている。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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遺体消滅事件,そして秋葉原通り魔事件

 江東区での猟奇的事件。遺体は骨まですりつぶされた。
 帰宅した女性が,マンションの一つ置いた住人に突如襲われ,自室から引きずり出されて(その際,犯人の指紋が検出されたのが幸い,犯人はまずは住居侵入で逮捕された。)犯人方に連れ込まれた。その後何をどういう風にされたのかは分からないが,とにかく殺され,遺体は損壊された。
 全貌は明らかではないが,犯人は(たぶん)異常性欲者で,相手は誰でもよかったようだ。被害者が2人暮らしであることを知っていれば,すぐに発覚するので(実際,それですぐに発覚した)狙わなかったはずだが,それさえ知らなかったのだから。
 一昨年,渋谷でばらばら事件が続けて起こり,もはやばらばらくらいでは人は驚かない。遺体の肉と骨を綺麗に削ぎ,ひたすら粉々にしている作業を想像するだに身の毛がよだつ。遺族の怒り,悲嘆は察するにあまりある。捜査上も,遺体がないのではどんな傷害を負わされたのか,強姦されたのか,分からない。犯人の自白があっても被害者はいないし,遺体もないとあっては検察は起訴を躊躇せざるをえないだろう。公判で自白が転じたときに,支える証拠がないからだ。
 殺人と死体損壊。強盗か強姦がつかなければ,この罪名では,殺人などの大きな前科がない限り,死刑とはならず,無期懲役が限度ではないだろうか。おかしな話だが。

 そして,この日曜に起きた秋葉原通り魔事件。犯人はトラックで歩行者天国に突っ込んだ。降りて持参の包丁で刺す。死者7人,負傷者10人。
 犯人はコンプレックスの固まり。20台半ばですでに夢も希望もなく,寂しい老後を現実のものとして描いている。人生の落伍者で負け組であるとの怒りは自分自身には向けられず,そういうふうにした社会が悪いとばかり,他者に向け,挙げ句無差別殺人を狙った。卑怯この上ないが,この犯人にはそれなりに理屈が通っていたのだろう。茨城の通り魔事件,池田小学校事件にもヒントも得ていたはずで,池田小の事件が同じく6月8日であったのは偶然ではないようにも思える。

 上記の事件との共通点は,被害者には防ぎようがなかったことだ。たまたまそこに居合わせた。気の毒としかいいようがなく,犯人への憤りも募るばかりだ。
 さらなる共通点は,犯人がともに派遣社員であったことだ。正規社員と違い,彼らには身分保障がない。いつでも切られ,その待遇は人ではなく物のようだ。
 個々の犯罪は犯人の個性によるが,しかし犯罪を全体として見た場合には,犯罪は必ずや社会問題である。貧しければ人は窃盗をしてでも,他人を傷つけ,強奪してでも,食べていかねばならない。希望も夢もなければ,自己を律してよりよい生活のために努力する気にもならず,自暴自棄に陥る。生活の安定,そして夢のある社会こそが人を犯罪から遠ざける要因なのである。
 これだけ政治も社会も乱れ,富裕層とワーキングプアが二極化し,敗者復活が早い段階で難しいとくれば,自暴自棄になる者は大勢いる。犯罪予備軍がそこここにいて,また模倣が広まるのだとすれば,恐ろしいことである。今日も無事だったとほっとする日が来るのかもしれない。安全神話はどこにいったのだろう。

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執筆「世界に誇るべき名作「源氏物語」 日本の文化をもう一度読み直す」

 今年は「源氏物語」千年紀である。レディ紫の物語は世界初の長編小説なのである。
 以後世界中で数え切れない小説が生まれたが、依然、世界十大小説の一つに挙げられる。それほどの傑作が日本で、しかも女性の手に成った。誇らしいことである。現代語訳で何度か読んだが、たしかに面白い。古今東西の名作すべてに共通することだが、時代・文化の相違を越え、そこには人の普遍性が謳われる。
 天皇に寵愛され、嫉妬を買った挙げ句、早死にした美貌の母。光り輝く貴公子・光源氏はドンファンで、亡母に似た義母(藤壺女御)とも通じる。義母は不義の子を出産。源氏は、義母に似るその姪を幼少時から引き取り、理想の女性に仕立て上げる(紫上)。だが、腹違いの兄の頼みを断り切れず、その幼い娘を正妻に据えるのだ(女三の宮)。紫上の限りない悲嘆。そして、逝去。正妻は若い貴公子と通じ、不義の子を産む。因果応報こそが源氏物語最大の主題である。紫上に先立たれた源氏は女性にも関心を失い、やがて出家する。
当時の風俗も面白い。高貴の女性は外を出歩かないから、美しさはあくまで噂でしかない。恋心を募らせ、歌を交わし、従者が女中をうまく手なずけて、ようやく忍び込む。恋の成就である。だが、朝見たら醜女でびっくり、ということもある(末摘花)。女としては男が来なくなったらお終いなのだが、源氏は、一度契った女の面倒は見続けるという律儀さを持つ。
 我々はもっと自国の文化を誇っていい。いや、誇るべきだ。金や経済ではなく、文化こそが世界共通の財産であり、最も尊敬を得られるものなのだから。まずは我々自身が知るべきなのだ。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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女子高生,襲われて死亡……

 4月に入り,大学は始まるし,家裁調停委員も始まるし,でばたばたしている。
 そして,あっという間に4月は経過。4連休を楽しみにしていたが,過ぎてしまえばこれまたあっという間であった。
 今日は冷房が要るほどむしむししている。いつかしら四季がはっきりしなくなった。時折ざっと降ったりするのは亜熱帯地方の特徴で,地球温暖化の影響は歴然としている。

「首相と桜を観る会」(4月12日)のご招待はあったが,欠席した。
 ここで首相が,物価が上がるのは「しょうがない」と発言したとか。後で聞いて唖然とした。以前から「困りましたねえ」(民主党に日銀総裁人事を否決されて),「私は可哀相なくらい苦労している」などなど,当事者意識のなさ丸出しの発言が続いていて,これでは内閣支持率が落ちるのも当然だ。
 私自身は運転をしないのでガソリンの値上げ自体がさほど困るわけではないのだが(タクシー運賃の値上げは痛い。),バターや小麦粉などあらゆるものが値上がりしていて,庶民には暮らしにくくなっているのを感じる。
 それでもまっとうな政治が行われているのであればお互い様で仕方がないのだが,一部で税金泥棒のような公務員・天下りの受け皿である外郭団体があって,不公平感が大きいのが国民には腹立たしい。苦労知らずの世襲議員にこの感覚が分かろうはずがないのがまた腹立たしい。

 いろいろな事件が起こるが,連休に愛知県の女子高校生が襲われた事件は衝撃的であった。クラブのマネジャーを一生懸命やっていたというだけによけいに痛ましい。
 被害者遺族の嘆きを思うとやりきれない。
 変質者なのであろうが,狙われたのはやはり,人の通らない暗い場所であった。見つかりたくて犯罪を犯す者はいないから,明るくて人目につく場所は避ける。だから,防犯のためには明るい街作りが必要だし,暗い所は避ける,少なくとも決して一人では通らない(とくに女性)といった用心をすることがいよいよ必要な社会になってきたと感じさせる。まさか私が,とか今日は大丈夫といったちょっとした気の緩みが命取りになりかねないのだ。
 なにしろ働いても年収200万円以下のワーキングプアが1000万人以上いるのだ。将来が見えない所に,物価は上がる。一部で高笑いをしている層がいる。となれば犯罪も増えようというものだ。古来,犯罪を生むものは貧困だし,社会への不満なのだという根元を政治家は知らなければならないと思う。

さて,山口県光市の差し戻し審。やはり死刑であったが,だからといって遺族が救われるわけでもない。尊い命をこんなにも無残な形で奪われたお2人にただ合掌を。そのために尊い人生を,ある意味永遠に奪われた遺族の方々に……慰めの言葉もない。犯罪というのは本当にやりきれないものである。

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執筆「仏教文化を学んだら,目から鱗 日本語の素晴らしさが見えてきた」

哲学、宗教関係の本をまとめて買い込んだ。
 実はとうの昔からうすうす気付いていたのだが、西洋人の背骨にはキリスト教があり、その芸術を理解するには、歴史や宗教の理解が不可欠なのである。そのため遅まきながら、一般教養のレベルでいろいろと読み始めたら、これが実に面白いのだ。
 旧約聖書(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典)、新約聖書(キリスト教)、コーラン(イスラム教)、あるいはギリシア神話など。併行して、仏教関係の本も読み始めたところ、こちらは非常に言葉の勉強になると気が付いた。
 日本語の日常の言葉には実に仏教用語が多いのである。その中にはサンスクリット語(古代インドの典礼語で、梵語ともいう)の表音をそのまま漢字に当てはめたものが多いという。例えば、嘘も「方便」、「阿吽(あうん)」の呼吸、あるいは「南無」(「帰依する」を意味する「ナマス」から)、またはシャリ(身体を意味する「シャリーラ」。真っ白な米粒が遺骨に似ているから)。
「しゃかりき」が「釈迦力」で、「ガタピシ」は「我他彼此」。我と他者、あれとこれというように物事を対立させ、縁起から離れて衝突を生じた様子である。僧服は黒で「玄人」、対する一般人は白い人の意味で「素人」であるなど、まさに目から鱗の連続である。
 ちなみに京都の祇園は、平安時代に藤原基経が自分の屋敷を寺にし、インドの祇園精舎の故事にちなんで祇園社と名付けたのが起源であるそうな。また、「他力本願」は他人頼みの悪い意味で使われるが、本来親鸞の「他力」とは、阿弥陀仏の誓いの力のことである。 言葉は実に文化そのものなのだ。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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