『亡き兄に700万円を貸している姉が、甥に追い出されそうになっています』

自由民主党月刊女性誌「りぶる6月号」

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大型連休もほぼ終わり、憲法改正について思うこと

大型連休も明日を残すばかりとなった。あれやこれやの計画があったわけではないので、未達のものもない。この間尾道にも帰省できたし、いくつかの本をまとまって読んで勉強もできたし、ピアノも弾けたし(ベートーベンのソナタを中心)、まずもって良かったと思う。そして、明日は大相撲初日である。

3日、日経紙に載った3人の識者のうち、東大准教授マッケルウェイン・ケネス・盛氏のインタビュー記事が「目から鱗」だった。日本国憲法が他の国に比べてとても短いことは知っていたが、それと関連して、「法律で定める」とか「法律の定めるところにより」とする授権条項が多いことが特徴だと言う。例えば、最近選挙年齢を18歳以上とし、選挙区を変え議員定数も減らしたが、公職選挙法の改正で済んでいる。なぜならば、「両議院の定数は、法律でこれを定める」(43条2項)「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める」(44条2項)、「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(46条)となっているからである。もちろん、一院制にするとか任期を変更するとかいった場合には憲法改正が必要である。法律に授権して細々と定めていないが故に、日本国憲法は条文も103条と少なく、言葉も短く、要するにエッセンスだけなので、例えば、裁判員制度を導入した時ですら刑事訴訟法の改正とその旨の法律の制定で済んだのである。もし細々と憲法で定めているのであれば、その度ごとに改正は必要となる。

国会議員の3分の2以上のハードルは、誤解されているようだが、他の国でも普通である。法律改正が過半数なのだから、その上にある憲法が3分の2というのは素直な設定だ。ただこれをさらに国民投票にかけるというのは少なく、重いハードルといえばこちらのほうであろう。とはいえ過半数でよいのだから、もし本当に必要であればさして難しいこととは思えないが、これまでやってこなかったのは、上記の理由で、憲法改正が必要な状況がほぼなかった故と思われる。

もちろん、戦後70年、時代は大きく変わり、当時はなかった環境権、知る権利、プライバシー権など新しい権利・自由も登場してきている。その度ごとに、25条や13条などをいわば容れ物として使い、明文はないが解釈上憲法はそれも保障しているとして、なんとか間に合ってきたというのが現実である。憲法改正論で厄介なのは、それと9条が必ずやタイアップしていることだと思われる。改正=国民を戦争に巻き込む、という捉え方をされる限り、改正は絶対に駄目、になってしまう。

改正の是非を論議する際には、字面ではなく、何をどうすべきかという実態の論議をしなければ、膠着状態で何も進まないのではないだろうか。まして、GHQが押しつけたものだから駄目、自主憲法を作らなければというのでは、感情的に過ぎるようにも思われる。実際その下で、日本は平和と繁栄を享受してきたのだから、その発端はどうあれ、立派な憲法と言えるのではなかろうか。

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『離婚後も夫の姓のままでいた私。今さら苗字を戻すのは大変でしょうか』

自由民主党月刊女性誌「りぶる5月号」

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新学期が始まるに当たって、教育について思うこと

この4日、武道館での帝京大学入学式に出席した。卒業式入学式参列が私の年中行事となって、もうはや11年が経つ。チアリーダー部の歓迎パフォーマンスに、近年は高校和太鼓部のパフォーマンスも加わり、教員らもそれらが楽しくて行っているとも聞くが、実際どちらも若さに溢れて素晴らしく、新入生も保護者もみな感激したのではないかと思う。人生の新たなスタートだ。新たな気持ちで日々を大事に過ごしてほしいと心より願う。

大学では刑法と刑事訴訟法を教えているが、これは弁護士としての自分のためでもある。傍ら家庭裁判所の調停委員をして8年になるが(この度、東京家事調停協会副会長に就任する)、これほど家事事件の勉強になる仕事はない。家事事件は弁護士としてよく扱うし、それは民事事件も同様だが、対して、刑事事件を扱うことはそれほどはない。検事時代に刑事事件は嫌というほど経験したが、辞めて18年。裁判員制度が始まったのはそれから10年以上経ってなので未経験だし、これに伴う公判前整理手続きも未経験だ。また併行して犯罪被害者参加制度その他の新制度が導入され、慣れ親しんでいた刑事司法制度も著しく趣きが変わってしまった。それら大改正について、弁護士会研修への参加はじめ、常に敏感でおられるのは、ほかでもない、常日頃、人に教えている故なのだ。

3月30日付け日経新聞に興味ある記事が掲載された。「AIで変わる大学教育」(国立情報学研究所教授新井紀子氏)。同研究所は、東大合格を目指すAI「東ロボくん」のプロジェクトを率いており、大学教育の前提として中学段階での読解力こそが必要だと主張している。最近、囲碁の世界トップのプロ棋士に人工知能(AI)が勝利したニュースが流れたが、AIが台頭する世界で失業を増やさず、役割分担をするには、人間はAIが不得意な分野の能力を高める必要がある。AIの苦手分野は、「論理と言語を高度に思考し表現する仕事」だから、人間に今後求められるのは、高い言語能力が基盤になる可能性が高い。しかし現実には、読解力は「伸ばす」以前に「その前提になる基礎がない」ことが明らかになったというのである。以下は公立中6校の回答分析である。

「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。オセアニアに広がっているのは(  )である。Aヒンドウー教 Bキリスト教 Cイスラム教 D仏教」。答えは、いうまでもなくBである。本文などなくても、オセアニアがオーストラリアの地域であり、元イギリスの植民地であったことさえ知っていれば正解にたどり着くのは容易であり、ましてこの問題では本文で答えまで出している。馬鹿にするな、というほど簡単な問題だが、なんと正解率は53%!(D35%、C12%が続く。Aがゼロなのは、ヒンドウー教という言葉になじみがない故と思われる。)

いったい、どういうことか。新井氏いわく、「半分ほどの生徒は中学の教科書が読めていない。」「大学の主な問題は、学生が大学教育を受けられる状態で入ってきていないことにある。大学教育は学生が自分で教科書を読んで勉強できることが前提だが、そうなっていない。大学の入り口の状況を改善するには、中学卒業までに中学の教科書を読めるようにし、高校では普通の文章を書けるようにする必要がある。教科書も読めないのにプログラミング教育とかやっている場合ではない。」「中学校段階できちんと読むことができれば、いくらでも学力は伸ばせる。それが出来て初めて、大学での国際化やコミュニケーション力の強化といった取り組みが生きてくると思う」。

驚いて当然のような話なのだが、私自身、実はかなり納得させられた。大学で教えていて、学生に基礎的な国語力が欠如していることを日々実感しているからだ。別の見方をすれば、漢字が使えない。例えば、「せいとうぼうえいがみとめられれば、いほうせいがそきゃくされる」と聞いて「正当防衛が認められれば、違法性が阻却される」に、「こうりゅうをとる」が「勾留を取る」に、「えんざいでむざいとなり、しゃくほうされる」が「冤罪で無罪となり、釈放される」に頭の中で変換されなければ、それは日本語であって日本語ではないはずだ。私は歴史が好きなので歴史の話をよくするのだが、「奴隷」も「占領」も「無条件降伏」も「植民地化」も、もしかしたらこの言葉は漢字に変換できないのかも?と感じるようになって、いちいち板書するようになった。言葉の意味が分からなければ、文脈や内容以前の問題である。

国語力はすべての学力の基本である。英語はもちろん、算数でも理科でも音楽でも、あるいは体操ですらそれは変わらない。故に、私は学生たちに、「新聞を読んで本を読んで」、「字は自分で書くこと」、「体と頭は連動しているから、体で覚えないと決して身につかない」、「スポーツや楽器演奏が頭だけでは出来ないのと同じだよ」といつも言っている。最近読んだ「本物の英語力」の著者鳥飼玖美子氏は、スペルも英文も書いて覚えるほうが身につくと言っておられて、同感である。そのため、採点は面倒だが、試験はずっと論述式にしている。

上記記事では、一流大学生の読解力ですら、まだ大したレベルに達していないAIに負けるそうなので、教育全体の切実な問題だと思われる。もっと早い段階で、国語力が身につくようにならないものか。我々の時代と違って、家の中に新聞や本がない、食事中に大人と会話する習慣がないといった状況下で、子供に国語力をつけさせるには、国が本気で取り組む必要があるのではないか。

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大相撲春場所終わる、大相撲協会に望むこと

なんとも残念な、極めて後味の悪い場所であった。昨日千秋楽結びの一番、白鵬は日馬富士との真っ向勝負を避け、えげつない変化で勝利した。一瞬何が起こったか分からず、あっけにとられ、憮然とし、すぐにテレビを消したが、そのあと席を立って帰る客が続出し、野次怒号が飛び交う中で表彰式が行われたという。長い大相撲の歴史において、それは初めての光景であったろう。本当に残念なことである。

当然のことながら、スポーツはすべて、ただ勝てばよいのではない。フェアプレーに徹し、清く正しく美しくなければ称賛されえないのだ。中でも柔道や剣道は、華道や茶道同様、その「道」を追求し、「礼に始まり礼に終わる」ものである。まして相撲は、神事である。天皇陛下が自ら観戦に来られることをもってしても、ただの格闘技とは根本から異なっている。

横綱は、600人いる力士の、まさにトップに君臨する絶対的な存在である。力量はもちろんのこと、品格を常に問われる立場にある。長く絶対的な強さを誇り、多くの記録を塗り替えてきた白鵬だが、品格の欠ける所作や言動がここ数年、目立つようになった。力が落ちてきた分を補っているのだろうが、今場所も張り差しからかち上げ(というより、栃煌山戦はかちつぶしだった。流血は、格闘技にはありえても神事である相撲には御法度である)、そしてダメ押し‥と目を覆うばかりの取り口が続いた。その極め付きが最後の取組みだ。対戦相手に対して失礼という意識はないのか。大金を払って、楽しみにして足を運んでくれる客に対して失礼とは思わないのか。おめでとうとは誰も言わない、卑怯な手口を使ってまで勝って、嬉しいのだろうか。自分の子供に対しても胸を張れるだろうか。そうか、彼には「恥」という概念がないのだ、と気が付いた。勝つこと、そしてお金がすべてであれば、たしかにどんな取り口でも勝てばよいのである。

このところ連日満員御礼の相撲人気であるが、相撲競技人口はとても少ない。野球やサッカーなどの球技が断トツの人気であり、柔道や空手もそれにはとうてい及ばないが、相撲となると本当に少なく、そのうちから入門してくる若者は毎年70人程度しかいないという。そこそこの力士であれば大卒でもよいが、強い横綱を育てるには中卒で上がるのが良いらしい。モンゴル3横綱は16歳で入門、日本人力士のホープ稀勢の里も中卒である。しかし、せめて高校くらいは出ておかないとつぶしが利かないと今時誰だって思うだろう。入門後も高校には通えるといったシステムを考えていかないといけないのではないか。

良い力士が育たなくては、相撲人気も先細りになるのは目に見えている。片や外国人は、各部屋一人の厳しい制限の下に、入門者は精鋭だ。日本との大きな所得格差もあり、ハングリー精神が際立つから、もし相撲が単に格闘技でよいのであれば、外国人に占拠されてしまうのは必定だ。この度十両優勝をした大砂嵐(エジプト)にしても、以前よりはましになったとはいえ、およそ相撲の型を踏んだ取り口ではないと思える。張り手やかち上げを禁止にし、ダメ押しをすれば反則負けにするくらいにしないといけないのではないか。現に反則とされる髷掴みなどよりよほど悪い手口だと思える。美しくない技や取り口は許さないと、協会が本気で取り組まなければ、入門する若者もいなくなり、全体の士気も失せ、せっかくの相撲人気もあっという間に下がるであろう。かつて来た道がそこにある。横綱審議会も含め、真剣に、逃げずに、論議してもらいたいと思う。

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