佐世保事件少女、医療少年院送致決定に思うこと

昨年7月末に起きた猟奇的事件について、先日ようやく家裁の決定が出た。結論からいうと、刑事処分相当ではなく、保護処分である「医療少年院送致」。少女が公開の法廷で裁かれることはなく、また前科もつかないので、将来医者や弁護士になることさえできるのだ。片や、何の落ち度もなく、それどころか、人一倍優しかったが故に同女と付き合い、そしてこのような被害に遭った少女には、永遠に未来が閉ざされている。遺族も同様だ。自らの快楽のために計画的に人を殺した者が救われ、犠牲者が底なしの地獄に落ちる。この理不尽さを一体、どう考えればよいのだろうと思う。

もちろん、司法関係者も特異な事件であるが故に、深く悩んだこととは思う。自殺した父親に対する殺人未遂事件での再逮捕という、およそありえない方途(だと思う。被害者はもういないし、被害届の提出もないのだから)で処理の時間を稼ぎ、検察庁が実施した入念な鑑定のうえに改めて家裁でも鑑定を実施した。この少女の特異性が解明しにくかったことであろうことに加え、犯時16歳以上の殺人など重罪については原則刑事処分であるところ、そのわずか2日前の犯行であったが故に原則保護処分となるのをどうするか苦悩したことであろう。精神鑑定の結果としては「自閉症スペクトラム」とかいう発達障害であり、つまるところ、責任能力には何の問題もなかった。

かつて指摘した通り、頭の良い少女は少年法を知悉したうえ、刑事処分が原則となる16歳の前に、かねて強く欲求していた殺人及び解体を実行すべく、計画的にこの犯行に及んだ。その由々しい事実を決定は指摘しながら、刑務所では更生は望めないとして医療少年院送致を選んだ。しかし、それでよいのか? 大人顔負けに悪知恵が働く残忍非道な者をすら、少年法は意図しその更生を図ろうとしているのか? 素朴な疑問が沸く。

少年が成人と違い、原則的に保護処分(一番重くて少年院送致、次が保護観察)とされているのは、少年は可塑性に富むというのが理由である。たしかに、親に恵まれず劣悪な環境下で育ったがために、一過性に犯行に手を染めたにすぎない少年もたくさんいる。そういう少年は、直ちに刑務所に容れることなく社会で更生させたほうが、本人のためにも社会のためにもなる。だがそうではなく、環境とは無関係に、生来の悪人も、悲しいけれど少数、ある程度の割合で存在するのも事実なのである。それらの者に対して、他の少年と同じように、更生の観点でのみ臨むべきなのか。百歩譲って、それが理念としては正しいとしても、現実に機能するのか。この決定も、少年院での手間暇をかけた矯正と、加えて出院後の引き続いてのケアが必要なことまでを指摘している。何のケアもされない被害者に対し、今後ずっと至れり尽くせりの処遇を施される加害者との間に不均衡があり過ぎるのではないか。

少年Aは医療少年院で手厚い処遇を受けながら、結局更生してはいない。被害者は顕名なのに、いつまでも自分を匿名で守ったまま、被害者及び遺族を冒涜してやまない事例がここにある。いくら少年とはいえ人間であるからには、決して超えてはならない一線がある。あとに続くかもしれない快楽殺人者に対しては、たとえ少年といえども公開の法廷で裁かれ、それ相当の刑罰が科される(犯時18歳以上は死刑も可)ことを、一般予防的見地からして知らしめるべきなのだと私は思う。でないと被害者・遺族は浮かばれない。私人の敵討ちの権利を国が奪った以上、その報復欲求を鎮められるだけの刑罰を、国は与えるべき責務を負っていると思うのだ。少年だからという免罪符は許されないと考えるのだが、いかがだろうか。

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なでしこ準優勝、でもよくやりました

なでしこが勝ち進み、いつものことながら俄かサッカーファンになって(我ながらつくづくミーハーだ)、テレビに釘付けというよりむしろ、ネット漁りをしていた。世界の報道や、世界中のサッカーファンから寄せられるコメントを読んでいると、お国柄も分かるし、ずいぶんと面白い。

今朝の決勝戦を先週イングランド戦が終わったときから、それはそれは楽しみにしていたのだが、始まって16分間で、瞬く間に4点も取られてしまった。見ている側もそうだが、やっているほうはまさに悪夢としか思えなかっただろう。結局5対2の完敗。もちろん、アメリカとの対戦成績はこれまで、1勝6分け(PK戦は引分け扱いなので、前回のW杯もこちら)23敗と圧倒的に分が悪いのだから、負けて当たり前といえば当たり前だろうが、ただ、ここまでの点差は予想外であった。

アメリカは世界ランキング2位。だが今回は圧倒的な強さで、準決勝では1位のドイツを2対0で完封。アメリカでは女子サッカーの人気がとても高く(男子だと野球やバスケット、アメフトのほうがメジャーのように思う)、極めて厚い選手層の中から超一流のスター選手を集めている。体格が良くて身体能力抜群、もちろんサッカーの技術に優れた者ばかりである。

比較して、日本選手はおしなべて小柄であり、身体能力だけを取り上げれば、アメリカばかりかどこの選手と比べても明らかに落ちると思われる。いくら足を主体とする競技だとはいえ、上背がないとヘッディングでは負けるし、プレスにも弱い。ロングシュートも威力を欠く。そこを日本は、芸術的なパス回しを主体とする組織力でしのいできて、最近は大きな世界大会で3度続けてアメリカとの決勝戦に臨むという、強豪の地位を確かなものとしてきた。小さいけれども精度の極めて高い優秀な日本製品と、よく似た感じがなでしこにはある。

女子がここまでやれるのだったら男子はもっとやれるのじゃないかと思う。そう言うと、男子はやはり体格や身体能力で見劣りし、どうにもならないのだという。たしかに、メッシ(170センチと小柄である)やロナウド、ネイマールといった世界の超一流選手と比べればそうかもしれないが、世界に通用する一流選手も出ているのだから、あとはその個々の力を組織力とするシステムないし知恵ではないのだろうか。小柄な女子がこれだけやれるのだし、またバレーボールやテニス、野球での躍進を思えば、男子サッカーも強豪国に肩を並べることが、きっとできるに違いないと思う。やはりやる以上は是非強くなってもらいたいと思う。

それにしてもスポーツ観戦は実に楽しいものだと思う。一生懸命に汗を流し、自分のためを超えて仲間のために戦っている姿は純粋に感動をよぶ。この日曜からはまた大相撲場所が始まる。年に6場所は心身共にきついだろうなあと思う。怪我をしないよう、後悔のないよう、いい取組を見せてくれることを願っている。

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新幹線の衝撃的事件に思うこと

なんともやりきれない事件が起きた。新幹線内放火である。ガソリンを持ち込んで焼身自殺を図り、乗客のうち女性2人が亡くなられた。どんなにか無念だったろう、言葉もない。怪我をされた方、その場におられた方、みなどれほど怖かっただろう。

自殺したければ人の迷惑にならないようにしてほしい。それをなぜ電車に飛び込んだりするのだろうと思っていた。遺族に生じる損害賠償額だって膨大だ。もちろん、自殺をする状態の人はすでに病気なので、そんな配慮が働かないのかもしれない。それを超えて、自殺するのに他人を道連れにしたいとかいった犯行もあるが、新幹線内での焼身自殺、など思いつきもしなかった。

飛行機と違い、新幹線に乗るのに、手荷物検査はない。それを不思議に思ったこともなかった。しかしもちろん、考えてみれば、凶器を持って入ってくる人だって、頭のおかしい人だって、いてもおかしくはないのだ。新幹線とはいわない、他の交通機関だって、デパートでも映画館でも劇場でも、人の密集する場所にそんな輩が入り込まない保障は何もない。テロだってあるのだ。ただ、これまでは意識していなかっただけ。これからは意識せざるをえなくなる。今後何らかの対策が講じられるだろうから、安全確保のために迅速性などは後回しにならざるをえないことにもなろう。

新幹線はこれまで脱線も事故もなく、ひたすら安全な乗り物であった。それをこんな形で安全神話にまさに火がつくなど、予想の外だったはずである。しかし乗員は的確な行動を取り、乗客もまた冷静に避難をしたという。女性子供を先に、といった声もあったとか、つくづく市井には立派な人が多いといつも感心させられる。放火が1両の前だったから乗客は逃げられたが、これが後ろでやられたら逃げられなかった。後部車両の前でやられても絶望的だった。その意味では不幸中の幸いだったかもしれないが、男はなぜ、そんな方法での自殺を思いついたのか、現住建造物(電車)放火と殺人(未必の故意はあった)で捜査がなされるので解明がなされればと思うが、とにかく模倣犯が心配である。

被害者の名前が報道されるのは仕方がないとしても、写真まで載せる必要があるのだろうか。フェイスブックからの掲載に、遺族の了解はおそらく取ってはいまい。こんな事件に巻き込まれて命を落とすだけでも不条理すぎる被害なのに、そのうえ家族構成や乗車の目的、仕事のことなど、プライバシーを報道されるのは明らかな二次被害だと思えて仕方がない。昨夜たまたまテレビをつけたら、被害女性の顔写真その他がクローズアップされていて、思わずチャンネルを回した。合掌。

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元少年Aの手記出版に思うこと

「絶歌」という書名で、売れ行きは好調なのだという。当時14歳だった少年はすでに32歳、あれからもう18年が経つのである。被害者側が当然ながら出版差止めを要望したのに、出版元はそれを無視した。こんな出版に同意をする被害者遺族などいようはずもなく、最初からお構いなしに出すつもりだったのである。

日本中を震撼させた事件であった。普通の殺人事件では、被害者側にも某かの落ち度がある。だがこれは、何の恨みもない幼い子を、変態的欲望から殺し、切断して顔を切り刻み、頭部を校門上に掲げるという日本の犯罪史上例を見ない猟奇的犯行であった。どれほどの時間が過ぎても、決して癒されることのない遺族。一見普通に生活出来るようになるためにすら、我々が想像もできないほどの辛苦に耐えて、血のにじむ努力をし、そしてようやく何とか生き延びてこられたのであろう。周囲はただそうっと見守るしかない。それを、当の加害者自らが、その傷口に塩を塗り、えぐり出すようなことをあえてしたのである! とうてい許されるはずがない。ところが、である。

一部、擁護論があるのに驚いた(まあ、どんなことにでも異論はあるが)。読んでみたところ、内容がよかった。加害者にも表現の自由がある。誰だっていつ何時加害者側(加害者の家族も含めて)に立つかもしれず、異常の兆候を見つけ出すのに役に立つ‥‥。まあ、いろいろ理屈はついてくるものだ。しかし、まず表現の自由が絶対的なものでないことは、名誉毀損や侮辱が犯罪になり、プライバシー侵害も含めた不法行為が損害賠償の対象になることからしても、明白である。本件も遺族が出版元ないし本人を訴えればそれ相応の慰謝料も取れると思われるが、訴訟にすることは、懸命に忘れようとしている事件を思い出し続けることになるので、できないのではと思われる。つまり、加害者にしてみればやり得なのだ。そう、これが人権侵害でなくてなんだろう。

この本から、異常を見つけ出す情報を、というのもまた詭弁である。そもそもこの事件は、佐世保事件や名古屋のタリウム事件などと同様、非常に例の少ない猟奇的犯行である。だからこそ世間も興味をもって手記を読んでみようと思うのであり、普通の人が何らかのきっかけで陥るような普通の犯行であれば、報道もほぼされないし、誰も関心など持ちようがない。おまけに、手記や供述は「その人の記憶」であって、客観的事実ではない。名著「藪の中」に見るまでもなく、加害者(共犯者)・被害者・目撃者、それぞれに記憶(事実)は異なるのだ。しかも歳月と共に記憶は変遷していくから、その「事実」に何ほどの価値があろう。それが本当に犯罪防止に役立つというのなら、この事件の捜査や少年の更生に携わってきた人たちが、より客観的な証拠に基づいて専門家としての見解を述べるべきであり、であれば大変傾聴に値すると考えるものである。

中には、少年は金儲けのつもりはなく、印税は被害者の贖罪に充てるつもりだと思う、とまで書いていた人までいて、呆れた(もちろん出版社は、ただ金儲けである)。百歩譲って、たとえもしそうだとしても、自らがその人生を台無しにしたご遺族が出版は止めてくれと言っているのである。それをあえて無視し、さらにまた痛めつけて得た金を、喜んで受け取る遺族などいようはずもない。馬鹿にするのもいい加減にしてくれと叫びたい気持ちであろう。結局のところ、彼は自分が書きたいから書いた、発表したいから発表した、のである(もちろん桁違いの金も儲かる)。それは18年前、殺したいから殺した、遺体を陵辱したいからした、というのとまさに同じ線上にあり、何一つ改善されていないことを痛切に感じる。

しかも、被害者は当初から名前が出るのに、自らは少年法に守られてずっと匿名できて、今やまた匿名のままで出版をするというのは非常に卑怯ではないか。最初大きな出版社に持ち込んだところそこは断ったものの、別の出版社に紹介したのだという。出版不況なので、売れる本を出したいというのは分かるが、大きな社会的影響を持つ新聞社・出版社が人倫の道に外れることはしてはいけない。置かない本屋もあることに、また(私を含めて)決して手に取らない読者もいることに、少しだけの慰めを見い出したい(被害者遺族にとっては何の慰めにもならないのだが)。

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執筆『500万円を振り込んでほしいと息子からの連絡にどうすれば・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる7月号」

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