元少年Aの手記出版に思うこと

「絶歌」という書名で、売れ行きは好調なのだという。当時14歳だった少年はすでに32歳、あれからもう18年が経つのである。被害者側が当然ながら出版差止めを要望したのに、出版元はそれを無視した。こんな出版に同意をする被害者遺族などいようはずもなく、最初からお構いなしに出すつもりだったのである。

日本中を震撼させた事件であった。普通の殺人事件では、被害者側にも某かの落ち度がある。だがこれは、何の恨みもない幼い子を、変態的欲望から殺し、切断して顔を切り刻み、頭部を校門上に掲げるという日本の犯罪史上例を見ない猟奇的犯行であった。どれほどの時間が過ぎても、決して癒されることのない遺族。一見普通に生活出来るようになるためにすら、我々が想像もできないほどの辛苦に耐えて、血のにじむ努力をし、そしてようやく何とか生き延びてこられたのであろう。周囲はただそうっと見守るしかない。それを、当の加害者自らが、その傷口に塩を塗り、えぐり出すようなことをあえてしたのである! とうてい許されるはずがない。ところが、である。

一部、擁護論があるのに驚いた(まあ、どんなことにでも異論はあるが)。読んでみたところ、内容がよかった。加害者にも表現の自由がある。誰だっていつ何時加害者側(加害者の家族も含めて)に立つかもしれず、異常の兆候を見つけ出すのに役に立つ‥‥。まあ、いろいろ理屈はついてくるものだ。しかし、まず表現の自由が絶対的なものでないことは、名誉毀損や侮辱が犯罪になり、プライバシー侵害も含めた不法行為が損害賠償の対象になることからしても、明白である。本件も遺族が出版元ないし本人を訴えればそれ相応の慰謝料も取れると思われるが、訴訟にすることは、懸命に忘れようとしている事件を思い出し続けることになるので、できないのではと思われる。つまり、加害者にしてみればやり得なのだ。そう、これが人権侵害でなくてなんだろう。

この本から、異常を見つけ出す情報を、というのもまた詭弁である。そもそもこの事件は、佐世保事件や名古屋のタリウム事件などと同様、非常に例の少ない猟奇的犯行である。だからこそ世間も興味をもって手記を読んでみようと思うのであり、普通の人が何らかのきっかけで陥るような普通の犯行であれば、報道もほぼされないし、誰も関心など持ちようがない。おまけに、手記や供述は「その人の記憶」であって、客観的事実ではない。名著「藪の中」に見るまでもなく、加害者(共犯者)・被害者・目撃者、それぞれに記憶(事実)は異なるのだ。しかも歳月と共に記憶は変遷していくから、その「事実」に何ほどの価値があろう。それが本当に犯罪防止に役立つというのなら、この事件の捜査や少年の更生に携わってきた人たちが、より客観的な証拠に基づいて専門家としての見解を述べるべきであり、であれば大変傾聴に値すると考えるものである。

中には、少年は金儲けのつもりはなく、印税は被害者の贖罪に充てるつもりだと思う、とまで書いていた人までいて、呆れた(もちろん出版社は、ただ金儲けである)。百歩譲って、たとえもしそうだとしても、自らがその人生を台無しにしたご遺族が出版は止めてくれと言っているのである。それをあえて無視し、さらにまた痛めつけて得た金を、喜んで受け取る遺族などいようはずもない。馬鹿にするのもいい加減にしてくれと叫びたい気持ちであろう。結局のところ、彼は自分が書きたいから書いた、発表したいから発表した、のである(もちろん桁違いの金も儲かる)。それは18年前、殺したいから殺した、遺体を陵辱したいからした、というのとまさに同じ線上にあり、何一つ改善されていないことを痛切に感じる。

しかも、被害者は当初から名前が出るのに、自らは少年法に守られてずっと匿名できて、今やまた匿名のままで出版をするというのは非常に卑怯ではないか。最初大きな出版社に持ち込んだところそこは断ったものの、別の出版社に紹介したのだという。出版不況なので、売れる本を出したいというのは分かるが、大きな社会的影響を持つ新聞社・出版社が人倫の道に外れることはしてはいけない。置かない本屋もあることに、また(私を含めて)決して手に取らない読者もいることに、少しだけの慰めを見い出したい(被害者遺族にとっては何の慰めにもならないのだが)。

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