猛暑の中、オリンピック観戦に思うこと

予報通りの猛暑である。ことに西日本は、お盆を過ぎても連日35度の猛暑日が続く。尾道に帰省して昨日東京に戻り、ホームに着いたとたん、大げさではなく一息ついた。台風が行き過ぎて暑くなったが、数年前の「熱いトタン屋根の上の猫」状態だった酷暑の記憶が鮮やかなだけに、まだまだ大したことはないと思える。

冬の南半球で、南米初のオリンピックが盛大に開かれている。大統領弾劾などもあり無事に開催されるかすら危ぶまれていたが、立派な競技場・施設が出来ていたし、懸念されたテロもなく、大した犯罪も起きてはいない。このまま、5日後に迫った閉会式まで無事に過ぎてくれればよいなと思う。

日本選手のメダル獲得数は今現在で、金7個 銀4個、銅18個の、計29個である。当初メダルラッシュが続いたので、この調子だと大会前の予想、金14?15個を無事にクリアするかと思ったが、そんなに簡単なものではないようである。金7個はすでに前回ロンドンと同じだが、ロンドンは銀が多く、計38個。このあとメダルは、卓球男子団体とバドミントンダブルス(2つとも銀以上が確定)、バドミントン女子シングルス(日本人同士が準々決勝で当たるなんて、もったいない!)、それと女子レスリング数個、というところだろうか。

ことに素晴らしく、かつ誇らしかったのは、柔道と男子体操である。柔道は14階級中12階級でメダルを獲得、オリンピック日本記録を更新した(取れなかった2人が気の毒で仕方がない)。ことに男子の全階級メダルは、7階級制となったソウルオリンピック以降初めての快挙とのこと。その内訳は金2、銀1、銅4。金の2人は初戦から完勝の戦いぶりだったし、銀(最重量級)も相手が組まずに逃げていたので実質は金だったのではと思う。ロンドンの惨敗から4年、この間に日本柔道を見事に立て直した井上康生監督らの努力には頭が下がる。

今や柔道は国際スポーツである。その中にあって本家本元の日本人柔道家が国の誇りを背負い、正々堂々と、より選られた世界の柔道選手と渡り合う戦いぶりを見ていて、あれっと思ったことがある。21歳ベーカー茉秋選手(昨秋大学対抗でその試合を生で見た時、大物の予感を覚えた。)は、178センチと小柄ながら大柄な選手揃いの90キロ級で、ハンディを感じさせることなく見事に頂点まで上り詰めた。100キロ超級の銀メダル原沢選手24歳も見るからに王者の風格である。心技体を充実して厳しい稽古に邁進すれば、日本人も世界一になれるのだ。日本一であり世界一。なのにどうして、日本人力士たちは外国勢に勝てず、優勝できないのだ? かつてのハワイ勢とは違いモンゴル勢が強すぎるから仕方ないのかもとずっと思っていたが、そうではなく、単に甘えではないのか?

内村航平選手は、世界中でKING KOHEIと呼ばれ、体操史上最強の選手であると惜しみのない賛辞を送られ、尊敬を受けている。つま先まで伸びた美しい体操は、かつてメキシコ、ミュンヘンで金を連取した加藤沢男の系譜上にある(彼は、「記憶に残る20世紀の体操選手20人」に日本人で唯一選ばれている。)。その加藤選手より内村選手がさらにすごいのは、世界選手権の金も連取していることである。銀だった北京オリンピック以来7年もの間無敵であり続け、まさに「絶対王者」なのだ。彼によって、世界の体操のレベルは、美と技の両方を極限にまで追求すべく飛躍的な向上を遂げ、今回接戦の末内村に敗れて銀となったウクライナの22歳ベルニャエフの快挙につながった。共に驚異の総合得点92点超え!

日本の体操界を牽引し、この度アテネ以来になる悲願の団体金に最大限の貢献をした内村選手も4年後の東京オリンピックでは31歳。ポスト内村の養成が日本体操界の大きな課題となる。今、若手有望選手が目白押しで、代表入りを争って互いにしのぎを削っていることは喜ばしいことだが、それを世界トップクラスにしなければならない。アテネでは代表6人だったのが今や5人に減り、東京では更に4人になるという。うち3人で各6種の競技をこなすとあっては、1人が4?5の競技をこなし、かつそれが高得点でなければ、団体総合も個人総合も、上位、なかんずく金はとうてい難しい。オールラウンダーかつスペシャリストの要請は大変なことである。

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刑事裁判について改めて思うこと

2ヶ月ほど前のこと、刑事裁判官による「控訴審での弁護のあり方」についての弁護士会研修を受けてみた。見た目にも実直で裁判官らしいその方は、長年専ら控訴審(高裁)勤務なので、「実は裁判員裁判の経験がない(裁判員裁判は地裁だけなので)」。あら、じゃ、私と同じじゃないですか(笑)。検事を18年前に辞めたので、裁判員裁判の経験もなければ被害者参加制度の経験もない。依頼される刑事事件といえば公職選挙法違反その他、およそそうした新しい制度には無関係なものばかりである。

さて、一審判決を不満として控訴する場合は控訴趣意書を書くのだが、この書きっぷりが二審での勝負を決めるといって、過言ではない。判決のどの事実認定あるいは判断が客観的証拠や合理的な経験則に照らして誤っているかを、いかに強く二審裁判官に訴えることができるか。しかし、それが全く分かっておらず、一から自らの主張をしてくる趣意書が結構あるという。加えて、もともと裁判は一審勝負であり、出せる証拠はすべて一審で出しておかねばならないのだが、分かっていない弁護士もよくいるという。つまりは未熟な弁護士によって、うまくやれば無罪が取れる事件が有罪だったり、本来はもっと刑期が短くて済むのが長くなったり、執行猶予が取れる事件が実刑になったり…ということになる。どれほどの悪人であっても、法治国家の下、きちんとした弁護を受ける権利はあり、それを尽くした上で確定した刑罰だからこそ、服役後の更生も図れるのである。

未経験の負い目があり、ちょくちょく裁判員裁判の研修を受けている。すべて実際の事件に基づいていて、傷害致死や強盗致傷などが多いが、先日は初めて危険運転致死罪だった。これも裁判員裁判の対象だが、素人さんに大丈夫か? そもそも15年前に新設の罪名だから、法律家でも分からない人は珍しくないのだ。それでも事件が来たら勉強すればよいが、裁判員はその日に来て、その日初めて起訴状を見るのである。

模擬法廷が始まる。検察官の冒頭陳述によると、被告人(役)は30代の職業運転手。夜10時頃、交差点は赤信号だったが、左右を確かめると車はおらず、名古屋まで走った後だったので疲れて早く家に帰りたい一心で、時速50キロでそのまま交差点に入った。すると、倉庫があって視界が悪かった右側から入ってきた車と衝突、運転していた女性と子供(5歳)の両名が死亡した。

これを受けて、弁護人が冒頭陳述をするのだが、なんと公訴事実は争わない! びっくりである。危険運転致死罪が設けられた立法趣旨は、私も当時参院法務委員会にいて携わったので知悉しているが、飲酒運転常習者や暴走族のような、過失ではなく故意犯に等しい運転態様を、まさに故意犯として厳しく取り締まろうというものである。これは前方不注視や停止義務違反といった普通の運転ミスとは質的に異なっている。平成25年、自動車運転関係の致死傷罪はすべて刑法から独立し、「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」という特別刑法によって律せられることになった。普通の運転過失致死傷は「7年以下の懲役・禁錮又は100万円以下の罰金」(5条)であるところ、危険運転によって人を死亡させた場合には「1年以上の有期懲役(20年以下)」(2条)と格段に重い。当然のことながら、どちらを適用するかによって量刑は著しく違ってくる。

事案のように、たまたまの赤信号無視は、条文にいう「殊更に無視」ではないし、時速50キロは「かつ重大な交通の危険を生じさせる速度」ではない。弁護人は、検察の起訴に唯々諾々と従うのではなく、素人の裁判員に対してその立法趣旨を延べ、本件は危険運転の構成要件に当たらず、通常の自動車運転過失致死に過ぎないと、争うべきなのだ。

遺族である被害者夫の陳述、被告人妻の陳述、そして最後に被告人が陳述した。検察官の求刑は懲役10年!(まさか) 続く弁護人は、量刑グラフを示して、懲役6年から8年が妥当である! そのあとの評議は聞いていないので分からないが、被告人にとって良くて6年、悪ければ10年近く服役することになる。重すぎる。なぜならば、この事案は、法が予定している故意相当事案ではないからである。過失と故意はまるで違う。人を殺そうとして殺すのと、不注意の結果人が死んでしまうのとでは、天と地ほども違う。そもそも刑法は故意犯をのみ処罰し、過失犯は例外としている(刑法38条1項)。被告人は事故を起こしたくて起こしたのではない。起こしていいとも思ってはいない。直ちに救助したが被害者両名死亡。逮捕され、勤務先は解雇された。自らにも5歳の子供がいるが、妻子を路頭に迷わせるかもしれない。その交差点に通りかかるのが5秒違えば避けられた事故だった。そんなに長く服役させて、一体何を反省させるというのであろう。せいぜいがその一瞬を不運だったと後悔するだけになる。

裁判員は、当然のことながら、故意と過失の区別もつかない(大学で教えているから、それはよく分かる。私だって本気で勉強するまでちっとも分からなかった)。もちろん危険運転がどのように普通の交通事故と違うのか、どれだけ重いのかも、分からない。まして量刑感覚などあろうはずがないのに、一体どんな根拠で判断させるというのだ。裁判員裁判では今や量刑グラフが当たり前になっているのだが、裁判はゲームではないと腹立たしささえ覚えた。

実際の法廷も同じようなものであろう。妻と子供を一瞬にして奪われた遺族が気の毒なのはもちろんだが、被告人や家族も心から気の毒である。被告人がどれだけ長い間服役したとして、被害者は二度と戻らない。憎むといっても、過失と故意とでは根本的に違うだろう。遺族にとって癒やしになるのか? また刑罰はひとり遺族の報復感情を満たすためだけにあるのではない。事実認定ばかりか量刑判断をも裁判員に担わせる制度を導入した以上、正しい起訴、正しい弁護、拙速でない審理は当然の前提であるはずだ。他人を服役させる判断をして平気な人などいようはずがない。たまたま事件審理に巻き込まされた方への責任をも、法曹関係者は背負っているはずである。

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都知事選の結果に思うこと

小池氏有利との読みはあったが,ここまでの大差がつくとは。291万票! 4?年前の猪瀬氏434万票には及ばないが,2年前の舛添氏211万票を軽く上回り,戦後2番目の大得票である。増田氏(自民・公明推薦)179万票と鳥越氏(野党共闘)135万票を合わせてようやく上回るくらいで,全体の44%を占める(60%近い高投票率。前回46%)。

そうだよねえ,みな女性知事が欲しかったんだよね,とは思う。台湾で初の女性総統,英国で2人目の女性首相,そして米国では初の女性大統領が誕生しそうな時代である。日本で初の女性首相誕生はまだまだかもしれないが,知事や大臣はもう普通にいるこの時代,日本の顔である東京都知事に女性がなれば,来る東京オリンピックを見据えてよけいに相応しいと思った人は多かっただろうと思う。しかも男性知事が2人続いて金銭に絡むスキャンダルで辞任した後なのである。

ただでさえ女性が有利な状況にもって,増田氏は人柄は実直だし行政経験もあるが,知名度がないし,どうにも華がない。東京オリンピックのことをも考えても,ちょっとなあと思った人も結構いただろうと思う。野党連合も告示ぎりぎりようやく知名度のある鳥越氏を担いできたが,肝心の政策がまったくといっていいほどなかった。参院選で改憲勢力が3分の2を超えたことに危機感をもったなど,国政参加であれば格別,知事の政策としてはピント外れである。原子力云々もしかり。おまけに76歳の高齢(知事は激務だし,4年後は80歳となる!)とあっては駄目だと思った人も多かったと思う。小池氏自体を積極的に評価していないとしても,消去法でそうせざるをえなかった人も結構いたであろう。選挙というのは常に,ベストではなくベターを選ぶ制度である。

そもそも小池氏のバイタリティは生半可なものではない。思い起こせば去る10年以上も前のいわゆる小泉劇場。彼女は,従前の兵庫選挙区から完全な落下傘で,郵政民営化反対の現職議員のいる東京の選挙区に鞍替えし,見事に勝利した実績を持つ。小泉氏の喧嘩戦法に倣ったのか,「就任冒頭,都議会を解散する」宣言をし,自民党都連・都議会を対抗勢力に位置付け,女1人の孤独な戦いを演出することによって,多くの都民を自らの味方につけることに成功した。SNSの効果的利用なども突出していたという。

立候補そして選挙戦を通じて自民党との軋轢も多くあったが,このうえは,その人並み外れたエネルギーをもってして,停滞した都政を建て直し,4年の任期を実り多いものとして邁進されることを,一都民として心より願うものである。

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テレーザ・メイ首相誕生に思うこと

結局あの後、失言のレッドサム氏が撤退し、保守党党員の選挙を行うことなく、メイ首相が誕生した。四半世紀前のサッチャー首相誕生に続いて2人目の女性である。イギリスのEU離脱を進めるメイ首相は直ちにドイツに飛び、EUの中心人物であるメルケル首相と会談、共同記者会見に臨んだ。英独、あれまあ、こんな大国のトップがどちらも女性なのだ…。

共にとても感じの良い人である。しゃべり方も落ち着いている。熟考したうえでの発言、冷静で無駄口を叩かず、使命感に溢れた姿に好感が持てる。同年代の2人の共通点は、父親が聖職者であること。そして山歩きが趣味であること(夫はいるが子供はいないことも共通だ)。

どちらも極めて頭脳優秀である。メルケル氏は物理学でメイ氏は地理学、で思いついた。サッチャー氏は化学であった。理系(地理学は理系と文系両方に跨がるかもしれない)は基本的に頭が良いと、完全に文系の私はかねて思っている。専門分野をとことん極め、論理的な思考で、冷静に客観的に物事を対処できる特殊な頭脳。惜しむらくはその関心と関わる世界が狭きに止まることが多いが、もしその人が文系的センスも合わせ持ち、その関心を大きく社会や世界に向けることができれば、鬼に金棒であろうと思う。

加えて、気がついたことがある。父親が聖職者であることの意味である。父親の滅私奉公の精神を、遺伝と環境両方で受けついでいるのだ。サッチャー氏の父親は聖職者ではないが地元の名士であり、氏は父親を大変尊敬し、大事なことはすべて父親から学んだと言っていたそうである。誰からも尊敬される立派な父親の娘であることは、強烈なアイデンティティーとなり、不屈の精神力の源となるであろうと思える。男性的職業の最たるものである政治において、理想とする男性モデルを身近に見て育ったことは大きな背骨になると思うのだ。

メイ氏がおしゃれで有名であることも、おしゃれ大好き人間の私としてはとても嬉しいことである。ヒョウ柄靴がトレードマークだとか、実にたくさんの派手目な靴を持っている(イメルダを思い出した(笑))。公の場にふさわしい靴ではないように思うし、胸の谷間を見せる服などもどうかと思うのだが、イギリスではそれはセクシーさであり、歓迎されるという(本当?)。ともあれ、メイ氏は大柄で(メルケル氏と並んで10センチは高く感じられた)、腰の位置が高く、脚がすらりと長いので、膝上丈のスカートも綺麗に着こなしている。サッチャー氏は非常な美人であり、とにかくエレガントだったので、着る物にいちいち関心を持ったことはないのだが、メイ氏はこれから楽しみである。

好感度抜群の両氏に対して、思い浮かんだのがヒラリーである。大統領夫人だった頃はなかなか魅力的だと思っていたが、今は残念ながらそうは感じない。年を取ったということもあるのだろうが、自己顕示欲とあくの強さが顔に滲み出ているようだし、しゃべり方もヒステリックのように感じる。全女性の代表として「ガラスの天井」を突き破るかのように言うが、本心では、自分が特別の存在だときっと思っているのだろう。「今テレビを見ている少女たち、次はあなたの番かもよ」って、次は実に50年後になるの? 今40代・50代の女性が続くようでないといけないのでは? 人前で泣いたこともあるし、英独の、自然体で冷静沈着な女性とは残念ながら器が違うと感じてしまう。ヒラリーは…弁護士でした。

能力と適性があれば今や女性でも国のトップになれる時代である。ヒラリーがもしトランプに負けるようなことがあれば、それは女性故に負けたのではなく、ヒラリーという個人が負けたのである。女性を国政に、様々な分野のトップにと、かけ声を出すのは簡単だが、だからといって女性であればいいはずはなく、私は女性だから票を入れてよ、というのは違うと思う。しかるべく地位には、男女に限らず、器の備わった人を充てなければ、本人はともかく周りが不幸である。

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『ネットショップで詐欺に遭い、振り込んだお金を取り返したい』

自由民主党月刊女性誌「りぶる8月号」

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