猪瀬・渡辺喜美事件、そして袴田事件に思うこと

猪瀬氏の事件、3月10日になっても発表がないので、逮捕・起訴がないことは読めていた(勾留期間は20日なので、3月末の異動を見越せば3月10日はタイムリミットである)。はてさてどうするのかと思っていたら、公職選挙法違反(収支報告書の不記載)により、略式請求での罰金50万円というニュース。なんとまあ軽いこと! しかし冷静に考えて、収賄罪での立件はハードルが高い。まずは贈賄者の供述が不可欠であるが、贈賄側が5000万円供与は病院誘致のための賄賂であったと述べようはずはない。略式請求には被疑者の同意が要るので、猪瀬氏は個人の借入れだったなどと弁解もしていたものの、結局は選挙資金としての借り入れだった(そしてそれを記載しなかった)ことを認めたことになる。法定刑は禁錮3年以下又は50万円以下の罰金なので、選択した罰金刑としては最高刑になったのである。

これが何を意味するかといえば、その16倍もの8億円を借り入れてやはり収支報告書に記載しなかった渡辺喜美氏は同罪に該当し、しかも罰金ではもはや済まないということである。そもそも、たまたま見つかった猪瀬氏事件の5000万円とは違い、この事件では貸したほうが資料を揃えて告発をしているため、立件は簡単である。今日からの消費税アップに備え、庶民は買いだめやら買い控えやらで工夫を凝らしているというのに、一体この金銭感覚の麻痺は何なのであろう。政治家たるもの、説明責任をきっちり果たすべきは当然である。

もともとこの党は、渡辺氏個人の党である色彩が極めて強く、党首の不祥事が発覚したので首をすげかえて存続を図ることは難しい。すでに袂を分かった結いの党は当面胸をなでおろしているかもしれないが、確固とした基盤を持たないので先行き不透明である。維新の会も党首暴走の行き着く先が見えてきて、急激に支持率を落としている。民主党も打開策がまったくもって見えてこない。野党があまねくこの調子では与党独り勝ちの色彩が濃くなる一方だ。健全な政治には健全な野党が不可欠だというのに。

ところで袴田事件の再審開始決定が静岡地裁でなされ(裁判長は司法修習同期同クラスである)、袴田被告は釈放された。私もだいぶ前から冤罪だと思っていた。みそ製造会社の従業員でありボクサーであった袴田被告が専務一家を惨殺して放火する動機も分からなければ凶器も特定されたとはいえない。しかも、みその中から発見されたとする血痕つき衣類5点が提出されたのは公判開始以降。その衣類は被告のサイズとは明らかに違っている。一番若い左陪席裁判官は無罪を主張したものの容れられず、やむなく死刑判決を書いたという。精神を病んで裁判官を辞職、不幸な人生を歩んだようである。

袴田被告は、すさまじい取調べにかけられてやむなく自白したが、公判では一貫して無実を主張していた。事件時30歳が今すでに78歳。実に48年という人生の大半を、無実の罪を着せられたまま勾留されて過ごす。その責任を、警察官、検察官、そして裁判官はあまねく負わなければならない。負の司法が突きつけるのは重たすぎる現実だ。冤罪の裏にはあまねく真犯人がいる。事件時離れにいて一人生き残ったとされる長女は、袴田さん釈放の日に死亡しているのが発見されたという。ネットを見ると長女真犯人説が飛び交っているが、いずれにしてももはや真実は永遠に闇の中だ。冤罪は真実を葬る。真実の探求こそが刑事司法の最重要の役割なのに。

冤罪が起こる度に、だから死刑は反対という人がよくいるが、この二つは直ちに結びつく議論ではないと思っている。冤罪はひとり死刑事案についてのみ許されないのではなく、たとえ罰金のような軽い事案であっても決して許されないからだ。「疑わしきは被告人の利益に」は刑事司法の大鉄則であり、疑いが残れば被告人は無罪にしなければならないのである。

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