祖父母殺害の少年,判決懲役15年に思うこと

昨年末から心に重く引っかかっていることがある。昨年3月,埼玉県川口市のアパートで,70代夫婦が刺殺されて現金を奪われた強盗殺人事件のことだ。犯人は当時17才の孫(被害者夫婦の次女の息子)。さいたま地裁の裁判員裁判は,昨年12月25日,懲役15年(求刑無期懲役)の判決を申し渡した。不当に重すぎる判決だと言わざるをえない。

この少年の生い立ちは,余りにも不遇すぎる。父親は小学校入学後に別居。母親は小学5年生のときに一時失踪,その後少年は,母親と男性(後に再婚して妹も生まれる)と,金がある時はホテルに,なければ公園で寝泊まりする生活になる。小学5年以後学校には行っていない。生活費に困った母親は少年に親戚からの借金を指示するようになり,少年は中学に行っていないのに「野球部に入ったので道具を買う」などと嘘を言って実父のおばから金を振り込んでもらっていた。義父が失踪した時16才だった少年は,埼玉県内の塗装会社で働き始め,給料の前借りを繰り返す。この事件に当たって,母親は「殺してでも取ってこい」と少年に指示していたという。そう,誰が見ても間違いなく,主犯は母親なのである。

問題は,検察がその母親を,強盗殺人ではなく,強盗でのみ起訴したことである(判決は懲役4年6月)。「殺してでも取ってこい」は常日頃のいわば口癖であり,この事件に限っての指示ではないと判断としたようだ。もちろん母親自身も殺人の共謀(指示)は認めなかった,となれば公判で少年を証人によばざるをえないが,母親の目前でなされるその証言は当てにならないと踏んだのであろう。

弁護人は母親との共謀を主張し,保護処分(少年院送致)が相当として家裁への移送(少年法55条)を求めていた。しかし裁判所は,検察の起訴通り単独犯との認定をした。現行の当事者主義的刑事訴訟下では,裁判所が訴因(検察による法的構成。ここでは強盗殺人の単独犯)を超える事実認定は普通しないので,この認定自体は裁判所の責任というより,検察の弱腰に責任を求めるのが筋というものである。

しかも無期懲役の求刑である。ありえない。強盗殺人罪(刑法240条後段)は被害者が2人いればたしかに通常は死刑だが,そもそも犯時18才未満には死刑を科せないのだから(少年法51条),最高で無期懲役である。極論すれば,たとえ5人を残忍に殺害したとして無期懲役でしかないのだが,本件が極刑をもってして臨むべき事件であり,また当該少年には酌量の余地は全くないと検察は考えたのだろうか。ありえない。

被害者は2人とはいえ,親族であり,他人の場合とは異なる。しかも真に責められるべきは母親なのである(これに異論を唱える人はいないはずだ)。少年は想像を超える過酷な環境の下で育った。母親は,子どもに愛情を注ぐどころか,自らの欲望の道具としてほしいままにただ酷使してきた。殺してまで金を取ってこいはいつもの言いぐさで,今回のことではないというのはただの言い訳であり,要するにそういう風に子どもを使ってきたということである。子どもにとってはどんな親であれ,唯一無二の存在だ。親が人殺しをやれと言えばそれに従う。そんなことはおかしい,お前に責任があるとなじれるのは,その人が普通に育ってきた故である。このような環境下では,子どもは是非善悪の判断はできなくなっている。たとえかろうじて出来たとしても,漠然とした正義ではなく,目前の親に従う。でないと天涯孤独になってしまうのだ。

裁判所は少年法51条2項を適用し、少年を懲役15年に処した(懲役10年にもできたのに)。だがそもそもが有期懲役刑(最高で10年以上15年以下。同法52条1項・2項)の事案である。少年法が改正されて犯時16才以上の殺人事件については原則刑事処分になったとはいえ(20条2項),もっと言えば,弁護人が主張するとおり,少年院に入れて,適切な教官の指導の下で立ち直らせるよう努力をしてもらうのが本人にとって一番だったと思う。祖父母も孫が処罰されず少年院に行ったからといって、天国から恨むことはなかったと思われる。

少年院教官はそうした意味で本当にプロである。未だ18才の者を以後長い間刑務所に入れて(もっとも少年の仮釈放は期間が短く,懲役15年であれば5年経てば仮釈放の対象にはなるが。58条1項2号)一体どんな効果が期待できるというのだろうか。周囲の大人ないし社会がなんとかしかあげられなかったのだろうか。本来は警察なり司法機関が出る前になんとかしなければならなかったのだ。ため息が出る。

カテゴリー: 最近思うこと | 祖父母殺害の少年,判決懲役15年に思うこと はコメントを受け付けていません

総選挙結果について思うこと

事務所を閉める今日になって、ようやく総選挙結果について書く気になっている。14日の後、当ブログにアクセスして下さった方々には申し訳ない。

この間様々なコメントを読んだ。経済至上主義になり、国全体が株式会社化しているので、政治もトップダウン式のやり方が好まれるようになったとの意見も一理あると思われた。とはいえ、そのこと自体が今日本の抱える最大の問題のように思える。経済は必要なものだが、決して一番に重要なものではない。人にはまずは心が必要であり、社会に温かさがなければ、人々は不幸であり、物は潤沢にあっても決して豊かとはいえない。

熱狂のまるでない選挙であった。期間中、どこもかしこも冷ややかな空気が流れていた。親しいベテラン代議士いわく、「こんなに追い風も逆風もない選挙は初めてだ」。実際その通りで、52%という歴史的な低投票率を記録した。どうせ投票に行っても何も変わらない。入れたい政治家、政党がない。それが正直な民意であったろう。

その低投票率に小選挙区のマジックが手伝って(オセロゲームのごとく、51%で100%の獲得が可能となる)、全体の僅かに20%程度の得票で3分の2の議席獲得となった。数の上では圧勝とはいえ、その現実をどうか謙虚に受け止めてほしいと願う。選挙の時に掲げられたのは経済のみ。だが、いざ勝利した暁には「集団的自衛権(や特定秘密保護法案)への信任を得られた」旨述べられたことに、悔しがっていた人が私の周りにも結構いる。

支持した者も決して、盤石な支持者ばかりではないのだ。不信感はある、かといえどの野党も信頼できないからと、消去法的に選んだ人も実際私の周りにも本当に多かった。今回、共産党が躍進した。これは、不甲斐ない野党しかない中、主張がぶれない共産党に投票するという、善良な国民のささやかな抵抗であったように思える。

残念ながら、政界エリートの中に今や反知性主義が蔓延している感がしてならない。客観的、実証的な事実に基づくことなく、ひたすら自分たちが正しいと信じる道を進む。これは国民にとって不幸なことであろう。だが、この政治形態も結局は国民が作り上げてきてしまったものなのだから、今後は皆がそれぞれ、諦めることなく、愚直に声を挙げていくことが必要であろう。人は人のために生きている。ささやかだけれども自分のなすべきことをしていきたいと思う。

カテゴリー: 最近思うこと | 総選挙結果について思うこと はコメントを受け付けていません

執筆『夫との離婚を考えていますが、生活が大変になると思うと・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる1月号」

カテゴリー: 執筆 | 執筆『夫との離婚を考えていますが、生活が大変になると思うと・・・』 はコメントを受け付けていません

笑顔を忘れずに、心身共に健康に生きたい

最近どんなことにでもわりと笑顔で応対できるようになった自分を感じている。笑顔とはつまり、心の余裕であろう。

振り返ると、目前のことに手いっぱいで、つい不愛想だったり、つい頭にきてそのまま人にぶつけたりしたことが多々あったと、反省をしている。とはいえ、まだまだ人間の出来た人には遠く及ばないし、たとえどれほど生きたとして、自分がとうていそうはなれない器であることも承知しているのだけれど、余裕があれば、何より自分自身が楽なことに気がついた。なので、真に怒るべき時は別として、ではない限りできるだけ笑顔でおれるようにしたいと思う。

長い間生きてきて、大げさなようだけど、今頃になってようやくある種の悟りが開けてきた感がある。悪いことが起こるともちろんかりかりするけれど、でもいい時もある。というより冷静に考えれば、後者のほうが圧倒的に多いのだ。悪い出会いもあるが、いい出会いもある。やはりこれも後者のほうが圧倒的に多数である。つまり全体として、人との出会いに恵まれ、良い人生を送らせて頂いているのは間違いがない。結局のところ、良きも悪しきもすべてが人生。すべてひっくるめて、どれもご縁であるに違いない。もし人生がいいことばかり、いい人ばかりでは、その良さも決して本当には分からないはずだろうし。

先日、メトロ内でぽろっと定期入れを落としたのを、さっと拾って渡してくれた人がいた。落としたのに自身気づいていなかったのだが、中には身分証明書まで入っていたので紛失したら大変だった。そのとき、あっと思ったのである。なくせば大騒ぎをする。運が悪い、不注意だ、悪いことが起きたと思うのだ。だが、定期入れがいつものようにあることにわざわざ感謝はしない。そこにあって当然と思っている。だがそうではなく、いつもの日常があることが幸せなのだと。事故に遭わない、病気にならない、そうしたことは決して当然のことではなく、感謝をすべき幸せなことなのだと。

周りを見ると、若くして亡くなる人がいる。病気になって不具合を抱えている人がいる。認知症になる人がいる。そうした不幸が自分にもいつ訪れないとも限らない。もしそうなれば、たとえどれほどの財産を築いていたとしても宝の持ち腐れになるだろう。つまりは健康以上に貴重な財産はない。健康で天気が良ければ幸せだと言った友人がいるけれど、私もまさに同感である。

心身共に健康であることは、それだけでとりもなおさず億万長者に匹敵するのではないか。ない物の不足を言わず、ある物にただ感謝をし、今後とも心身共に健康でありたいと切に願っている。

カテゴリー: 最近思うこと | 笑顔を忘れずに、心身共に健康に生きたい はコメントを受け付けていません

来る総選挙、また某「偲ぶ会」に参列して、思うこと

衆院総選挙は昨日公示、来る14日投票だが、一向に盛り上がらない。大方の国民は、自民党を信任しているわけではなく、ことに安倍政権の独裁的手法に違和感を覚えていると思われる。が、そうはいっても受け皿にしたい、力のある野党がいない!! 5年前「ザチェンジ」とばかりに勢いよく誕生させた民主党政権のお粗末ぶりが脳裏に焼き付き、怖くてもう任せられない。つまり、棄権がずいぶん増えるのではなかろうか。そして、自民党が得票数を減らしても(小選挙区制のマジックも手伝って)議員数で圧勝する公算が高いように思われる。さて結果はどうなるだろうか。

2年前、自民党はいわば敵失で勝利したのだが、負けた反省も総括もしていない。その後は知るとおり。公約にもない特定秘密法案や集団的自衛権の閣議決定などを断行し、これらについては今回の公約にも載せていない。「憲法は国家権力を縛るものである」との基本的な理解を欠くらしく、司法がすでに何度も「違憲状態」と指摘する一票の格差については是正措置がなされないままの今回の総選挙である。違憲立法審査権ないしは司法権の優越は近代民主主義のイロハなのであるが。

さて公示前、某元衆院議員令夫人の「偲ぶ会」に参列した。喪主67歳、奥様享年65歳。若くして恋愛結婚したご夫婦で、子供はないが、とても仲が良かった。衆参議員らが押しなべて来られない状況下ですら150人位もの多数の参列者があったのは、ご夫妻のお人柄故であったろう。冒頭、丁寧に編纂されたフィルムが回され、奥様の生い立ち、結婚の経緯、その後の二人の生活ぶりが参列者一同に示された。最後に「ありがとう」の文字がクローズアップ。その通り、きっと感謝の思いに満ちて、あの世に旅立たれたのであろう。会場には、奥様が好きだった物などが展示され、実に良い偲ぶ会であった。

ただ奥様はただ一つ、遺していく夫が案じられて仕方がなかったことであろう。年を取って妻に亡くなられた夫ほど辛いものはないと思う。家事はできないし、男は孤独に弱い生き物である。最近の事件で最も世間を騒がせている、60代女性による、高齢者を狙った結婚詐欺・殺人事件。一人暮らし・身寄りがない・持家がある資産家・病気がち、そういう高齢者が続々と狙われた。結婚してすぐの公正証書遺言書作成、中には結婚前に全財産を譲るという公正証書を作成させられた後に不審死を遂げた男性もいた。背後にいると思われる知恵者、また青酸化合物の入手経路など、この事件の成り行きには関心が高い。しかし、男性高齢者の孤独抜きにはこの種事件は成り立たないし、おそらくは形を変えてもこうした事件は増えていくのではと思わされる。

カテゴリー: 最近思うこと | 来る総選挙、また某「偲ぶ会」に参列して、思うこと はコメントを受け付けていません