大相撲九州場所が終わって

3連休半ばから少し寒くなり、家でストーブを出した。考えてみたら、11月ももう末なのだ。一時順当に気温が下がった後また暖かくなって半袖で済む日が続き、変だと感じていたら、やはりこの時期としては記録的な高温だったという。日本だけでなく世界中が同じで、地球の温暖化が否応なく進んでいると実感する。気温が順当に下がらないため綺麗な紅葉が見られず、なんだか寂しいなと思う。銀杏もきっと綺麗な黄色にならないのだろう。

昨日事務所に出るつもりが野暮用でばたばたし、今朝ようやく出てきた。ブログのアップもずいぶん遠のいたままだ。13日(金)夜、パリで無差別同時テロが起こり、それについて考えることがありすぎ、でもまだ頭の中の整理ができず、そうこうするうちに今年最後の大相撲場所が終わった。横綱日馬富士、2年ぶりの優勝である(13勝2敗)。

日頃熱狂的な?大相撲ファンの私だが、この場所は終盤見ていない。理由は簡単、日本人力士があまりにふがいなかったからだ。稀勢の里しかり、遠藤はさらにひどく、闘争心のかけらも見えない。日本人力士の優勝は実に10年前に遡る(大関栃東)。横綱は、貴乃花を最後にとんと途絶えたまま、情けないことにはその候補すら未だに見当たらない。相変わらずその筆頭といっては稀勢の里。体格に恵まれ怪我もあまりしないのに、メンタルが弱いせいか、下位に容易に星を落とし、気力が萎えると安易に土俵を割る。今年最後だからと昨日千秋楽、気を取り直してテレビをつけたら、なんと結び前の一番、このところ連敗中の日馬富士相手に、立ち合いから珍しい気迫で、すぐに得意の左四つになり、一気に寄り切った。こんな相撲を連日見せてくれていれば…と解説の北の富士も言っていた。同感(でもそれが出来ないのが稀勢の里である!)。

場所途中の20日、北の湖理事長が急逝した。まだ62歳だった。私が大相撲に嵌まったのはここ10年以内なので、現役時代の北の湖を知らないのだが、優勝24回(歴代5位)、「憎らしいほど強い横綱」と言われた。今とは違い、中学から現役力士を勤め、21歳2ヶ月という史上最年少で横綱に昇進、48歳で理事長就任。今年2月、国技館での魁皇(浅香山親方)の部屋興しパーティに伺ったら、前に座っておられた。テレビで見るとおり愛想がなかったが、今思えば大変な毎日であったのだろうと思う。直腸癌末期なのに、痛みを押して最後の最後まで仕事を全うされたことに、古武士を見る思いでひたすら頭が下がる。日頃「土俵の充実」を言われておられたのを受けて、残りの場所も滞りなく行われた。天国でほっと胸をなで下ろしておられることと思いたい。

後任は代行を務めた八角親方になるのだろう。この方のことはよく知らないが、その後は貴乃花親方とも言われている。当然ながら、力士として強いことと理事長としての信望、マネジメント能力は別である。国民栄誉賞まで受けた千代の富士が協会の理事選にも落選していることはそのことの一つの表れなのだろう。若い時から相撲ばかりしてきて、常識や教養をというのが無理なのかもしれないが、理事長にはバランスの取れた方を望みたい。少なくとも、自分の足りない所を認識し、他の意見に素直に耳を傾けることのできる度量を強く望みたい。

強い日本人力士をと願うのは当然だが、野球やサッカー、テニス、最近はラグビーと、こう選択肢が多くなっては、有望な若者(と親)があえて、怪我が多く、現役寿命の短い相撲を選ぶのはそもそもが難しいであろう。加えて、大相撲は必ずどこかの部屋に住み込み、親方を親かつ師匠として上命下服、様々な独特のしきたりに順応し、タニマチとも付き合い、協会から与えられた取組みに勝ち、番付を上がることが至上命令という特殊な世界である。よほどの相撲好きでないかぎり、自由に慣れてかつ経済的にも困らない若者と親を引きつける力に乏しいことは否めないと思う。

私が個人的に強く願っているのは、番付を安易に上げないで欲しいということである。他の競技であれば、互いに戦って勝つことにより順位が上がる。分かりやすく、誰も疑問に思わない。ところが、大相撲の番付には一応の目安はあるものの、そこに裁量が入ってくる。名前を出して申し訳ないが、例えば、横綱鶴竜。今場所千秋楽白鵬に勝ってようやく9勝である(白鵬はまさかの3連敗。怪我が悪化したのだろうか。それとも北の湖の遺言ともなってしまった「(白鵬が栃煌山相手にやった2回の)猫だましは横綱がやる手ではない」批判によって、相撲の神様に見放されたのだろうか?)。

そして例えば、大関豪栄道。大関昇進の時、大丈夫かという声はあったのに、たぶん集客を考えて?無理に上げた。案の定昇進後勝ち越しが精一杯、二桁勝利など夢のまた夢、話題になることといえば「カド番」脱出ではあまりに本人も情けない。地位は実力が伴ってこそ。与えるのはひとり協会なのだから、見誤りの責任は重大だと言わざるをえない。番付通りの実力でなければ、成り立たない競技なのが大相撲である。今場所の照ノ富士を見ていて、拙速に横綱になどとはゆめ考えるべきでないことが分かったはずである。

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執筆『離婚を取り下げたのですが、弁護士がお金を返してくれません・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる12月号」

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学力より重要な「非認知スキル」について

なるほどね、と思う。IQ(知能指数)や学力など数値化が可能な「認知スキル」に対し、気質や性格など目に見えない力である「非認知スキル」こそが経済的・社会的な成功に大きな影響を及ぼすというのだ(週刊東洋経済10月24日号)。

とりわけセルフコントロール力(自制心)ややり抜く力が大事であり,そのコアは「勤勉性」だという。試験でも就職でも、目標を定めたら、実現に向かってひたすら努力する。遊びなど誘惑には乗らない。今日はいいか、明日からやろう、などとは思わない。自らに負けないことが人生に負けないことであり、私も周りを見ていて、分野を問わず、成功者にはその力が備わっていると思う。もっとも私の言う成功者とは、同誌の趣旨とは違い,社会的地位や高収入そのものに意義があるのではなく(それらは単に、結果として随伴するものに過ぎない)、有意義かつ後悔のない人生を送れるという意味での成功者なのだが,基本は変わらないと思う。

真面目でこつこつやる子はたとえ知能や才能自体が大して優れていなかったとしても,社会でそこそこやっていける。だが、勤勉でない者は、たとえ生まれついての知能はかなり良くても、結局は脱落するように思う。大学で学生によく言うのだが、自分の人生は自分で責任を持つ、どこに就職できるかで人生が大きく変わる、目標に向かってとにかく努力をすべし、今日はいい、なんて考えない、遊ぶのは就職が決まってからにしなさい‥と。勤勉性に加えて大事なことは,社会性,協調性,思いやりといったことである。挨拶が出来る,にこやかに出来る,普通に意思疎通が出来る…こういった当たり前のことが当たり前でなくなっているのは,家の躾けの問題もあるが,ラインやツイッターといったやりとりが主流になって,人との関係が希薄になっているからのように思う。これは今,どの社会でも大問題であると感じている。

「勤勉性」に戻る。最近つくづく思うのだが,努力できる力こそが人の真の能力ではないだろうかと。人生は長い。たとえ希望の所に就職をしても,それはスタートラインでしかない。1年、2年‥5年、10年‥20年‥30年‥常に努力しているのと、いつかしらそれを止めてしまったのではどれだけ大きな差が出来てくることだろう。怠けないことと無理をしないこと。その折り合いがなかなか難しいと感じていたが、だんだんと自然に対処できるようになってきたのは年の功であると思う。

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女児殺人放火事件の再審決定に思うこと

そういえば、こんな事件あったよねと思い出した。去る20年前の7月、大阪市の住宅建物に組み込まれたシャッター付き駐車場で火災が発生、住人である母親、内縁の夫、長男(8歳)は脱出したが、駐車場に隣接する浴室で入浴中だった長女(当時11歳)が焼死。当初、風呂場の種火が、車から漏れたガソリンに引火した事故と思われたが、長女には保険金(災害時1500万円)がかけられ、死亡翌日その請求が行われたため、母親と内縁の夫両名が現住建造物等放火、殺人、詐欺未遂で逮捕された。9月である。

実行犯とされる内縁夫は捜査段階で自白をしたが、公判では否認。2人は最高裁まで争ったが、共に平成18年無期懲役が確定し、別々の刑務所に服役中だった。再審開始決定はめったに通らないが、認められた以上、近く開かれる再審で無罪となるのは必至である。理由の中心となったのは「自白の杜撰さ」である。

一般に、放火の捜査は非常に難しい。殺人であれば死体が残るが、放火はすべて焼けてしまうため、放火方法の特定は自白による以外にはない。「自白以外に証拠がない」のは今回の事件に限ったことではなく、放火全般に言えることなのだ。故に、放火の捜査には「放火実験」が必須である。どうやって火をつけたかという自供内容を鵜呑みにしては絶対にいけない。意外とそう簡単には火はつかないものなのだ。その供述通りにやって実際に放火が可能かの実験をする。あ?あ、こんな立派な?襖を燃やして勿体ないなあなどと思ったものだが、仕方ないのだ。法廷で否認に転じ、「いえ、私はやっていません。調書は警察官が作った作文です」と言ったとしよう。目撃者もなく、確たる物証もない限り、犯人特定はただ「自白の信用性」による。そしてその自白内容では火がつかないことが、裁判で初めて行なわれた放火実験で明らかになれば、もちろん無罪である。そんな例はたくさんある。巧妙な被疑者ほどあえて嘘をつくことは、捜査に携わる者のいわば常識である。

大阪府警は優秀だとずっと思ってきた。検事何するものぞとばかりにちょとやりすぎるところがあるが、今回の顛末にはとにかくびっくりである。7リットルもの大量のガソリンを撒いて(!)パンツ一丁で(?)ライターで点火したって(!)。ありえない。常識で考えても分かるだろう。そんなことをしたら大爆発するかもしれないから、怖くて出来ない。自らは火傷必至だが、負傷はしていない。自動車の燃料タンクから手動式ポンプでガソリンを吸引したというが、その手動式ポンプも見つかっていなければライターも見つかっていない。つまりは自白を支える客観的証拠がない。そんな捜査の基本が、警察ばかりか検事も分からなかったのだろうか。

事の不自然さに弁護士会が動き、各種科学的実験によって、ガソリンが漏れて(もちろん300ミリリットルほどの量である)自然発火の可能性があることが立証された。そう、放火事件において、自白の信用性(客観的証拠との符合性)が飛べば、無罪は必至である。となると、放火を手段にしたとされる殺人も飛ぶ。保険金詐欺(未遂)も飛ぶ。一蓮托生である。そして、「疑わしきは罰せず」は刑事裁判の鉄則である。

もちろんこの人たちはずいぶんと怪しい。それ自体は疑いようがなく、だからこそ警察も動いたし、3度の裁判でも各有罪とされ、求刑通りの無期懲役が下された。そもそも娘や息子に保険金をかける必要など、あるはずがない。投下資本の元はいつかは取らなければならないはずだ。当時、4000万円ものマンションをほぼすべてローンで購入しようとしていたし、カードや自動車ローンも抱えて、経済観念のまるで欠如した生活を送っていたことは判決の糾弾通りである。何より許せないのは、この内縁の夫は被害女児と性的関係を持っていた! 強姦である(刑法177条は、13歳未満の女児であればたとえ同意があっても強姦とする)。この恐ろしすぎる事実は本人も捜査段階で認め、判決でも認められ、本人も支援者への手紙の中で認めている。被害児童亡き後、この事実がどうやって発覚したのか、知りたいところである。

いくら女児にかかった保険金が欲しくても、普通に殺害したのでは容易にばれる。その点焼死であれば事故処理される可能性が高いと考え、周到に準備をして実行する。しかし捜査が始まったので、ありえない自白をした(あるいは捜査官がストーリーを勝手に作ったのだろうか。いずれにしても大失敗である)‥と考えるのだが、どうだろうか。今となっては、真実を分かる術がない。それが残念である。刑事司法に携わる者にとって一番大切なのは「真実」だ。えん罪事件というのはことごとく、別の面から見れば真実が葬り去られたということである。それでは被害者は浮かばれない。時は返決してらない。捜査こそきちんとやらなければならないのである。

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執筆『亡くなった妹の遺産について弟と話し合いができないのです・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる11月号」

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