2016年──多様化,グローバル化の時代に思うこと

新年早々,サウジアラビアとイランの国交断絶,はたまた北朝鮮の水素爆弾発射?,などなど実に慌ただしい。国会は早や4日にスタート,7月には参院選を控えているので永田町の慌ただしさも半端ではない。

昨日(成人の日)は一日家にいたので,ネットであれこれ調べ物をしていた。国際問題は一見は国同士の問題に見えても,背後に各同盟者や敵対国,各思惑や利益が絡み合い,長い歴史や背景もあって,非常に複雑だ。中東には,イスラエルを巡る長い紛争に加え,このところシリア紛争とかイスラム国の台頭など多くの問題が起こっている。背景にイスラム教義の多数派であるスンニ派(サウジアラビア)と少数派であるシーア派(イラン)の対立があることはわりとよく知られているが,その実態は,宗教対立ではなく同地域における2つの国の覇権争いにあるのだそうだ。もちろんその背後にはアメリカを筆頭として世界の大国の思惑・利益が絡む。

翻って9.11時,ブッシュ大統領は同時多発テロを戦争だと宣言したが,昨年オランド大統領もこれに倣った。敵はどちらもイスラム過激派ということになるのだろう。つまり国境もなければ国籍も不問である。かつての戦争はのどかだった。当事者はあくまで国同士。互いに宣戦布告をしたうえ(しないと国際法違反である)軍隊同士が戦い,適当なところで仲介国を立てて講和条約を結ぶ(それができない場合には無条件降伏をせざるをえない)。しかし以後,近代兵器がどんどん開発され,核兵器もあれば,見えないドローンも多用される。おまけに国ではなくイスラム過激派という思想・行動を敵とするのであれば,誰が敵なのかはっきりしない。ということは,戦争に終わりもない。

今回フランスら多国籍軍がイスラム国支配地域を精出して空爆したことにより,人はたしかに少なくなり支配地域も小さくはなった。しかし,昔と違って,今は思想自体はネットでいかようにでも拡散するので,共感し行動を共にしようとする者を防ぐことは不可能である。多くの識者が言うように,テロを予防するためには,経済格差をなくし信条・人種差別をなくすことこそが肝要なのではなかろうか。フランスは移民に対して徹底的な同化政策を採っている故にか,イスラム女性教徒のベール着用の禁止などを徹底的に行ってきた。これで反発を招かないのか危惧していたが,広い大陸の中で,ほかでもないフランスが狙い打ちされたのにはそうした背景もあったのではなかろうかと思ったりもする。

移民排斥や愛国主義といった思想・信条をおおっぴらに掲げる政党がヨーロッパ各地で勢いを伸ばしている。今年大統領戦となるアメリカでは,共和党の一番人気はなんと依然トランプ氏である。彼は如実な問題・差別発言を繰り返していて,合衆国憲法に明らかに違反するイスラム排斥も明瞭に口にしている。その人気が下がらないということは,とりもなおさず,同調する国民が多いということだ。ロシアのプーチン大統領の支持率が90パーセントと異様に高いのも,強いロシアを目指す姿勢が国民の支持を受けているからであろう。ヨーロッパは単一のEUを目指したにかかわらず,結局のところ,世界中それぞれの国がナショナリズムないしはポピュリズムを鮮明にしてきたように思われる。

外交も経済も政治も,すべてが否応なく,多様化そしてグローバル化時代に入っている。偏狭なナショナリズムに陥ることなく,しかしそれぞれの根っこをしっかり持ちながら,これらに対応していくのは誰にとっても並大抵のことではないように思われる。

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最高裁が夫婦同姓を合憲と判断したことについて

この16日午後3時の最高裁大法廷判決は、以前より大注目であった。ことに、婚姻の際の強制的同姓についての判断。最高裁がその初めての判断を示すに当たって大法廷を開く以上、周囲では違憲判決が出ると期待する向きも多かったし、私もそう期待していた一人である。だが実は(もう一つの待婚期間のほうの違憲判決とは違い)そうはならない、とある情報筋から聞いていた。だって違憲とまでは言えないでしょう(つまり立法政策の問題だ)と。そしたら、やっぱり、だった。

もっとも、非嫡出子の相続分が半分なのを全員一致で違憲としたのとは違い、今回は合憲10名に対し、少数意見が5名いる。判事15名のうち女性は3名。その3名が全員違憲としたうえ、男性が2人(両名とも案の定!弁護士出身)。このことは評価されるべきかもしれない。裁判官が替われば違憲判断が出るかもしれないし(なにせあと3名が組すれば多数意見になるのだ)、きっとそのうち替わるかもしれないと期待できる故である。

違憲とはしないと聞いた時、つらつら考えてみたのだが、理由はわりあい簡単である。待婚期間の半年を100日に縮めるのであれば、民法を改正してその旨の通達を役所に出せばよいだけだ。だが、別姓は違う。最高裁は違憲としたわ、でも国会は何も是正しないわだと、戸籍係は、別姓の届出を出してくる夫婦についてどう扱うのか。現場はせめぎ合いになり、とても対応できない。訴訟だって増える。

そもそも別姓と簡単に言うが、中国や韓国のような別姓しかない国もあれば、これまで我々が議論してきたような選択的夫婦別姓もあるし、議論の過程で折衷案として出してきた、別姓にしなければならない例外的理由があれば家裁の許可によって認めるといったものもある。加えて、子供の姓をどう定めるのか、という大問題がある。つまりは制度を変えるためには、民法及び戸籍法を詳細に改正しなければ現場は動けないのである。おそらくはその混乱を回避したのだろうと見ている。

寺田長官が言うように、本来こうしたものは裁判所ではなく、国会が動かなければならないのだ。しかし、今を去る10年以上前の国会議員時代、選択的別姓導入に熱心に携わってきた者として、夫婦同姓が日本の伝統だ(明治からですよ! そもそも大方の人に姓はなかった)、別姓は家族を壊す、国を壊すとまで声を大きく主張していた人たちが、これでその主張にお墨付きを得たように合点することが最も嫌である。裁判所は、あくまで違憲ではない、と言うだけであり、これでいいですよとは言っていないのだ。ましてそうでないといけないのだとはまったく言っていないのである。

婚姻して違う姓になると困る人はたくさんいる。通称が認められたとしても、実に不便である(弁護士は旧姓で登録できるが、場面によって使い分けが必要になる)。夫婦のどちらかにその不便さを甘受しろと言うのでは、法律婚も減り事実婚となるだろう。であれば少子化に歯止めもかからない。フランスが歯止めをかけたのは、事実婚にも法律婚とほぼ同様の法的権利を認め、子供の差別を無くしたことによると言われている。社会に寛容さがないととても生きにくい。

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『亡父の遺言に納得しない弟が、遺留分減殺の請求をしてきました』

自由民主党月刊女性誌「りぶる1月号」

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今年を振り返って、思うこと

一日家にいられる休日は久しぶり。昨夜食糧も買ってきた。朝目が覚めたら、8時。昨日はすごい雨が上がったと思うとフェーン現象のような熱気になったが、今日は一転青空が広がり、東南向き高層階の我が家はぽかぽかの25度だ(日当たりと眺望で家を選んでいる)。このあとは休日の過ごし方の定石である、語学の勉強とピアノである。

クリスマスの頃、顧問先の御自宅でピアノ演奏の予定である。50畳は優に超えるだろう瀟洒なリビングに100人近くの客。スタインウェイ(木目)の大きなグランドピアノがある。そうだクリスマスだと先月急に思い立ち、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」、シベリウスの「樅の木」、チャイコフスキーの「四季」から11月「トロイカ」(12月「クリスマス」は今一つ面白くなく、トロイカが出色である)など数曲を選び、時間を見つけて練習してきたが、自家薬籠中の物になるにはまだ時間がかかりそうだ。と諦めたのが数日前。結局はいつものレパートリーである、ドビュッシー、ショパン、リストといったところになるだろう(ベートーベンが最も好きだし最も自信があるが、よほど音楽好きな人にでないと聞かせられない)。

すぐに暗譜が出来る人が羨ましくて仕方がない。だが、ないものねだりをしても仕方がなく「ある物に感謝」、初見が早いことに感謝をせねばと思う。弾き始める前の譜読みに時間とエネルギーが取られるならば、とうの昔にやめてしまっただろう。私の人生において、ピアノを弾くことは最上の気分転換であり、もしこれがなかったら、スポーツは(見るのは好きだけれど)苦手でやらないから、一体どうしていたのだろう。頭を使う仕事なので、ストレス解消には体を動かすことが必要だが、思い当たることといえば散歩くらいしかない(山登りはしんどい)。歩くことも街歩きも好きだが、でもやはりこれだけでは寂しかったなあと思う。

今年はいくつか新しい役職も得て、場面場面で気持ちの切り替えをすることが多い。最初はどうなることだろうと思っていたが、不思議なほど「なるようになる」ものである。つまりは「案ずるより産むが易し」。今年中に済ませておきたい起案が、自分の事件はもちろん懲戒委員会のややこしい案件もあって、残り少ない日を数えていると(夜はこの時節結構入っているし)やはり休日出勤しないといけないよなとも思ったりするのだが、なるようになるだろう。というか、なんとかするだろう。

このところ健康管理がきっちり出来るようになった。風邪の常習者だったのが嘘のようにこの2年引いていない。スケジュールに穴をあけるなど、人に迷惑をかけるのは私が最もしたくないことである。だから「今日出来ることを明日に延ばさない」。もちろんそうしたい誘惑に駆られることはよくあるのだが、そんなことをしたら、もし明日何か突発的なことが起きたときには対応できなくなるかもしれない。やっても内容が疎かになるだろう。早め早めに対応するためには、とにかくなんであれ、まずは取りかかることである。勤勉な性質なので、いったん始めれば最後、やり遂げたい(片付けたい)強い欲求に駆られ、必然的にやってしまう。そうした自分自身がよく見えてきた昨今でもある。

飲むのは体によくないし、時間も取られるので、ほどほどにしている。結果、仕事関係の飲み会以外、よほどのことのない限り付き合わないようになっている。最近私の付き合いが悪くなったと感じているであろう周囲の方々、そういうわけですので、どうかご了解くださいませ(笑)。

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裁判員制度の問題について思うこと

あっという間に12月である。当たり前だが,年々早くなっている! でもまあ,健康な毎日の積み重ねが1ヶ月となり,それが12回重なって1年となるのだから,実にありがたいことである。過密スケジュールの時には無事にやりきれるかなあと不安になるが,健康管理は仕事だと思うようになって,乗り切れるようになった。一番大事なのは睡眠だと思う。夜型を朝型に変えたら,NHKの語学講座も聴けたりして,一石二鳥である。

衝撃的なパリのテロのことで資料を集めたりしていたのだが,私の能力かつ情報で正しく分析するのは難しいと分かった。で結局は,得意な刑事司法分野になってしまう。具体的事件について考えることが一番勉強にもなると信じているので,昨日の講義では,11月28日に東京高裁が出した「菊池直子被告逆転無罪」判決を取り上げ,ゼミではこれに「弁護士局部切断事件」を加えた。

菊池直子は1995年のオウム教団による東京都庁小包爆弾事件の際,爆弾原料の薬品を山梨県内の教団施設から都内のアジトに運んだ容疑(殺人未遂幇助)で指名手配されていた。ふっくらと可愛い「爆弾娘」が17年もの逃亡の後,3年前に逮捕された時,まるで別人になっていたのには驚愕したものだ(これでは捕まらない!)。本人は,自分が運んだ薬品で教団が危険物を製造し,事件を起こすとの認識はなかった旨無罪を主張していたが,一審(裁判員裁判)は有罪として懲役5年を言い渡した。その控訴審(裁判官3人)は,井上死刑囚の証言の信用性を否定し,逆転無罪を言い渡したのである。両者の相違は,つまるところ事実認定の相違であり,「疑わしきは被告人の利益に」が刑事裁判の鉄則であることからすると,無罪の結論自体は致し方がないというのが正直な感想である。

問題は,一審が裁判員裁判だったことである(殺人罪は裁判員裁判の対象であり,それは未遂でも幇助(共犯)でも変わらない)。一般の感覚からすれば,無罪だというのならなぜ逃亡したのか?であり,有罪とするのはいたって常識的である(裁判員6人と裁判官3人の計9人中,少なくとも5人は有罪認定をしたわけで,うち1人以上は裁判官である)。裁判員らはたまたま選ばれて,自らとは何の関係もない事件のために貴重な時間とエネルギーを捧げた。それが二審では事もなげに無罪なのであれば,何のための,裁判員…!? そんなことならプロだけで最初からやればいいでしょ,馬鹿にしてない?と,私なら絶対に思う。裁判員制度導入はそもそもが素人感覚を採り入れることであり,プロの判断と違うのは仕方がないとして容認されるべきではなかろうか。

衝撃的な弁護士局部切断事件は,当ブログでも触れたが,やはり夫(元ボクサーでロースクール生)は妻がその弁護士に強姦されたと思い込んでいたのだ。でなければ不貞の鉄槌は妻にも下ったはずであり,不貞妻にまんまと欺されわけである。悪い弁護士を成敗してやるとばかり,台本まで書き,裁定鋏を購入,妻を同伴して訪問,まずは殴って失神させ,その間に局部を根元から切断してトイレに流した。計画的犯行であり,妻はいわば共犯だ。2人ともが起訴されればより悪いのは妻のほうだが,実行犯の夫だけが起訴されている。傷害罪(刑法204条)の上限は懲役15年(平成16年改正前は10年)。さて量刑はいくらになると思う?とゼミ生に問うた。

一番多かった答えが「15年」。最高刑である。根元から切られたので,被害者はもはや小用も足せない。激痛だという(陰嚢は残っているので性欲はあるが,処理できない)。文字通り生き地獄であろうと思う。殺人より悪いというのがゼミ生の意見だし,被告人としても一瞬の死よりもなお激しい苦痛を狙ったのだと思う。15年でも軽すぎるという意見もむべなるかな。だがこの事件,実は少し前に弁護士間で話していたのだが,執行猶予付きだという元検事までいた。まさか実刑にはなるでしょうと私は言ったが,おそらくは3年から,重くて5年であろうと思う。なぜならば,恋人の5歳の連れ子を虐待した挙げ句最後は布団巻きにして脳死状態にさせた男の事件を扱ったことがあるが,まさに殺人より悪いこの傷害事件ですら懲役5年だったことを知っているからである。一生脳死状態でベッドに横たわっただけの人生に比べれば,この事件の被害は大したことはないでしょう,と言うと,一同等しく驚いていた。そう,量刑感覚は一般人には分からない。分かるはずがない。

日本の裁判員裁判の特徴は,事実認定と量刑を裁判官と共に担うことである。それが裁判員に出来るのか?といえば出来ない。当たり前だ。だから裁判所では量刑基準を作り,それを裁判員に示して誘導するようにしている。片や英米の陪審においては,事実認定は陪審の専権だが量刑は裁判官の仕事である(というか法定刑に日本ほどの幅がない)。裁判は一審のみ(控訴が出来るのは裁判官の説示に誤りがあった時などに限定される)。素人のみの評議だから,有罪か無罪か,その結論に至る理由も記されず,控訴も出来ないのである。大陸系の参審制は裁判官と参審が共に事実認定を行うが,量刑はやはり裁判官が行う。

常識をもった素人でも,やれるのは事実認定のみである。しかしそうなると,日本では検察がもともと証拠十分で有罪が取れるものしか起訴しないので,裁判員がやることはほとんど限られてしまう。要するに,裁判員制度ってもともと日本の制度に馴染まないのではないですか? 裁判官が常識がないから素人の感覚を採り入れるというのがそもそもの導入議論にもあったけれど,素人のほうが裁判官より常識があるということですか?それよりもすべきことは裁判官により常識をつけるというか,常識のある人を任用するべきではないのですか? 議員時代,裁判員裁判導入に強く反対した私としては,やはりそう思わざるをえない昨今である。

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