執筆『夫との離婚で、慰謝料などの支払いに不信感があります・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる5月号」

カテゴリー: 執筆 | 執筆『夫との離婚で、慰謝料などの支払いに不信感があります・・・』 はコメントを受け付けていません

裁判所の良識について思うこと──「子供のボールで事故」最高裁判決

桜も散ったというのに、この1週間、本当に寒い(先週8日には雪まで降った)。本来は春の良い季節なのに、たまたまこの時期に来日された方々はとても気の毒だ。薄着にするのは簡単だが、まさかコートを買うわけにもいかないからだ。そして私はといえば、3か月ほど楽をさせてもらっていたが、先週からまた大学が始まり、結構慌ただしい。

さてこの度、最高裁で良識のある判決が出た。事件は、今治で2004年2月、小学生男児(11歳)が校庭で蹴ったサッカーボールが道路に飛び出し、たまたま原付バイクに乗っていた85歳男性が避けようとして転倒、脚を骨折して入院、事故から1年5か月後に肺炎で死亡したというもの。妻ら遺族計5人が5000万円もの多額の損害賠償を求めて提訴した民事事件である。一審大阪地裁(遺族らの住所地は大阪である)はうち1500万円を認め、2審大阪高裁は1000万円余に減額して、認容。被告らの上告を受けて最高裁がこれを覆したというものだ。事故から実に11年、当時の少年は23歳になっている。

法的な争点としては大きく2つある。まずは少年自身に過失があるか(民法712条)。不法行為責任を問うには故意または過失が必要であり(709条)、未成年者に責任能力があることがその前提となっている。次に、未成年者に責任を問えない場合において、親の監督責任を問えるか(714条)。1・2審はいずれをも肯定をしたうえで損害賠償責任を認めたわけだが、最高裁がこれを覆した。いわく「子供が日常的な行為で、たまたま人を死傷させた場合、親は危険な行為と予測できない限り、賠償責任を問わない」。極めて常識的な判断である。そもそも子供自身の行為に過失がなかったとして、親の監督責任に入らないでの棄却という判断も十分に可能な事例と思われる。

。り、なぜ最高裁までかかったのか、理解に苦しむほどだ。

訴訟として言うならば、被告としては子供や親ではなく、学校側(市当局)にすればよかったのかもしれない。学校は、校庭でサッカーゴールを道路側に向けて設置、かつ金網フェンスは1.3メートルしかなく網もかけられていなかったのだから、悪意もなく普通に蹴っていても、ボールが飛び出して通行人を傷つける可能性は十分にあったというべきだからだ。しかし、遺族及び代理人には何か思惑があったのであろう、ターゲットを子供と親に絞った(子供に責任能力が認められても支払能力がないので、主は親である)。

しかし、この事件。机上のぺーパーではなく、全体として見て、おかしいと思わないだろうか。85歳の男性が原付に乗っていること自体が危険な行為ではないだろうか。たまたまボールだったが、もし子供が飛び出しきたら自分のほうが加害者になっていたかもしれないのである。学校や幼稚園などの近くでは徐行するなりなんなり、よほど気をつけなければならないとされている。ボールが飛び出してくるなどは予測の範囲であろう。しかも被害者はこの事故で亡くなったのではない。事故と直接の因果関係がある損害は脚の骨折。あと寝たきりになったのは、年齢から判断してこの事故のせいしかありえないとは言えないし、まして肺炎での死亡との間に因果関係を認めるのは困難であろう。

85歳で5000万円! 一審判決を見たら、原告は就労していた場合の逸失利益として500万円以上を計上していた。85歳でどうやって働けるというのだ?! 死亡慰謝料が2500万円!(ほぼ最高額である)あまりに吹っかけすぎである。離れて住んでいる親がたまたま亡くなった。普通はいくら悲しくてもそれで終わるのに、どこか責任の問えそうな人、払えそうなところに狙いを定めた‥と考えるのが筋であろう。非公式情報だが、少年が入っていた保険会社との間の示談交渉がうまくいかず(5000万円なんて言われて払うはずがない)、訴訟を起こしてきたそうである。

最高裁など行かなくても、1審で、あるいはせめて2審で、こんな請求は棄却されるべきであった。全体像が見られない、常識のない裁判官では困る。当該小法廷の裁判長は弁護士出身、そして4人の裁判官全員が妥当な結論を導きだした。事故は加害者も苦しめる。自分の行為で人が死んで(死亡との因果関係はともかく負傷したのは間違いがない)、本人も親も苦しんできたはずである。11年はあまりに長い。

カテゴリー: 最近思うこと | 裁判所の良識について思うこと──「子供のボールで事故」最高裁判決 はコメントを受け付けていません

執筆『もしもの時のため、遺産は再婚した妻との子に遺したい・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる4月号」

カテゴリー: 執筆 | 執筆『もしもの時のため、遺産は再婚した妻との子に遺したい・・・』 はコメントを受け付けていません

チュニジアテロ、そして大相撲春場所に思うこと

去る20日はチュニジア建国記念祝祭パーティ(於ホテルオークラ)によばれていたのだが、もちろん中止になった。テロによる多くの死傷者に対して、心より哀悼の意を表する。チュニジアにはぜひ一度行きたいとかねがね思っていた。被害に遭われた日本人被害者6名の方々も、どんなにかこの旅行を楽しみにされていたことだろう。天国から地獄への暗転にひときわ胸が痛む。

20年も前になるが、国際会議でカイロに出張した際ルクソールに出かけた。帰国して2週間ほどした時、ルクソールの、私たちも行った遺跡でテロがあり、日本人観光客も死傷するというニュースがトップ記事で出た。我々が被害に遭わなかったのはただ幸運だったからにすぎない。その数年後パキスタンに出張した際には、我々が宿泊しているホテルでテロがあったと聞いた。爆破を逃れたのは幸運だった。9.11が起こり、アフガン戦争・イラク戦争が起こり、もちろんその背景に複雑な中東の歴史があって、また貧富の差は拡大する一方だから、以後もテロは増えこそすれ減ることはないだろう。予防するといったって、死をすら覚悟している相手にどうやっても完全に防ぐことはできないはずだ。

さて大相撲は、大阪場所最後の3日間、しばらくぶりに熱狂させられた。ほとんど大相撲熱が醒めていたのは、このブログでも取り上げたが白鵬が嫌い、稀勢の里は期待外、遠藤も思いのほか期待外れ(のうえに今場所怪我で休場)と見るべきところがなかったからだ。だが、チュニジアパーティが中止となり、早めに帰宅してたまたまテレビをつけたら、照ノ富士対白鵬の取組があった。期待も手伝って照ノ富士が勝つと半ば信じ、半ば念じていたら、案の定というべきか圧倒的な内容で完勝した。歓声を挙げ、よほど座布団を投げようかと思うくらいに興奮した。足腰の強さ・重さ、決して慌てない冷静さ、はらはらどきどきせずに安心して見ていられるのはもうまさに王者の風格だ。白鵬30歳より6歳半若い。怪我さえなければ世代交代は時間の問題と思われる。14日目逸ノ城に、千秋楽は豪栄道にも圧勝、もし白鵬が日馬富士に負けて決定戦に持ち込まれればおそらく白鵬は負けたと思う。

問題は、白鵬を追い、越えられるのが照ノ富士だけだという点である。2横綱はもちろんのこと、日本人の3大関は何をやっているのか。2桁勝利も挙げられなくて、優勝戦線に絡まなくてなぜ大関といえるのだ。番付の意味が泣く。昇格の基準も、それを維持する基準も、協会は真剣に考えてほしいと思う。また相撲は単なる格闘技ではない。神事であり文化であるということを、親方の躾に(無責任に)委ねるだけでなく、協会が真剣に取り組まなければならないと切に思うのだ。

カテゴリー: 最近思うこと | チュニジアテロ、そして大相撲春場所に思うこと はコメントを受け付けていません

選挙年齢引下げと少年事件について

選挙年齢が18才に引き下げられることになった。とても唐突な感じもするが、既定路線だったようだ。国会議員時代、この件を討議していて、関係法令がたくさんありすぎ、中でも大きなところでは民法と刑法の問題がある。前者は成年を20才としているし、後者は20才未満を少年法の適用対象としている。それらを放っておいて選挙年齢だけを引き下げるわけにはいかないと見送った経緯がある。

実は世界各国の選挙年齢の趨勢は1970年代頃から18才である。189か国・地域のうち18才までに(16、17才を含む。)選挙権を付与しているのは170か国・地域あり、実に90%に上る(国立国会図書館調査及び立法考査局2008年資料)。となると、当然ながら成人年齢(民法の行為能力)は選挙年齢と同様18才となり、少年法の適用も同様となる。後者については、例えばドイツのように、18才から21才(旧選挙年齢)までを若年成人として、個別のケースによっては少年法を適用することもできるようにしている国がある。

少年法の適用年齢を選挙年齢と同様18才未満に引き下げれば、以後18才で成人同様に扱われることになる。今マスコミを騒がせている例の川崎事件の主犯少年も、家裁送致もなければ匿名扱いもないということになる。刑事責任年齢を何才と定めるか(日本では14才)、また少年法適用年齢を何才と定めるかは、多分に立法政策の問題なので、そうと決めるのであればそれでよい。というか、権利である選挙年齢を18才と定めておいて、義務だけは免除してほしい(少年として寛大に扱ってほしい)というのはまるで筋が通らない話なのだ。

それにしても、川崎の事件は悲惨であった。万引きを拒否した被害少年は、子供の多い母子家庭で母親を心配させないようヘルプも出していなかった。加害少年たちもそれぞれに家庭に問題を抱えていた(問題がなくて非行や犯罪に走る者はいない)。そして、周りの大人たちの誰一人も、学校も警察も、助けることができなかったのである。この事件はかなり特殊だとしても、今社会のあちこちで、ヘルプを発したくても発せられない子供たち、発していても受け止める大人がいなくて絶望に浸っている子供たち、そういう子供たちが大勢いることを、私たち大人は真剣に考えなければならないのだろうと思う。

カテゴリー: 最近思うこと | 選挙年齢引下げと少年事件について はコメントを受け付けていません