今年を振り返って、思うこと

一日家にいられる休日は久しぶり。昨夜食糧も買ってきた。朝目が覚めたら、8時。昨日はすごい雨が上がったと思うとフェーン現象のような熱気になったが、今日は一転青空が広がり、東南向き高層階の我が家はぽかぽかの25度だ(日当たりと眺望で家を選んでいる)。このあとは休日の過ごし方の定石である、語学の勉強とピアノである。

クリスマスの頃、顧問先の御自宅でピアノ演奏の予定である。50畳は優に超えるだろう瀟洒なリビングに100人近くの客。スタインウェイ(木目)の大きなグランドピアノがある。そうだクリスマスだと先月急に思い立ち、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」、シベリウスの「樅の木」、チャイコフスキーの「四季」から11月「トロイカ」(12月「クリスマス」は今一つ面白くなく、トロイカが出色である)など数曲を選び、時間を見つけて練習してきたが、自家薬籠中の物になるにはまだ時間がかかりそうだ。と諦めたのが数日前。結局はいつものレパートリーである、ドビュッシー、ショパン、リストといったところになるだろう(ベートーベンが最も好きだし最も自信があるが、よほど音楽好きな人にでないと聞かせられない)。

すぐに暗譜が出来る人が羨ましくて仕方がない。だが、ないものねだりをしても仕方がなく「ある物に感謝」、初見が早いことに感謝をせねばと思う。弾き始める前の譜読みに時間とエネルギーが取られるならば、とうの昔にやめてしまっただろう。私の人生において、ピアノを弾くことは最上の気分転換であり、もしこれがなかったら、スポーツは(見るのは好きだけれど)苦手でやらないから、一体どうしていたのだろう。頭を使う仕事なので、ストレス解消には体を動かすことが必要だが、思い当たることといえば散歩くらいしかない(山登りはしんどい)。歩くことも街歩きも好きだが、でもやはりこれだけでは寂しかったなあと思う。

今年はいくつか新しい役職も得て、場面場面で気持ちの切り替えをすることが多い。最初はどうなることだろうと思っていたが、不思議なほど「なるようになる」ものである。つまりは「案ずるより産むが易し」。今年中に済ませておきたい起案が、自分の事件はもちろん懲戒委員会のややこしい案件もあって、残り少ない日を数えていると(夜はこの時節結構入っているし)やはり休日出勤しないといけないよなとも思ったりするのだが、なるようになるだろう。というか、なんとかするだろう。

このところ健康管理がきっちり出来るようになった。風邪の常習者だったのが嘘のようにこの2年引いていない。スケジュールに穴をあけるなど、人に迷惑をかけるのは私が最もしたくないことである。だから「今日出来ることを明日に延ばさない」。もちろんそうしたい誘惑に駆られることはよくあるのだが、そんなことをしたら、もし明日何か突発的なことが起きたときには対応できなくなるかもしれない。やっても内容が疎かになるだろう。早め早めに対応するためには、とにかくなんであれ、まずは取りかかることである。勤勉な性質なので、いったん始めれば最後、やり遂げたい(片付けたい)強い欲求に駆られ、必然的にやってしまう。そうした自分自身がよく見えてきた昨今でもある。

飲むのは体によくないし、時間も取られるので、ほどほどにしている。結果、仕事関係の飲み会以外、よほどのことのない限り付き合わないようになっている。最近私の付き合いが悪くなったと感じているであろう周囲の方々、そういうわけですので、どうかご了解くださいませ(笑)。

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裁判員制度の問題について思うこと

あっという間に12月である。当たり前だが,年々早くなっている! でもまあ,健康な毎日の積み重ねが1ヶ月となり,それが12回重なって1年となるのだから,実にありがたいことである。過密スケジュールの時には無事にやりきれるかなあと不安になるが,健康管理は仕事だと思うようになって,乗り切れるようになった。一番大事なのは睡眠だと思う。夜型を朝型に変えたら,NHKの語学講座も聴けたりして,一石二鳥である。

衝撃的なパリのテロのことで資料を集めたりしていたのだが,私の能力かつ情報で正しく分析するのは難しいと分かった。で結局は,得意な刑事司法分野になってしまう。具体的事件について考えることが一番勉強にもなると信じているので,昨日の講義では,11月28日に東京高裁が出した「菊池直子被告逆転無罪」判決を取り上げ,ゼミではこれに「弁護士局部切断事件」を加えた。

菊池直子は1995年のオウム教団による東京都庁小包爆弾事件の際,爆弾原料の薬品を山梨県内の教団施設から都内のアジトに運んだ容疑(殺人未遂幇助)で指名手配されていた。ふっくらと可愛い「爆弾娘」が17年もの逃亡の後,3年前に逮捕された時,まるで別人になっていたのには驚愕したものだ(これでは捕まらない!)。本人は,自分が運んだ薬品で教団が危険物を製造し,事件を起こすとの認識はなかった旨無罪を主張していたが,一審(裁判員裁判)は有罪として懲役5年を言い渡した。その控訴審(裁判官3人)は,井上死刑囚の証言の信用性を否定し,逆転無罪を言い渡したのである。両者の相違は,つまるところ事実認定の相違であり,「疑わしきは被告人の利益に」が刑事裁判の鉄則であることからすると,無罪の結論自体は致し方がないというのが正直な感想である。

問題は,一審が裁判員裁判だったことである(殺人罪は裁判員裁判の対象であり,それは未遂でも幇助(共犯)でも変わらない)。一般の感覚からすれば,無罪だというのならなぜ逃亡したのか?であり,有罪とするのはいたって常識的である(裁判員6人と裁判官3人の計9人中,少なくとも5人は有罪認定をしたわけで,うち1人以上は裁判官である)。裁判員らはたまたま選ばれて,自らとは何の関係もない事件のために貴重な時間とエネルギーを捧げた。それが二審では事もなげに無罪なのであれば,何のための,裁判員…!? そんなことならプロだけで最初からやればいいでしょ,馬鹿にしてない?と,私なら絶対に思う。裁判員制度導入はそもそもが素人感覚を採り入れることであり,プロの判断と違うのは仕方がないとして容認されるべきではなかろうか。

衝撃的な弁護士局部切断事件は,当ブログでも触れたが,やはり夫(元ボクサーでロースクール生)は妻がその弁護士に強姦されたと思い込んでいたのだ。でなければ不貞の鉄槌は妻にも下ったはずであり,不貞妻にまんまと欺されわけである。悪い弁護士を成敗してやるとばかり,台本まで書き,裁定鋏を購入,妻を同伴して訪問,まずは殴って失神させ,その間に局部を根元から切断してトイレに流した。計画的犯行であり,妻はいわば共犯だ。2人ともが起訴されればより悪いのは妻のほうだが,実行犯の夫だけが起訴されている。傷害罪(刑法204条)の上限は懲役15年(平成16年改正前は10年)。さて量刑はいくらになると思う?とゼミ生に問うた。

一番多かった答えが「15年」。最高刑である。根元から切られたので,被害者はもはや小用も足せない。激痛だという(陰嚢は残っているので性欲はあるが,処理できない)。文字通り生き地獄であろうと思う。殺人より悪いというのがゼミ生の意見だし,被告人としても一瞬の死よりもなお激しい苦痛を狙ったのだと思う。15年でも軽すぎるという意見もむべなるかな。だがこの事件,実は少し前に弁護士間で話していたのだが,執行猶予付きだという元検事までいた。まさか実刑にはなるでしょうと私は言ったが,おそらくは3年から,重くて5年であろうと思う。なぜならば,恋人の5歳の連れ子を虐待した挙げ句最後は布団巻きにして脳死状態にさせた男の事件を扱ったことがあるが,まさに殺人より悪いこの傷害事件ですら懲役5年だったことを知っているからである。一生脳死状態でベッドに横たわっただけの人生に比べれば,この事件の被害は大したことはないでしょう,と言うと,一同等しく驚いていた。そう,量刑感覚は一般人には分からない。分かるはずがない。

日本の裁判員裁判の特徴は,事実認定と量刑を裁判官と共に担うことである。それが裁判員に出来るのか?といえば出来ない。当たり前だ。だから裁判所では量刑基準を作り,それを裁判員に示して誘導するようにしている。片や英米の陪審においては,事実認定は陪審の専権だが量刑は裁判官の仕事である(というか法定刑に日本ほどの幅がない)。裁判は一審のみ(控訴が出来るのは裁判官の説示に誤りがあった時などに限定される)。素人のみの評議だから,有罪か無罪か,その結論に至る理由も記されず,控訴も出来ないのである。大陸系の参審制は裁判官と参審が共に事実認定を行うが,量刑はやはり裁判官が行う。

常識をもった素人でも,やれるのは事実認定のみである。しかしそうなると,日本では検察がもともと証拠十分で有罪が取れるものしか起訴しないので,裁判員がやることはほとんど限られてしまう。要するに,裁判員制度ってもともと日本の制度に馴染まないのではないですか? 裁判官が常識がないから素人の感覚を採り入れるというのがそもそもの導入議論にもあったけれど,素人のほうが裁判官より常識があるということですか?それよりもすべきことは裁判官により常識をつけるというか,常識のある人を任用するべきではないのですか? 議員時代,裁判員裁判導入に強く反対した私としては,やはりそう思わざるをえない昨今である。

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大相撲九州場所が終わって

3連休半ばから少し寒くなり、家でストーブを出した。考えてみたら、11月ももう末なのだ。一時順当に気温が下がった後また暖かくなって半袖で済む日が続き、変だと感じていたら、やはりこの時期としては記録的な高温だったという。日本だけでなく世界中が同じで、地球の温暖化が否応なく進んでいると実感する。気温が順当に下がらないため綺麗な紅葉が見られず、なんだか寂しいなと思う。銀杏もきっと綺麗な黄色にならないのだろう。

昨日事務所に出るつもりが野暮用でばたばたし、今朝ようやく出てきた。ブログのアップもずいぶん遠のいたままだ。13日(金)夜、パリで無差別同時テロが起こり、それについて考えることがありすぎ、でもまだ頭の中の整理ができず、そうこうするうちに今年最後の大相撲場所が終わった。横綱日馬富士、2年ぶりの優勝である(13勝2敗)。

日頃熱狂的な?大相撲ファンの私だが、この場所は終盤見ていない。理由は簡単、日本人力士があまりにふがいなかったからだ。稀勢の里しかり、遠藤はさらにひどく、闘争心のかけらも見えない。日本人力士の優勝は実に10年前に遡る(大関栃東)。横綱は、貴乃花を最後にとんと途絶えたまま、情けないことにはその候補すら未だに見当たらない。相変わらずその筆頭といっては稀勢の里。体格に恵まれ怪我もあまりしないのに、メンタルが弱いせいか、下位に容易に星を落とし、気力が萎えると安易に土俵を割る。今年最後だからと昨日千秋楽、気を取り直してテレビをつけたら、なんと結び前の一番、このところ連敗中の日馬富士相手に、立ち合いから珍しい気迫で、すぐに得意の左四つになり、一気に寄り切った。こんな相撲を連日見せてくれていれば…と解説の北の富士も言っていた。同感(でもそれが出来ないのが稀勢の里である!)。

場所途中の20日、北の湖理事長が急逝した。まだ62歳だった。私が大相撲に嵌まったのはここ10年以内なので、現役時代の北の湖を知らないのだが、優勝24回(歴代5位)、「憎らしいほど強い横綱」と言われた。今とは違い、中学から現役力士を勤め、21歳2ヶ月という史上最年少で横綱に昇進、48歳で理事長就任。今年2月、国技館での魁皇(浅香山親方)の部屋興しパーティに伺ったら、前に座っておられた。テレビで見るとおり愛想がなかったが、今思えば大変な毎日であったのだろうと思う。直腸癌末期なのに、痛みを押して最後の最後まで仕事を全うされたことに、古武士を見る思いでひたすら頭が下がる。日頃「土俵の充実」を言われておられたのを受けて、残りの場所も滞りなく行われた。天国でほっと胸をなで下ろしておられることと思いたい。

後任は代行を務めた八角親方になるのだろう。この方のことはよく知らないが、その後は貴乃花親方とも言われている。当然ながら、力士として強いことと理事長としての信望、マネジメント能力は別である。国民栄誉賞まで受けた千代の富士が協会の理事選にも落選していることはそのことの一つの表れなのだろう。若い時から相撲ばかりしてきて、常識や教養をというのが無理なのかもしれないが、理事長にはバランスの取れた方を望みたい。少なくとも、自分の足りない所を認識し、他の意見に素直に耳を傾けることのできる度量を強く望みたい。

強い日本人力士をと願うのは当然だが、野球やサッカー、テニス、最近はラグビーと、こう選択肢が多くなっては、有望な若者(と親)があえて、怪我が多く、現役寿命の短い相撲を選ぶのはそもそもが難しいであろう。加えて、大相撲は必ずどこかの部屋に住み込み、親方を親かつ師匠として上命下服、様々な独特のしきたりに順応し、タニマチとも付き合い、協会から与えられた取組みに勝ち、番付を上がることが至上命令という特殊な世界である。よほどの相撲好きでないかぎり、自由に慣れてかつ経済的にも困らない若者と親を引きつける力に乏しいことは否めないと思う。

私が個人的に強く願っているのは、番付を安易に上げないで欲しいということである。他の競技であれば、互いに戦って勝つことにより順位が上がる。分かりやすく、誰も疑問に思わない。ところが、大相撲の番付には一応の目安はあるものの、そこに裁量が入ってくる。名前を出して申し訳ないが、例えば、横綱鶴竜。今場所千秋楽白鵬に勝ってようやく9勝である(白鵬はまさかの3連敗。怪我が悪化したのだろうか。それとも北の湖の遺言ともなってしまった「(白鵬が栃煌山相手にやった2回の)猫だましは横綱がやる手ではない」批判によって、相撲の神様に見放されたのだろうか?)。

そして例えば、大関豪栄道。大関昇進の時、大丈夫かという声はあったのに、たぶん集客を考えて?無理に上げた。案の定昇進後勝ち越しが精一杯、二桁勝利など夢のまた夢、話題になることといえば「カド番」脱出ではあまりに本人も情けない。地位は実力が伴ってこそ。与えるのはひとり協会なのだから、見誤りの責任は重大だと言わざるをえない。番付通りの実力でなければ、成り立たない競技なのが大相撲である。今場所の照ノ富士を見ていて、拙速に横綱になどとはゆめ考えるべきでないことが分かったはずである。

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執筆『離婚を取り下げたのですが、弁護士がお金を返してくれません・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる12月号」

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学力より重要な「非認知スキル」について

なるほどね、と思う。IQ(知能指数)や学力など数値化が可能な「認知スキル」に対し、気質や性格など目に見えない力である「非認知スキル」こそが経済的・社会的な成功に大きな影響を及ぼすというのだ(週刊東洋経済10月24日号)。

とりわけセルフコントロール力(自制心)ややり抜く力が大事であり,そのコアは「勤勉性」だという。試験でも就職でも、目標を定めたら、実現に向かってひたすら努力する。遊びなど誘惑には乗らない。今日はいいか、明日からやろう、などとは思わない。自らに負けないことが人生に負けないことであり、私も周りを見ていて、分野を問わず、成功者にはその力が備わっていると思う。もっとも私の言う成功者とは、同誌の趣旨とは違い,社会的地位や高収入そのものに意義があるのではなく(それらは単に、結果として随伴するものに過ぎない)、有意義かつ後悔のない人生を送れるという意味での成功者なのだが,基本は変わらないと思う。

真面目でこつこつやる子はたとえ知能や才能自体が大して優れていなかったとしても,社会でそこそこやっていける。だが、勤勉でない者は、たとえ生まれついての知能はかなり良くても、結局は脱落するように思う。大学で学生によく言うのだが、自分の人生は自分で責任を持つ、どこに就職できるかで人生が大きく変わる、目標に向かってとにかく努力をすべし、今日はいい、なんて考えない、遊ぶのは就職が決まってからにしなさい‥と。勤勉性に加えて大事なことは,社会性,協調性,思いやりといったことである。挨拶が出来る,にこやかに出来る,普通に意思疎通が出来る…こういった当たり前のことが当たり前でなくなっているのは,家の躾けの問題もあるが,ラインやツイッターといったやりとりが主流になって,人との関係が希薄になっているからのように思う。これは今,どの社会でも大問題であると感じている。

「勤勉性」に戻る。最近つくづく思うのだが,努力できる力こそが人の真の能力ではないだろうかと。人生は長い。たとえ希望の所に就職をしても,それはスタートラインでしかない。1年、2年‥5年、10年‥20年‥30年‥常に努力しているのと、いつかしらそれを止めてしまったのではどれだけ大きな差が出来てくることだろう。怠けないことと無理をしないこと。その折り合いがなかなか難しいと感じていたが、だんだんと自然に対処できるようになってきたのは年の功であると思う。

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