『1,000万円を貸した友達と連絡が取れなくなりました。』

自由民主党月刊女性誌「りぶる2月号」

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深夜バスの大惨事に思うこと

死者14人! 乗務員2人を除く12人の乗客全員が、前途ある有為の大学生だった。被害者はもちろん、まさに掌中の玉の子女を思いも寄らぬ形で無残に奪われた御遺族の方々には慰めの言葉もない。

乗務員が共に亡くなり、事故原因は未だ解明中である。車は、続くカーブを回りきれず、対向車線にはみ出してガードレールを突き破って道路右側に転落、大破した。ツアー会社の既定ルートであった高速道路を避けて(理由を推察するに、同乗者はこの路線を何度か経験済みであったので、少しでも経費を浮かせようとしていつもそうしていたのではないか)一般道路を走っていたが、そのカーブ自体は運転の難所というほどのものではなかったという。ただ、運転者は65歳。深夜運転には高齢なうえ、運転経験はマイクロバスの近距離ばかりで、この運行会社には昨年末に就職したばかりだったという。にわかに大型バス運転の研修を受けたといっても若い人ではないので適応には時間がかかるし、しかもこの路線は初めてだったので(57歳の同乗者には経験あり)、本人も乗車前からたいそう不安だっただろうと思う。運転技術そのものの未熟さはもちろんあるが、事故自体は、過労か病気か、とにかく一瞬意識を失ったあと戻って狼狽し、制御不能に陥ったのではなかろうか(会社は入社時の健康診断もしていないし、行政処分を受けていたほど問題の会社であったという)。

その時の気持ちを考えると、運転手も気の毒になる。事故は、起こしたくて起こすのではない。学生にいつも言うのだが、同じく犯罪として取り扱われてはいても、故意と過失は全く別物である。例えば、運転中に常に意識をしっかり持つべきは当たり前だが、ふと考え事をしたりして意識が途切れることはありうる。だがその時に歩行者がいなければ、車もなければ、あるいは同乗者もいなければ、不幸な結果は起きないのだ(自損事故は何の犯罪も構成しない)。故意の認定は「犯意→結果」だが、過失は「結果→落ち度」と順序が逆となる。一瞬意識が途切れてもまっすぐな高速道路上であればおそらく不幸な結果は起きなかっただろう。もちろんどんなに運転技術が未熟でも大丈夫である。しかし、現実にこうした大惨事が起きてみれば、誰にとっても大変不運かつ不幸なことだったとしかいいようがない。

短期間にいろいろな背景事実が明らかになってきた。なぜ65歳を新しく雇うのだろうと思ったら、この業界は深刻な人手不足であるらしい。4年前、運転手の居眠りで7人の死者を出した関越自動車事故を受けて、夜間に一人で運転できる距離が制限され、二人を乗せることになって運転手の需要は増えたが、その一方、大型2種免許取得者は減り、65歳以上の割合はすでに半分近いのだという。そこで、大手のバス事業者以外は高齢運転者に頼らざるをえない。本来はコスト増は料金に転嫁すべきだが、価格競争がすさまじく、同業者ばかりか新幹線や飛行機との競争もある。となれば、零細ツアー会社ほど運行会社に国の基準を下回る運賃を提示することになり、運行会社も零細であればこれを受けざるをえないことになる。こうした売上げの減少分はもちろん、人件費はじめ諸経費の切り詰めで賄うことになる。価格競争が結局自らの首を絞めることになるのはどの業界も同じなのだが、今回もまたいわば構造的な問題を背景に、極めて不幸な事故が起きてしまった。

警察も行政機関も入り、そのうちに事故原因や当該会社の実態、そして広く業界の実態など明らかになるだろうし、それを受けて、然るべき法規制も行われることになるだろう。とはいえ基本的にはやはり消費者自身が賢くならなければいけないのだと思う。そもそも安全にはコストがかかる。安かろう悪かろうは何であれ、概ね正しいと思われる。かつて、飲食店でユッケを食べて死者が出た時、細心の衛生管理が必要な生肉があんなに安く出せるはずがない、まして子供に食べさせるなんてどうかしていると思ったものだが、あまりに安価であるのは必須のものを削っているが故と考えるべきだと思う。だが、それを選んでしまう学生、そして、本来は年金で暮らせるべき年なのに、条件の厳しい所に契約社員で勤め、自身不安を抱えながら初めてのコースに臨んだ高齢者…悲しい現実である。多くの負傷者の一日も早いご回復を、そして亡くなったすべての方々のご冥福を、心から祈ってやまない。

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2016年──多様化,グローバル化の時代に思うこと

新年早々,サウジアラビアとイランの国交断絶,はたまた北朝鮮の水素爆弾発射?,などなど実に慌ただしい。国会は早や4日にスタート,7月には参院選を控えているので永田町の慌ただしさも半端ではない。

昨日(成人の日)は一日家にいたので,ネットであれこれ調べ物をしていた。国際問題は一見は国同士の問題に見えても,背後に各同盟者や敵対国,各思惑や利益が絡み合い,長い歴史や背景もあって,非常に複雑だ。中東には,イスラエルを巡る長い紛争に加え,このところシリア紛争とかイスラム国の台頭など多くの問題が起こっている。背景にイスラム教義の多数派であるスンニ派(サウジアラビア)と少数派であるシーア派(イラン)の対立があることはわりとよく知られているが,その実態は,宗教対立ではなく同地域における2つの国の覇権争いにあるのだそうだ。もちろんその背後にはアメリカを筆頭として世界の大国の思惑・利益が絡む。

翻って9.11時,ブッシュ大統領は同時多発テロを戦争だと宣言したが,昨年オランド大統領もこれに倣った。敵はどちらもイスラム過激派ということになるのだろう。つまり国境もなければ国籍も不問である。かつての戦争はのどかだった。当事者はあくまで国同士。互いに宣戦布告をしたうえ(しないと国際法違反である)軍隊同士が戦い,適当なところで仲介国を立てて講和条約を結ぶ(それができない場合には無条件降伏をせざるをえない)。しかし以後,近代兵器がどんどん開発され,核兵器もあれば,見えないドローンも多用される。おまけに国ではなくイスラム過激派という思想・行動を敵とするのであれば,誰が敵なのかはっきりしない。ということは,戦争に終わりもない。

今回フランスら多国籍軍がイスラム国支配地域を精出して空爆したことにより,人はたしかに少なくなり支配地域も小さくはなった。しかし,昔と違って,今は思想自体はネットでいかようにでも拡散するので,共感し行動を共にしようとする者を防ぐことは不可能である。多くの識者が言うように,テロを予防するためには,経済格差をなくし信条・人種差別をなくすことこそが肝要なのではなかろうか。フランスは移民に対して徹底的な同化政策を採っている故にか,イスラム女性教徒のベール着用の禁止などを徹底的に行ってきた。これで反発を招かないのか危惧していたが,広い大陸の中で,ほかでもないフランスが狙い打ちされたのにはそうした背景もあったのではなかろうかと思ったりもする。

移民排斥や愛国主義といった思想・信条をおおっぴらに掲げる政党がヨーロッパ各地で勢いを伸ばしている。今年大統領戦となるアメリカでは,共和党の一番人気はなんと依然トランプ氏である。彼は如実な問題・差別発言を繰り返していて,合衆国憲法に明らかに違反するイスラム排斥も明瞭に口にしている。その人気が下がらないということは,とりもなおさず,同調する国民が多いということだ。ロシアのプーチン大統領の支持率が90パーセントと異様に高いのも,強いロシアを目指す姿勢が国民の支持を受けているからであろう。ヨーロッパは単一のEUを目指したにかかわらず,結局のところ,世界中それぞれの国がナショナリズムないしはポピュリズムを鮮明にしてきたように思われる。

外交も経済も政治も,すべてが否応なく,多様化そしてグローバル化時代に入っている。偏狭なナショナリズムに陥ることなく,しかしそれぞれの根っこをしっかり持ちながら,これらに対応していくのは誰にとっても並大抵のことではないように思われる。

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最高裁が夫婦同姓を合憲と判断したことについて

この16日午後3時の最高裁大法廷判決は、以前より大注目であった。ことに、婚姻の際の強制的同姓についての判断。最高裁がその初めての判断を示すに当たって大法廷を開く以上、周囲では違憲判決が出ると期待する向きも多かったし、私もそう期待していた一人である。だが実は(もう一つの待婚期間のほうの違憲判決とは違い)そうはならない、とある情報筋から聞いていた。だって違憲とまでは言えないでしょう(つまり立法政策の問題だ)と。そしたら、やっぱり、だった。

もっとも、非嫡出子の相続分が半分なのを全員一致で違憲としたのとは違い、今回は合憲10名に対し、少数意見が5名いる。判事15名のうち女性は3名。その3名が全員違憲としたうえ、男性が2人(両名とも案の定!弁護士出身)。このことは評価されるべきかもしれない。裁判官が替われば違憲判断が出るかもしれないし(なにせあと3名が組すれば多数意見になるのだ)、きっとそのうち替わるかもしれないと期待できる故である。

違憲とはしないと聞いた時、つらつら考えてみたのだが、理由はわりあい簡単である。待婚期間の半年を100日に縮めるのであれば、民法を改正してその旨の通達を役所に出せばよいだけだ。だが、別姓は違う。最高裁は違憲としたわ、でも国会は何も是正しないわだと、戸籍係は、別姓の届出を出してくる夫婦についてどう扱うのか。現場はせめぎ合いになり、とても対応できない。訴訟だって増える。

そもそも別姓と簡単に言うが、中国や韓国のような別姓しかない国もあれば、これまで我々が議論してきたような選択的夫婦別姓もあるし、議論の過程で折衷案として出してきた、別姓にしなければならない例外的理由があれば家裁の許可によって認めるといったものもある。加えて、子供の姓をどう定めるのか、という大問題がある。つまりは制度を変えるためには、民法及び戸籍法を詳細に改正しなければ現場は動けないのである。おそらくはその混乱を回避したのだろうと見ている。

寺田長官が言うように、本来こうしたものは裁判所ではなく、国会が動かなければならないのだ。しかし、今を去る10年以上前の国会議員時代、選択的別姓導入に熱心に携わってきた者として、夫婦同姓が日本の伝統だ(明治からですよ! そもそも大方の人に姓はなかった)、別姓は家族を壊す、国を壊すとまで声を大きく主張していた人たちが、これでその主張にお墨付きを得たように合点することが最も嫌である。裁判所は、あくまで違憲ではない、と言うだけであり、これでいいですよとは言っていないのだ。ましてそうでないといけないのだとはまったく言っていないのである。

婚姻して違う姓になると困る人はたくさんいる。通称が認められたとしても、実に不便である(弁護士は旧姓で登録できるが、場面によって使い分けが必要になる)。夫婦のどちらかにその不便さを甘受しろと言うのでは、法律婚も減り事実婚となるだろう。であれば少子化に歯止めもかからない。フランスが歯止めをかけたのは、事実婚にも法律婚とほぼ同様の法的権利を認め、子供の差別を無くしたことによると言われている。社会に寛容さがないととても生きにくい。

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『亡父の遺言に納得しない弟が、遺留分減殺の請求をしてきました』

自由民主党月刊女性誌「りぶる1月号」

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