女児殺人放火事件の再審決定に思うこと

そういえば、こんな事件あったよねと思い出した。去る20年前の7月、大阪市の住宅建物に組み込まれたシャッター付き駐車場で火災が発生、住人である母親、内縁の夫、長男(8歳)は脱出したが、駐車場に隣接する浴室で入浴中だった長女(当時11歳)が焼死。当初、風呂場の種火が、車から漏れたガソリンに引火した事故と思われたが、長女には保険金(災害時1500万円)がかけられ、死亡翌日その請求が行われたため、母親と内縁の夫両名が現住建造物等放火、殺人、詐欺未遂で逮捕された。9月である。

実行犯とされる内縁夫は捜査段階で自白をしたが、公判では否認。2人は最高裁まで争ったが、共に平成18年無期懲役が確定し、別々の刑務所に服役中だった。再審開始決定はめったに通らないが、認められた以上、近く開かれる再審で無罪となるのは必至である。理由の中心となったのは「自白の杜撰さ」である。

一般に、放火の捜査は非常に難しい。殺人であれば死体が残るが、放火はすべて焼けてしまうため、放火方法の特定は自白による以外にはない。「自白以外に証拠がない」のは今回の事件に限ったことではなく、放火全般に言えることなのだ。故に、放火の捜査には「放火実験」が必須である。どうやって火をつけたかという自供内容を鵜呑みにしては絶対にいけない。意外とそう簡単には火はつかないものなのだ。その供述通りにやって実際に放火が可能かの実験をする。あ?あ、こんな立派な?襖を燃やして勿体ないなあなどと思ったものだが、仕方ないのだ。法廷で否認に転じ、「いえ、私はやっていません。調書は警察官が作った作文です」と言ったとしよう。目撃者もなく、確たる物証もない限り、犯人特定はただ「自白の信用性」による。そしてその自白内容では火がつかないことが、裁判で初めて行なわれた放火実験で明らかになれば、もちろん無罪である。そんな例はたくさんある。巧妙な被疑者ほどあえて嘘をつくことは、捜査に携わる者のいわば常識である。

大阪府警は優秀だとずっと思ってきた。検事何するものぞとばかりにちょとやりすぎるところがあるが、今回の顛末にはとにかくびっくりである。7リットルもの大量のガソリンを撒いて(!)パンツ一丁で(?)ライターで点火したって(!)。ありえない。常識で考えても分かるだろう。そんなことをしたら大爆発するかもしれないから、怖くて出来ない。自らは火傷必至だが、負傷はしていない。自動車の燃料タンクから手動式ポンプでガソリンを吸引したというが、その手動式ポンプも見つかっていなければライターも見つかっていない。つまりは自白を支える客観的証拠がない。そんな捜査の基本が、警察ばかりか検事も分からなかったのだろうか。

事の不自然さに弁護士会が動き、各種科学的実験によって、ガソリンが漏れて(もちろん300ミリリットルほどの量である)自然発火の可能性があることが立証された。そう、放火事件において、自白の信用性(客観的証拠との符合性)が飛べば、無罪は必至である。となると、放火を手段にしたとされる殺人も飛ぶ。保険金詐欺(未遂)も飛ぶ。一蓮托生である。そして、「疑わしきは罰せず」は刑事裁判の鉄則である。

もちろんこの人たちはずいぶんと怪しい。それ自体は疑いようがなく、だからこそ警察も動いたし、3度の裁判でも各有罪とされ、求刑通りの無期懲役が下された。そもそも娘や息子に保険金をかける必要など、あるはずがない。投下資本の元はいつかは取らなければならないはずだ。当時、4000万円ものマンションをほぼすべてローンで購入しようとしていたし、カードや自動車ローンも抱えて、経済観念のまるで欠如した生活を送っていたことは判決の糾弾通りである。何より許せないのは、この内縁の夫は被害女児と性的関係を持っていた! 強姦である(刑法177条は、13歳未満の女児であればたとえ同意があっても強姦とする)。この恐ろしすぎる事実は本人も捜査段階で認め、判決でも認められ、本人も支援者への手紙の中で認めている。被害児童亡き後、この事実がどうやって発覚したのか、知りたいところである。

いくら女児にかかった保険金が欲しくても、普通に殺害したのでは容易にばれる。その点焼死であれば事故処理される可能性が高いと考え、周到に準備をして実行する。しかし捜査が始まったので、ありえない自白をした(あるいは捜査官がストーリーを勝手に作ったのだろうか。いずれにしても大失敗である)‥と考えるのだが、どうだろうか。今となっては、真実を分かる術がない。それが残念である。刑事司法に携わる者にとって一番大切なのは「真実」だ。えん罪事件というのはことごとく、別の面から見れば真実が葬り去られたということである。それでは被害者は浮かばれない。時は返決してらない。捜査こそきちんとやらなければならないのである。

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執筆『亡くなった妹の遺産について弟と話し合いができないのです・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる11月号」

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相次ぐ信用失墜に思うこと

VWの排ガス規制不正が世界を騒がせ、日本の会社はこんなインチキはしないからトヨタが世界一に返り咲いてよかったなどと呑気なことを思っていたら、何のことはない、旭化成と東洋ゴムが相次ぐ偽装発覚で大問題になっている。

旭化成(建材)のへーベルハウスは、先般の鬼怒川氾濫の際にも唯一流されなかったと喧伝されていたほど良質のはずだが、一体何がどうなって、同社が基礎工事を施工した横浜の大規模マンションが傾くまでになったのか。もともと建設にはクレームがつきもので裁判所には建築紛争専門の部署まであるのだが、とにかく専門分野かつ中は見えないので、発注者としては信用ある業者を選ぶしか手がないし、物件購入の際も施工業者を信用するしかない。そうやって吟味を重ね、一生に一度の、まさに人生を賭けた買い物が意図的な欠陥住宅で、建て直し・引っ越しが必至とは、耐震偽装物件が世間を騒がせた記憶も冷めやらぬ中、住民の方々にはなんと気の毒なことだろうと思う。

さすが大手なので、旭化成建材はもちろん、元請けの三井住友建設も販売会社の三井不動産も一次下請けの日立子会社も、全面的な調査・賠償を約している。旭化成建材がこれまでに関わった全物件の調査も約束された。とにかく企業の危機管理としては、決して隠ぺいをせず、直ちに謝罪し、厳格な調査をして全面的な賠償・協力を惜しまないことである。おそらく何百億円もが必要であり、いくら旭化成が大会社で建材はその一部に過ぎないとはいっても大きな業績悪化は免れず、最悪の場合には会社が潰れるのではないかとの声もあるが、しかしそうはいってもそれが被害を最小限に抑える最善の方法であることには疑いがない。危機管理対策は各企業において進んできていると実感させられる。

しかし、もちろん最善の危機管理は、被害が起こってからではなく未然にその発生を防ぐことである。建設業界特有の問題としては、大きな物件ほど、子請け、孫請け(さらにもっと)という何重もの下請けで成り立っていることがある(旭化成建材も二次請けだ)。比較にはもちろんならない零細な下請け業者の相談を受けたことが何度かあるが、過酷な状況であり、人件費を削るか材料をけちるか、そうした構造的な仕組みの上でぎりぎりに関係者の生活が成り立っているのでは工事そのものが危ないなあと思うことがあった。本件は、担当者が基礎の杭打ちをサボり、そのデータを改ざんしたというのだが、そんなことがたった1人の現場の思いつきで出来たはずもない。それによって得る当面の利益は何だったのか。一次請けのチェックも働かなくては、全体として構造的な欠陥があったとしか思えない。

私自身東京には検事時代からすでに20年以上住み、当面まだ住むはずなので、ここ10年ほどはマンション購入をずっと考えてはいて、折込チラシもよく見ているが、思い切らないままでいる。高い賃料を払い続けて自分の物になるでなし勿体ない、アクセスさえ良ければ価格は下がらないから売っても損をしない、とよく言われるし、経済学的にはたしかにその通りだろうと思うのだが、踏み切れない一番の理由は、賃借の気軽さ故である。近隣に変な人が来ても、前方に高層階が建って日照や眺望が悪くなっても、その時は出ていけばよい。これまた弁護士として時々相談を受ける、住人の管理組合絡みの鬱陶しい案件とも全く無縁だ。つまりはストレスフリーを金で買っている、という図式である。今回の事件はそれを裏書きしてくれたことになる。一流企業の施工・販売でも安心できないとしたら、では何を信用すればいいのだ?

先週、ロッテの浦和工場・研究所に行った。食品メーカーの信用はとにかく食の安全である。その生命線を保つために、できうることはすべてやる。起きてからでは実は何をやっても遅いのだ。起きないように、あらゆる事態を想定して、出来ることはすべてやる。それが企業の基本姿勢である。

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大相撲秋場所が終わって

秋場所3日目(15日)、10日目(連休の22日)、14日目(26日)の計3回、観戦の機会に恵まれた。連日の満員御礼は言わずもがな、これまでに感じたことのないほどの熱気である。外人客の多さにも驚く。最後の26日、我々のいた向正面の後方升席の右隣2つは外人客だったし、最後尾のテーブル席(テーブル席の存在を初めて知った)にいたのはケネディ大使一行だった。

白鵬が1・2日目連敗、3日目以降休場するという大ハプニングのあった今場所。大混戦も予想されたが、照ノ富士が圧倒的な強さで連勝して、独走。私が観戦した10日目には稀勢の里が3敗目を喫して(鶴竜2敗)、ほぼ優勝は決まりと思われた。ああ、なんてつまらない。ところが12日目、その照ノ富士を関脇栃煌山が破り、13日目には続けて稀勢の里が完勝。まるで期待などせずぼんやりテレビ観戦をしていた私はひとりで大声で叫び、座布団を投げそうになった(まさか!)。さすが稀勢の里だ。優勝のプレッシャーさえかかっていなければ、大物相手に、本領の馬力を発揮する御仁である。

急遽、知人に頼んで14日目の観戦にこぎつけた。結びの一番、稀勢の里は鶴竜に対戦する。勝てば、3敗の鶴竜と並ぶ。2敗の照ノ富士は稀勢の里戦で負傷したから、おそらくは休場だろう。俄かに、日本人力士9年半ぶりの(!)優勝が現実味を帯びる。歴史的瞬間は何が何でもこの目で見届けねば。ところが‥これまで28対13で稀勢の里に負け越している鶴竜は、何が何でも勝って優勝したかったのだろう、立ち合い変化という、横綱にあるまじき取り口で2敗を堅持した。片や、ここぞの勝負には必ず負ける失望大魔神(ともいうべき)稀勢の里は4敗で脱落。2横綱休場という千載一遇、絶好のチャンスを案の定ものに出来なかった。やっぱり‥あ?あ。

鶴竜の優勝など見たくもないので、常は行く千秋楽には行かなかった。テレビも見ないつもりが、最後のほうちょっと見て、びっくりした。膝を痛めた照ノ富士が鶴竜に完勝したのである! 何という、驚くばかりの闘志。続く優勝決定戦はさすがに鶴竜が勝ったけれど、星の数12勝は同じ。片や稀勢の里は11勝(今場所は琴奨菊も好調で、久しぶりの二桁勝利11勝)だから、振り返れば、小結隠岐の海戦を落としたのが痛かった。流れは勝っていたのに土俵際の詰めが甘く、逆転を食らった。言うならば、立ち合い変化の鶴竜にだって、変化を食らってそのまま負けたわけではない。ついていったのにやっぱり土俵際の詰めが甘くて逆転されたのだ。15日の連戦では、たった一つの取組も疎かにはできない。一つ一つの積み上げの上に優勝という結果がついてくるのだ。

白鵬は好きではないが、今回珍しく休場したことによって、その偉大さを痛感させられた。まず白鵬は怪我をしない、休場をしない。勝負に徹し、一番一番を確実に拾っていく。詰めの甘さは微塵もない。対横綱・大関は仕方ないにしても、それより下位には星を落とさない。そういう積み重ねのうえに優勝があり、偉大な記録がある。白鵬がいない今場所は、9秒台の記録を争わない100メートル走のようだった。そもそも白鵬の優勝は全勝か14勝、悪くて13勝である。12勝での優勝は3敗であり、絶対的な強さとはおよそ程遠い。

照ノ富士が来場所もし全勝優勝でもすれば来年横綱昇進との声もあるようだ。たしかに強いことは強いし、勢いがあることは認めるが、横綱は心技体が揃い、品格・力量共に別格の者がなるべき地位である。たった一度の優勝で綱を締めた鶴竜が、実力不足から来る当然の成績不振にあえいでいるように、昇進には慎重でなければならない。また、白鵬が度重なる品位に欠ける言動で非難されていることからしても、昇進後も協会は的確な監督・指導を怠らないでほしい。でなければ国技である大相撲の番付及び綱の権威は揺らぐばかりである。

すっかり自他共に認める、スージョの私。競技としての魅力は、体格差を問わず、誰もがあの小さい丸い土俵の上で、多くの技を出し合い、短い間に必ず勝敗が決することである。その上に、生で観戦すると、周りの観客と一体になれ、日本文化も満喫出来るという格別の素晴らしさがある。訪日観光客が中国ばかりか全世界から増加している。大相撲もまた日本を発信する格好の機会だから、どうぞ大事に育ててほしいと願うのである。

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『加害者の発信 メディアの姿勢は』(毎日新聞取材)

(毎日新聞2015年9月21日朝刊「神戸連続殺傷巡る報道」)

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