小沢秘書逮捕に思うこと

 政治資金規正法違反は,贈収賄と違って形式犯であり,その違反による強制捜査(逮捕)は従来1億円が基準であった。しかし,3日の逮捕は,わずかにその額2,100万円(+100万円)。
 西松建設は,政党(及び政治資金団体)にしか寄附ができないとする制限(21条1項)に違反し,ダミーの政治団体を使って寄附をし,一社当たりに認められる年間寄附上限額(資本金50億円以上の会社であれば年3000万円)を超えた(21条の3)。
 小沢側はその事情を知りながら,寄附を受けた(22条の2)。これは「1年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」(26条)という軽罪だから,法的構成としては,正しい事項を報告しなかった12条違反として,25条の「5年以下の禁錮又は100万円以下の罰金」としているのであろう。ちなみに前者の時効は3年,後者は5年である。
 
 さて,以下は誰もが思う疑問である。
? これで終わりではないはず。とっかかりの別件逮捕にすぎず,真の狙いは実質犯(刑 法の贈収賄か,あっせん利得処罰法違反)にあるはずだ。
? しかしなぜ今,総選挙が取りざたされるこの時期にやるのだ。検察は政治的に中立で なければならないはずだ。
? 同じことを自民党議員もやっている。やるのであれば自民党側も同じように調べるべ きだ。

 その答えとして,以下,私の読みを述べる。
 特捜部は西松建設の社長らを昨年末,外国為替法違反で逮捕,起訴をした。外為法も政治資金規正法違反同様形式犯であり,またもともと特捜部の狙いは,言うまでもなく政治家にある。そこにこそ彼らのレゾンデートル(存在意義)があるからだ。彼らは押収物件及び関係者の供述から,西松建設から政界に流れたとされる巨額の裏金の行方をくまなく洗っていた。昨年の防衛省汚職も結局次官で止まり,狙った政治家には行き着かなかったから,よけいのことだ。必死で捜査をしてきたが,結局のところめぼしいものが出ないまま,3月の声を聞く。
 3月末は人事異動期である。22日間の逮捕・勾留期間を見据えると,3月初めはまさにタイムリミットだ。贈収賄ではなし,おまけに額も極めて低いが,野党党首となれば話題性は充分だ。なので,ぱっとしないながらも逮捕に踏み切った。事案自体の些少さに加え,時期を考えて,反対論は検察内部にも相当あったはずだが,功名心に駆られ,血気にはやる一線を上は止められなかった──。

 野党議員は公務員だが,与党大臣などとは違い,職務権限がない。収賄としては「あっせん収賄」しか成り立たないが,これでやるのであれば,職務権限のある「あっせんされた公務員」側も調べておかねば無理である。
 あっせん利得処罰法違反は,国・公共団体の契約(少なくとも半分の出資)であることと「不正なこと」をさせたという要件が必要だ。またこちらもやるとすれば,口利きをされた人側を調べておかねば無理である。つまるところ私は(おおよその期待に反して?)これ以上の別件は出ないであろうと踏んでいる。もちろん出るのであればそれに越したことはない。検察が無茶をやっているのではなければ,安心である。

 さて,ここで根源的な問題に戻る。──「特捜部はこれで良いのか」

 警察の強制権限は,公訴権を独占する検察によってチェックされる。だが,検察にはチェック機関がない。もちろん裁判所は無罪を言い渡せるが,逮捕された人,捜索を受けた会社は強制捜査そのものによって事実上抹殺されてしまう。
「巨悪は眠らせない」──これが特捜検察のキャッチフレーズだ。
 だが,巨悪がないのであればそれに越したことはない。わざわざ無理やり掘り起こして,人を逮捕までして捜査をするのが,社会をよくするためでもなく,ただ自分たちの存在意義のためであるとしたならば,これほど本末転倒な,恐ろしい話はない。

 権力ある者は当然ながら,それを抑制的に使わなければならないのである。良き政治家を自分たちの代表として選び,それによって社会を良くするべき責務を負っているのは国民であり,国民が選挙によって選ぶことのない検察官に本来その機能はないはずだ。検察官に社会の自浄作用を期待するとすれば,それはそもそもが誤った民主主義だということに,国民は気付かなければならない。
 特捜部に匹敵する機関は,世界中どこにもない。韓国に特捜部はあるが,これは政府の指令によって強制捜査をするという,中立性を欠いたものである。今回漆間官房副長官の発言が問題になっているように,大統領府の意を酌んで有力野党の捜査をするというのが典型例だ。あるいは現政府が前の政府高官を捜査するというのは,誰が見ても後進国の在り方である。

 特捜部は予算を獲得し,人も増やしている。そのために,何か話題性のある事件をやらなければならないという,組織存亡のための捜査になっている気がしてならない。もとより,昔とは違い,今は「綺麗な」贈収賄などあまりないはずだ。
 特捜部は今のままの常設機関ではなく,規模を縮小して,脱税事件に特化してよいのではないか。何かあったときだけ特別に応援を取って捜査をしたらよいのである。時代も変わった。国民は,自ら選ばない検察官を頼みとするのではなく,自らの手で選良を選ぶことで政治を良くし,社会を良くすることに勤めるべきではないだろうか。

 自らの手で選んだ政治家が汚れているのであればそれは自らの責任であり,また次の選挙で良き政治家に変えるべきなのである。民主主義は,寝ていても誰かが与えてくれるものではなく,「自らの血と汗で勝ち取るものだ」という,欧米では当然の考え方が,自ら民主主義を勝ち取った国ではないこの国には欠如していると思われてならない。
 今回の逮捕劇はいろいろなことを考えさせてくれる。
調べを受けて自殺された方もおられる。合掌。

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執筆「真の価値を見失う現代にあって 人に感動を与える芸術とは」

 クラシック音楽を毎日聞いている。CDやラジオ・テレビが多いが、たまに演奏会に行く。生演奏は最高だが、生だから良いとも限らない。
有名な人でもえっという場合もあるし、コンクール歴も決して当てにはならないようだ。クラシックでもやはりルックスや激烈なうたい文句が大事なのかもしれない。
 私がよく分かるのはピアノなのだが、正直なところテクニックが目立つ人が多いと感じる。音に魂がこもらず、音楽への愛情の感じられない演奏。時間とお金を使って、心が冷えてはつまらない。それでも盛んに拍手を送っている人がいるのは、日頃良いピアノの音に接していないからかもしれない。
 芸術の神髄はやはり感動にあると思う。涙が溢れ、生きていてよかったと思わせてくれる力こそが芸術だと思う。世紀のソプラノ、アンナ・ネトレプコは言う。「声がいくら良くても、歌がいくら上手でも、それだけで人に感動を与えることはできない。それはsoul(魂)だ」と。

 私が最も好きなドイツのピアニスト、今は亡きウィルヘルム・ケンプの演奏には魂が籠もっていた。テクニックにさほどの評価はなかったが、真摯な、気品に満ちたその演奏は、一つ一つの音を通して、聴衆に感動を与えた。温かい、敬虔な人柄を感じることができた。
 しかし今や、音楽や芸術に限らず、社会の隅々に、小手先のテクニック、言葉や態度が蔓延しているような気がする。真摯、敬虔、気品といった、真の価値が忘れ去られているように感じる。お金がなくては人は生きてはいけないけれど、それにのみあくせくしていては、肝心の心を見失う。
 未曾有の危機にあるからこそ、今一度、原点に立ち返ってと祈りたい気持ちである。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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中川財務相醜態,政治の空転つづく……

 今朝も中川財務相の醜態がニュースを騒がせている。
 今日,参院で問責決議案が提出されるという。それを受けてか,本人は辞任の意向を示した。もっとも予算案通過までは留まるとのこと。その後,野党ばかりか与党内の抗議を受けて直ちに辞任となった。麻生内閣崩壊は秒読みである。

 ローマでこの14日開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議。その後の記者会見で中川氏は泥酔状態,答弁も支離滅裂だったのが世界中で報道された。一見するだけで普通ではない人が国の財政を握っている日本。国辱ものである。
 中川氏はアル中だと言う人が結構いる。ブッシュ前大統領もアル中で断酒をしたそうだが,アル中の治療には断酒しかないそうだ。中川氏も一時期そうしていたらしいが,いつのまにやら元の木阿弥。先般の本会議答弁で,歳出を歳入,その他26か所も読み間違え,指摘されて居直ったことは記憶に新しい。
 そもそも自らをさえ律することさえできない者に指導的立場につく資格はない。もちろん国の代表である国会議員になる資格もない。

 なぜそんな人が歴代内閣で重用され続けているのか,常々不思議に思っていた。閣僚歴はこの前に農林・経済産業とある。安倍氏・麻生氏のいずれも3代目は,敵も論客も抱え込まない,典型的なお友達内閣を作った。
 麻生氏自ら,消費税,給付金,最も新しくは「郵政解散に賛成ではなかった」。いずれも適当に発言しては謝罪・撤回,発言がぶれる,の繰り返しで,国民は首相の言葉の軽さ,責任感のなさに呆れ反発し,当然ながら支持率は低迷の一途を辿っている。すでに13%。これでは解散は打てない。10%を割り込んだら,森内閣のように総辞職するしかないが,それも本人次第である。その点は結構しぶとそうだ。なぜ人気が高かったのか,今となっては首を傾げるが,アキバや漫画といったものにこれまでと違う新鮮さを感じたからなのであろう。

 先日,外務省の米国通の話を聞く機会があった。
 オバマ大統領は偏差知的頭脳が極めて高い。ハーバードロースクールに進み,それも最も難関の憲法ゼミに所属。ハーバードローレビュー(法律雑誌)の編集長に就任(黒人初)。将来の最高裁判事のコースだそうだが,思うところあってシカゴに戻り,貧民救済に関わった。政治家オバマの原点だ。
 加えてオバマ氏は,コミュニケーション能力が高いのだという。
 イラク戦争は間違いだったというのが彼の持論だが,選挙期間中,聴衆の1人が「では私の息子は犬死にだったのか」と叫んだそうだ。シナリオのない展開。オバマ氏がどう答えるか,皆がしーんとなって見守るところ,すっと壇上から降りてその女性の所に行って抱きしめ,「あなたの息子を誇りに思う」と囁いたという。わっと泣き崩れる女性。一同の感激。これは教養,人格のなせる業でしかない。
そういう指導者を日本も欲しているはずだ。GDP2桁落ちという未曾有の危機に日本はまたも「失われた10年」を繰り返すのか。これといった処方箋がないのが悔しい。

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執筆「希望の実現に向かって努力する 作家活動がもたらしたもの」

 近頃とんと読書をしないことに気が付いた。読むのは新聞、仕事絡みの本・雑誌、加えて贈呈本だけだ。
 もちろんそれだけでも結構な量があり、相変わらず活字漬けの毎日ではあるのだが、かつては自ら欲求した本を、寝しなや通勤に読んでいた。その読書習慣が、いつのまにか抜け落ちている。それで分かったことは、私は生来さほどの本好きではなかったということである。心底好きなものは死ぬまで好きなはずだからだ。
 と理解して、気が楽になった。実は以前から、薄々気がついてはいたのだ。私の読書たるや、質量ともに、いわゆる知識人のそれとは比べるべくもないことに。ただ認めるのに抵抗があった。なぜか。
 ちょっとした文学少女だった私は、長じて小説を書くようになった。結果、幸運にも作家としてデビューすることができた。本当に、どれほど作家に憧れ、作家業を続けたかったことか。だが、私はまもなく筆を折る。無から有を産む芸当を職業とするには、欲求や努力だけでは足りない、才能が必要だと思い知ったのである。
 だが、冷静に考えて、私が現在あるのは、小説を書いたお陰である。検事で作家だったからこそ、政治家にとの声がかかった。ここで、決して出会うことのない方々を知ることができた。やめた後はすぐに独立開業ができた。運命の変転は、あの一時期の、何かに取り憑かれたような欲求と努力の賜なのである。
 なんだか「藁しべ長者」みたいだなと思う。一本の藁しべから、運命が幾重にも好転し、最後に長者になるという、私好みのストーリー。人生、まずは希望である。そして実現に向かって努力をすること。そのうえで諦めるのはいいが、やらない前から諦めてはいけない。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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新年を迎えて

 1月があっという間にもう終わる。早い。
 16日夜,かつしかシンフォニーヒルズで,ポーランドのバイオリニスト・チェリストと,ベートーベンのピアノ3重奏第3番を披露した。私にとっては一大イベントだった。なにせピアノパートが非常に難しく(ことに,速い4楽章),あちこちつかえる箇所があるうえ,弦楽と合わせるのである。しかもリハーサルは直前の1回のみ。
 しかし,本番ではなぜだか見事に呼吸があって(超プロなので,見事に合わせてくれて?),丹念にリハーサルをしたように聞こえたらしい。実際は私は数えられないほどのミスを冒したのだが,エネルギーと音楽大好きの心と,そして何より合奏が上手くいって,拍手が続いた。弾いている間,もちろん緊張はしたけれど,楽しくて仕方がなかった。音楽の醍醐味,ここに極まれりである。

 突然,予想しなかったことが起こった。この試練を経て急に,自分のピアノ奏法の欠点が明らかになったのである。
 細かく言うとキリがないが,初歩の基本がなっていないということが今頃,分かったのだ。4歳から始めて,一体今まで何をしていたのか。自らの出す音に耳を澄ますこともなく,楽譜を見て,ただ鍵盤を叩いていた。楽器だから当然,適当には音は出る。果ては人におだてられるまま,プロ級かもと錯覚していた自分が,限りなく恥ずかしい。
 今ゆっくりと,一から指練習をやり直している。これまで先生から何度も「ゆっくりと練習しなさい。10回速く弾くより,1回ゆっくり弾くほうがどれほど効果的か」と言われた。それをせず,指は幸いよく動くからと,最初から速く弾いていたのは,自分がちゃんと弾けていると思い込んでいたからである。今はゆっくりとしか弾けない。ちゃんと弾けないことが分かったからである。
 音楽はまずは耳である。そして,謙虚さ。好きであるという気持ちだけでは人に聞かせられるものにはならない。

 これはすべてに言えることかと思う。
 井の中の蛙,大海を知らず。知らない者ほど天井の高さが見えず,自分が大したレベルであるかのように錯覚をする。僕は仕事柄よく法律が分かっているなどと言う法律の素人がいるが,それと同じである。
 今始まった国会を見ていても,そんなことをつい思ってしまう。
 ちゃんと分かって言っているのか? 政策の一部じゃなく,全体が見えているのか? 国際的なこと,日本の将来が見えているのか?……もちろん政治家は政治のプロであるべきで,アマチュアであることは断じて許されない。ひとり自分や選挙民の問題ではなく,国民,国家の存亡がかかっているのだから。

 オバマ大統領が就任した。演説が上手い。内容はもちろん,感動がある。心と魂が籠もっている。内容だけでは人の心に響かない。国民に感動を与えてくれる政治家が欲しい。こんな世の中だからこそ,国民に元気を与えてくれる政治家が欲しい。もちろん内容の伴う政治家。そんな人が出ないだろうか。

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