執筆「言葉が軽んじられる昨今 自分自身の言葉に責任を持つこと」

 あるテレビ番組で、司会者が女性タレントに尋ねた。
「戦国武将は誰が好きですか」
「坂本龍馬です」
「えっ。龍馬は戦国武将ではないですよ」
「(ちょっと驚いて)ぶしょうって何ですか?」
「織田信長とか豊臣秀吉とか徳川家康とか」
「へえ」
 ああ、これだと思った。思ったことは二つ。
 一つは、語彙が不足していると文意が読みとれないということである。どの言語も結局は語彙を増やすことが上達につながるが、日本語の場合は端的に漢字力をつけることである。
 専門用語は分からなくて普通だが、学生に話していて、例えば「せんご」「はいせん」「せんりょう」など、理解されていないよう感じる。歴史に関する知識がないからであろう。一般に、生活にない語彙は必要がないため身に付かない。だからこそ新聞を読め、本を読めと言うのである。
 もう一つは、テキトー(「適当」ではない。)に言葉を発する人が私の周りにも結構いるということである。弁護士ですらいい加減な人が珍しくない。この頃私は性格が少し穏やかになって、人が約束を守らない、嘘をついたテキトーなことを言った、でいちいち腹を立てないようになった。これも年の功かもしれない。
 だがもちろん、人たるもの、言う以上は言ったことに責任を持たなければならないのは当然である。日本には古来、言霊信仰がある。言葉には魂が籠もるから、間違ったことを言ったり約束を違えたりすることはできないのである。
 言葉はすなわち人格そのものなのだ。重さの極みにあるべき言葉が、某国の首相はじめ、軽さの極みとなって、嘆かわしくて仕方がない。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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委員会審議について

 予算委員会の審議が放映されるので,テレビを見ることがある。
 民主党政権になって最も変わったことは,官僚答弁の廃止である。
 法制局長官の答弁も廃止,細かいことまで各省庁の大臣・副大臣・政務官に答弁させ,もたもたしている。官房長官の答弁に至っては笑止千万なことがある。憲法も何も知らないということが一目瞭然だ。そもそも政治家にそれほどの力量があるはずもなく,反対に,官僚はその役所で何十年も同じことをやってきた専門家なのだから,これを使わない,使えないというのは不合理に過ぎる。
 政治主導という理念は,主導する政治家に相応の力量があって初めて可能となる。加えて,政治主導は官僚を排除することとは別物である。官僚は手足となる永続的な組織であり,それに比して政治家は,選挙によって代わるべき非永続的な存在であり,また組織として微小である。
 官僚をうまく使うことこそが上手な政治手法であることは今も昔も変わらない。ただ政治家に力量がないために官僚に使われてきた過去があり,その過去を払拭する方策は,官僚を排除することではなく,自らの力量を高め,官僚を使いうる主体にすることなのである。

 そのこと以前に,委員会審議には大いなる疑問がある。たぶん多くの国民が気づいていることと思うが,今回も「なぜスキャンダルばかりやって,肝心の予算をやらないの?」。
 以前国会にいたとき,某女性議員がカナダ在住の日本人領事のDVについて質問をしていて驚き,なぜこんな質問がありうるのか傍にいた先輩議員に聞いてみたところ,「予算委員会だから何でもある」との答え。実際,何でもあるどころか,肝心の予算についての審議がまるでないにも等しいのである。
何にいくら使うか,それが税金の正しい使い方なのか,それを逐一審議していくのが本来の予算委員会であろうと思うが,それはほとんど出ない。そしてスキャンダルなり何なりやったあとは採決するかどうかだけ。これは数の論理で決まるから,予算案は審議する以前に決まっているということである。つまり委員会はある意味,見世物だ。各党ないし各議員の選挙区向けアピールである。注目される予算委員会は花形だから質問をしたい議員は山ほどいる。私も一度テレビ放映の際の質問に立ったが,その反響たるやすごかった。

 予算委員会に限らず,どの委員会でも逐条審議をやればいいのだが,条文にのっとって質問をする人は極めて少ない(当然ながら私はそうしていた)。質問といっても感想程度の,あまりにお粗末すぎて聞いているほうが恥ずかしくなるような質問も珍しくない。
 ちなみに欧米各国では逐条審議をするという(『国会学入門』大山礼子著 三省堂)。法律制定・改正である以上当然であろう。逐条審議をやれば法律の解釈も残るし,さらに重要なことは質問のネタは尽きてしまい,審議を引き延ばしては廃案に持ち込むことができないということである。
 国会において改善すべきことは多い。
  国会改革を,といっても,それ相応の識見のある議員がそろわないことには無理なのであろうが。

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小沢不起訴に思うこと

 先月来,小沢はどうなるのかと聞かれる度に,私は「在宅起訴になるでしょう」と答えていた。これだけの証拠があるからというよりむしろ,起訴しなければならないという理由からである。現職国会議員を国会開会直前に逮捕し,その絡みで与党幹事長をまさに鳴り物入りで取り調べたのだ。もちろん参考人としてではなく,一般市民からの告発を受けての被疑者としてである。そこまでやる以上,起訴なしでは済まないと考えた。
 だが結論は,周知のとおり,今月4日の勾留満期(延長して20日間)当日,逮捕された3人は起訴になったものの,小沢は不起訴であった。朝青龍の突然の引退劇が重なり,この日マスコミはてんてこ舞いだったそうだ。

 不起訴の理由は当然ながら,起訴するに足るだけの証拠がなかったからである。そこはさすがに法治国家。ことに日本は,英米とは違って,起訴基準が有罪基準とほぼ同じレベルである。つまり,起訴するときにすでに,合理的な疑いを容れない程度の確証(一般人が誰も疑わない)がそろっていなければならない。無罪が出にくい仕組みになっているのである。
 今回,小沢の指示もなく,秘書が勝手にそんな大それたことをするはずもないと考えるのは常識的だが,常識で裁判ができるのであれば証拠は要らない。秘書の一人は「小沢の了承を得た」と喋ったようだが,「上の了承」があったことをもってして上との共同不法行為(民事事件)とするのはよいが,刑事事件の「共謀」とするには薄弱だ。加えて,密室での取り調べでは心弱くなったとしても,裁判になれば供述が覆るのは必定である。
 おまけに,問題の4億円の原資が分からないままであった。政治献金→銀行融資→個人資産と弁解が変遷し,疑わしいこと限りないが,疑わしいのは被告人の利益となる。うち5000万円についてはちょうどその頃ゼネコンから裏献金をされたと見込んだとはいえ,その供述の信ぴょう性が不明であり,貰ったとされるほうは認めない。そもそも前回私が指摘したように,残額については不明のまま,関係者を逮捕をして何か吐かせて出てこないかという乗りで強制捜査を始めたのだとしたら,非常に問題である。

 そして,やはり何も出てこず,当然の結論となったというわけだ。
 それでも,検察は小沢の金権政治の危うさをあぶりだしたからいいじゃないかという意見もあるようだが,その役割はマスコミが担うことである。検察は自らが強大な国家権力であり,であるが故に抑制的にその権力は行使されなければならない。国民から選ばれていない検察が,自分たちが国家を変える,国を正すという意気込みを持っているとしたら,誤りであり,危険なことである。

 この間,日本が世界からどう見られているか,気になって仕方がなかった。永田町も霞が関も,ひとり国内ではなく世界における日本をどうか考えてほしいと切に願う。
 財政破綻をしたギリシアの例にみるまでもなく,日本の財政も危機的状況であるという。
 先行きが不安である。羅針盤がなく,日本丸がどこに行くのか,不安である。

 このホームページを読んで,感想など送ってくださる方が結構おられる。心より感謝である。

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執筆「若者に広がる活字離れに危機感 文章を読んで思考力を培う努力を」

 活字離れが止まらない。
 かねてからの出版不況のうえ、新聞の購読者数が軒並み落ち込んでいるという。
 新聞は生活の必需品だと堅く信じてきた私だが、今の学生が新聞を読まないのは驚くばかりである。理由を聞くと、高いと言う。たしかに下宿者には高いだろうが、飲み代を少し削れば購読料くらいは出る。
 ニュースはネットで見られると彼らは言うが、ネットには社説・論説がない。各社生え抜きの論説委員が知恵を絞って書き込む記事は、思考力を培うのに格好の材料である。加えて、新聞では記事の軽重が一目で分かる。どの記事を何面に載せ、どれだけのスペースをさくか。どういう解説を、どの識者に書かせるか。各社が頭を捻るからこそ何紙も購読する価値があるのである。
 対するネットではどのニュースも同じに扱う。新しい順に更新され、古い分が消されていく。妻がワイドショーばかり見て、芸能も政治も同レベルの話題にすると嘆く知人がいるが、ネットがまさにそうである。そんな情報をいくら仕入れても知識とはならない。知識とは体系的なものだからである。
 人と接していて、軽いなあと感じることがある。物事を表面的にしか見ない、自分の言葉にならない……。これはそもそもの思考力が不足しているのである。考える力をつけるには、まずもってそうした文章が読めなければならない。漢字が読めるのは当然のことだ。読めなければ自ら考えることはできない。もちろん論理立って話すことも書くことも無理である。
 ネットは単にツールにすぎない。知識あってこその情報である。自らが使える器ではないのに、ただ便利だからとネットを使うのは危険である。だが活字離れは止まらない。どうすればいいのだろうと思う。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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小沢対特捜部

 昨日の通常国会前に特捜部は,かねて調べてきた石川議員を政治資金規正法違反(虚偽記載)で在宅起訴──というように聞いていた。
 ところが,13日には関係各所に強制捜査(捜索差押え)が入った。暦を見ると「先負」。縁起が悪いから普通こういう日にはしないのだが,特捜部もよほど焦っているのだろう。身柄確保(逮捕)は少し遅れて15日夜,「赤口」。
  国会開会中は現職国会議員には不逮捕特権がある。ぎりぎりの日程だった。新旧の秘書も併せた逮捕者は3人。うち大久保秘書は,昨年3月に逮捕されて現在公判中だ。この容疑は以前に書いたが,2000万円程度の政治資金規正法違反にすぎない。しかもまったくの不記載ではなく記載はしたが,その団体の実態が別にあることを知っていたから虚偽記載だ,というそもそもがきわどい容疑であった。無罪になる可能性が大きいと思っていたが,実際,公判の推移で無罪の公算が高まっていると漏れ聞く。逮捕容疑があまりにちゃちかったので,それは突破口にすぎずきっと悪質な事犯が出るはずという読みが外れたのは当初の私の予想どおりであった。

 小沢は嫌いである。顔も喋り方も存在も政治手法も。政治とは言葉で人々を説得するものなのに,彼はまっとうな演説も討論もできない。なのになぜ権力が集中するかといえば,集金方法及び選挙を熟知しているからであろう。田中角栄,金丸信に連なる金権体質の政治家は政界から一掃してほしいと願っているが,ただ,だからといって今回の捜査を是とするかは,自ずから別問題である。
 以前から再三主張しているように,主権在民である。国民が選挙で代表者を選び,国を変える,それが民主主義なのだ。一方特捜部は国民の信を得ていない。その特捜部によって国の在り方が変わってよいはずはない。もちろん法治国家だから収賄など明らかに法に触れる犯罪が出てくれば別だが,狙いを定めて何でもいいから洗うというのは越権である。
 4億円が今回ゼネコンから渡った裏金で,その金を土地買収にそのまま使った,という明らかな証拠でもあれば別だが,今回裏を取っているのは5000万円に過ぎない。あとは関係者を逮捕して何かをはかせようというのであれば,前近代的な手法である。

 問題は特捜部がリーク合戦をしているということである。リークをしてメディアに悪者として取りあげてもらい世論を盛り上げるというのは特捜部の常とう手段であり,メディアもネタがほしいがために批判をしないという悪循環が作られてきたが,本来,捜査の内容を漏らすことは国家公務員法違反にも該当することなのだ。
真に証拠がきっちりあれば,黙々と捜査をして20日後に起訴をすればすみ,これほどのリークをする必要はないので,これは特捜部の焦りと見てとれる。

 自民党も特捜部待ち,敵失で浮かれているようでは情けない。
 国民は雇用問題,景気対策を真に願っている。国会でやるべきことは盛りだくさんだ。自民党も含め政治家が自ら引き起こしている金銭問題に終始するために国民は代表を選んでいるわけでも高い歳費を払っているわけでもない。そのことを肝に銘じてほしいが,どうやらバッジをつけるとみな正常な国民感覚を忘れてしまうものらしい。

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