執筆「遺言を書いて、子供たちへの財産配分を考えていますが・・・」

自由民主党月刊女性誌 『りぶる』

掲載日:2010年5月

カテゴリー: 執筆 | 執筆「遺言を書いて、子供たちへの財産配分を考えていますが・・・」 はコメントを受け付けていません

永田町はどうなっているのだ

 4月に入って,大学が始まったうえ,事件受任が重なり,ばたばたしていた。今日ようやく一息ついている。
 例年にない異常気候で,寒暖の差が激しいうえに降水量も多く,先週末ついに,今期一度も引かなかった風邪を引いてしまった。とはいえ幸い熱も出ず,休むことなく,スケジュールに穴を開けることもなく,ほっとしている。明日から連休に入る。

 この1か月,世間でも何やかやといろいろなことが起こって,めまぐるしい。
 とにかく政権の迷走がひどい。ひどすぎる。国の意思の決定プロセスが分からない。司令塔もなければ責任の所在も不明で,各大臣がてんでばらばらにアピールをするばかり。子ども手当や高速道路料金問題といった各論もひどいが,安全保障は国の基本なのである。米軍をここまで迷惑者扱いをしていて,いざ有事となったら頼む,と言われても,頼まれるものこそいい迷惑であろう。甘えるのもいい加減にしろと言いたい。それとも「有事はない」という前提に立ち,日米安全保障条約は破棄する腹でもあるのだろうか。自衛隊で守れる範囲でなんとかしようというのか。それとも憲法をついに改正して,自前の軍隊を持つのか。何をどうしようとしているのか,さっぱり分からない。とにかく不安である。
 昨年の総選挙前によく言われた。「自民党には不満,民主党には不安」と。そして,国民がとにもかくにも政権交代(オバマ大統領のスローガン「チェンジ」も大きく影響しただろう)を望んだところが,ここまでひどいとは誰が想像していたであろう。私の周囲もみな,もはや怒りを通り越して呆れ果てている。

 ここに来て,急に検察審査会が脚光を浴び始めた。鳩山さんの不起訴は相当とし,小沢さんのは「起訴相当」とした(「不起訴不当」よりも重い)。これを受けて,検察は再捜査をする。結果,あるいは起訴をするのかもしれない。もしまた不起訴にしても,きっと検察審査会は再度「起訴相当」の議決をするであろう。なぜならば,小沢さんの錬金術は許せないと考えるのが法律を超えた庶民感覚というものだから。そして,昨年裁判員裁判が施行になるとともに検察審査会の機能が強化され,二度「起訴相当」の議決をすれば,指定弁護士が検察官になって起訴をすることとなった(検察の起訴権限独占の例外となる。)。いずれにしても小沢さんもこの政権も,窮地に追いやられていることは間違いがない。

 民主党の自滅はすなわち,自民党を利するはずであった。ところが自民党の支持率は上がらない。それはそうだろう。総裁が頼りない,執行部刷新をと仲間割れをし,結局すでに10人以上が離党し,新党が2つ出来たくらいなのだから。
 しかし,素朴な疑問。皆で選んだ総裁をなぜ盛り立てて,助け合わないのだろうか。谷垣さんは谷垣さん,別の人にはなれない。彼はもともと温厚であり,攻撃型の人ではない。そんなことは分かっていて,みなで選んだのだ。それでいて協力をしないというのでは困る。みな大人になってもらわないといけない。
 問題は,政治家が,この国の将来ではなく,次回の選挙だけを視野に入れ,選挙に勝つことだけを考えていることにあるような気がする。

カテゴリー: 最近思うこと | 永田町はどうなっているのだ はコメントを受け付けていません

執筆「多くの反応に心から感謝」

 前回の選挙で落選し、引退された方がつぶやいた。「いつかは人間、幕を引かないといけないから」。?
 何事にも終わりがある。残念だが本稿も最終回となった。早いもので5年。3年目頃ネタが切れて困ったことがあるが、あとは日常のちょっとしたことがヒントになり、毎月楽しみながら執筆していた。多くの反応を頂き、心から感謝申し上げる。
 この際、今後取り上げる予定だったネタをざっと書いておきたい。?
1. 人は何か事が起こらないと分からない所がある。長年連れ添った夫婦でもそうだ。人は互いに向き合うのではなく、同じ方向を向いていることが大事だが、そうあり続けるには不断の努力が必要である。
2. 口の上手い人は信用できない。この理は一般人も弁護士など専門家も同じである。前号でも取り上げたが、責任を感じれば言葉はどうしても重くなる。軽く言うだけならお世辞も約束も簡単だ。
3. 人を見るには金銭感覚が重要な指標となる。お金を何にどう使うかにこそ、人の価値観は如実に表れる。ケチはだめ。浪費家もだめ。
4. 何であれ基本が大事である。  学生には日頃口を酸っぱくして、基本が大事と言っている。民法、刑法が分からなければ特別法は使えない。恥を言うと、上手だと思いこんでいたピアノがいろいろな点で基本がなっていないことが最近分かり、愕然としている。一からやり直しだ。?
5. 準備を万端に。
 その日持っていく物を玄関の決まった場所に置いておくことにして以来、忘れ物がなくなった。服装や髪の毛も綺麗に整えておくと気持ちがいい。  さて、ありがたいことに次号からは別コーナーを担当できることとなった。今後ともどうぞよろしくお願いします。

自由民主党女性誌 『りぶる』

カテゴリー: 執筆 | 執筆「多くの反応に心から感謝」 はコメントを受け付けていません

足利事件について

 先週金曜(26日),足利事件の再審無罪判決が出た。
 まずもって菅家さん,お疲れさまでした。無実の罪で17年。長い。長すぎる。無期懲役刑であればこそ生きて名誉を回復できたけれど,もしこれが1人ではなく2人の殺害で死刑判決となり,そして死刑が執行されていたらと思うとぞっとする。
 想起するのが,一昨年秋に死刑を執行された飯塚事件である。飯塚で起こった,女児2人のわいせつ殺人事件。こちらの被疑者にも前科前歴はなく目撃証人などの客観的な証拠はない。同時期に実施されたDNA鑑定が決め手となった点も共通する。大きな違いは,足利事件には当初あった自白がなく,被告人が最高裁まで一貫して無罪を主張し続けたということだ。また,DNA鑑定の誤りを認める資料となるべき遺留物が残っていないため,鑑定が誤っていて彼は無実であったと確定するに足りる決め手はない。
 死刑執行は,死刑判決の確定後わずか2年であった(法律では半年以内に執行となっているが,実際死刑確定者は約100人滞留していて,2年は短いほうである)。当時すでに足利事件の再審請求及び当時のDNA鑑定の不完全さは知れていたのであるから,まさに死人に口なしとなった。

 さて,今回の再審無罪の結論は分かっていたから,最も考えさせられたのは,実は裁判官3人が起立して深々と頭を下げ,謝罪をしたことである。
 もちろん彼らは当初の裁判に立ち会ったわけではないから,組織として頭を下げたということになるだろうが,では裁判所の上の誰かが指示をしたか? まさか。裁判官の個々独立は民主主義の要であるから決してあってはならないことである。となると彼らは協議して,人として,気の毒なことだからと考え,揃って頭を下げた…。なんだか変だなあと言うと,誰もあまり問題意識を持っていないようなのだ。アメリカ暮らしが長い知識人いわく,「日本は謝罪文化の国だから。誰かが頭を下げないことには納得をしない」。割り切れないままなんとなく納得をする。日本はもともとそうした社会なのであり,欧米,ことにアメリカのような,民族・価値観が多種多様にあって争いが日々当然に起こり,ゲーム(狩の獲物)のような感覚とは異質であると改めて思う。
 菅谷さんたちは捜査にあたった担当検事が謝罪しないと言って怒っていたが,私自身が担当検事であったとしてもそう簡単には謝罪できなかったろうと思う。当時の証拠関係では犯人だと確信していたのだし,また強引な取り調べもしていない。
 実際,検察の現場にいたものとして,世論が早く逮捕して処罰をと望む凶悪犯人について,警察が日夜努力して犯人をようやく見つけ出し,逮捕して送検してきたのを,ちょっと疑わしいからと言って釈放はできないこともよく分かるのだ。それは,殺意は難しいが傷害致死で,とか強姦の犯意が難しいから横領の犯意が難しいから釈放をというのとは次元の異なる話なのだ。凶悪事件の真犯人は必ずいるのだから,疑うことは警察の捜査が失敗だったと宣言することになる。そしてまた一から捜査やり直しとなるはずだが,現実にはそうはいかない。アメリカでも陪審で無罪となっても真犯人捜しはもはややらない。

 冤罪はどんなに軽い罪・刑罰であってもあってはならないことであり,マスコミも含めて我々は日々それがなきよう努めねばならない。

カテゴリー: 最近思うこと | 足利事件について はコメントを受け付けていません

弁護士という仕事

 いろいろなことが起こって,書こう書こうと思ううちに1か月が経った。
 弁護士から裁判官に転ずる弁護士任官が奨励されているが,任官者の一人が弁護士会関係の雑誌にこんな感想を書いておられた。
 長所として,弁護士の時より多彩な案件が扱える,合議が新鮮である(この方が勤務する高等裁判所ではすべて3人の裁判官の合議である),給料が決まって入る……。ただ,決定的に違うことは,「依頼者がいない」。
 実際,依頼者あってこその弁護士であり,依頼者のための弁護業務なので,裁判官や検察官の絶対正義とは異なる。お金のことも考えなければならない。その意味である種やはり商売であって営業のうまい人が流行るのだが,ビジネスの上手さと仕事のまっとうさはもちろん別物である。物を売るでなし,医者と並ぶ専門業務だから,同じ専門家でなければ仕事の内容の当否を判断するのは至難の業である。

 経営者タイプと職人タイプ。大きく分けて,この二種があると思う。
 飲食業を例にとると,自分の手に負える範囲で店を維持する人と,どんどん拡張していく人。好む店は前者である。例えば,寿司屋では赤坂の「喜久好」。夫婦2人のこじんまりとした店。味は超一流だが,人件費はかからないし,お酒は一種のみだから値段はリーズナブルだ。近頃料理屋のような寿司屋もよくあるが,扱うのは常に正統派の寿司のみ。常に同じ味の寿司飯を提供できるのは,プロだからと言ってしまえばそれまでだが,これが出来るプロは実際とても少ない。
 自分がもし料理人であればそういう店をやりたいし,もし医者であれば,先生の顔を見ただけで病気がよくなると患者から慕われる,そんな医者でいたい。前にテレビで町医者のドキュメンタリーを見たが,いわく,大病院は病気を診るが,町医者が扱うのはその人そのものである。弁護士がそこまで深く依頼者に立ち入るわけはないが,ビジネスだと思うことはないし,縁あって自分を頼ってくれた人のために,最善の仕事をしたい。

 懲戒事案を扱う綱紀委員会に所属していることから究極の事案は扱っているが,でなくてもセカンドオピニオンを求められることもあって,へえ,こんな処理をしているんだ,ずいぶんお金を取っているのだなとびっくりすることがある。だからといって,正直にそう言えないのも辛いところであるが。
 正直な歯医者は儲からないと言う人がいるが,同じことが弁護士にも言える。訴訟にするのはめったになくたいてい相談で終わるし,せいぜいが内容証明,よくて(?)示談交渉だ。もともと巷に高額事案はさほどない。ただ,検事時代,配点された事件で被疑者や被害者から感謝をされて味わった充足感と,私をたのんでの依頼者との間で味わう充足感とは別物であると感じる。前者はいわば無色透明で気高くもあり,一方,後者は濃密で人間的なものだ。国会議員は常に不特定多数の人のための仕事であり,個別の人に報いるものではなかった。やはり公務員と自由業の差は大きい。
 依頼者の存在を大いにかみしめ,感謝をせねばならないと改めて思うのだ。

カテゴリー: 最近思うこと | 弁護士という仕事 はコメントを受け付けていません