執筆「友人にマンションを貸したら自殺され、莫大な損害賠償を請求されました…」

自由民主党月刊女性誌『りぶる』

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大相撲八百長──ホンネとタテマエのムラ社会

 大相撲には八百長があると確信していた。何年か前にタニマチの知り合いに尋ねてみたら、「そりゃあるさ」と言ったものだ。「だって、いつも全力で戦わないといけなかったら怪我するし、体もたないよ。だから、お互い手が抜けるときには抜くのさ」。相撲は裸同士のぶつかり合いだ。しかも体重別がない。それをいつも真剣勝負でとことんやって勝敗を決めるのだとしたら、どうなるか考えてみると分かるだろう。同じ格闘技でも柔道やレスリングは体重別だ。しかも15日続けることもない。もちろん球技、個人技を競う体操や各競技種目などとは根本的に違う。

 スポーツであれば、自ずから公明正大でなければならない、となる。もちろん八百長(という言葉自体がいかがわしい響きを持つので、別の言葉のほうがよいかもしれない)などあってはならないこととなる。だが、相撲はスポーツではないとすればどうなのか。お祭りや儀式といったものだとすれば、捉え方が異なるのではないか。そもそも相撲にはリーグがなく、一つ屋根の下に全員がいるわけだ。つまり全員が仲間である。同部屋で星を組まないルールの理由は、同部屋では親密すぎて戦えないからだという。それではつまりは濃淡の差こそあれ、互いに仲間なのだから真の意味で戦えないのではないか。ここに八百長(というか話し合いというか)が介在しないはずがないと思う。例えば相手は7勝7敗、自分は9勝5敗で勝ち越しを決めているときに、頼まれれば当然、また頼まれなくても情けをかけてやらなければムラ社会ではじき出されるはずである。自分は真剣勝負でやっていきたいと思っていても、我が意だけを通すと嫌われて居心地が悪くなる。染まらないとならなくなるのだ。相撲には他のリーグがないのだから、嫌だといってどこかよそに行くわけにはいかないのである。

 組織で周りが不法行為に手を染めているとき、敢然とそれが嫌なのであれば、やめざるをえなくなるのはどこでも同じである。「談合」は国際社会で非難されるが、ムラ社会には必要悪ともいえよう。弱者も助けて共存することこそが強者をも生かす。そこが非情な自由競争社会とは異なるのだ。タテマエでは談合を悪としてもホンネでは認めている。ホンネとタテマエの乖離が、今回の問題の根底にあると思えて仕方がない。

 さて、前に八百長報道がされたとき、協会や相撲力士が出版社及び記者を相手取って損害賠償を起こした。よくこんな訴訟を起こすなあと思って見ていたが、相場よりずいぶんと多額の慰謝料が認められてよけいに驚いたものだ。取材源秘匿は記者の鉄則である(それを漏らしていては次から誰も取材に応じてくれなくなる)。故に記者は取材源を明らかにできないのだが、裁判所は親方のテープも含めて信用性がないと判断したようである。その裏には、日本の国技である大相撲に八百長があることを裁判所が公に認めるわけにはいかないという政策的配慮があったと思っている。理由は後からついてくるのだ。この裁判がまだ確定していないのであれば、被告は今回のことによって敗訴判決を覆すことができるかもしれないし、またすでに確定しているのであれば、原告らに対して改めて損害賠償訴訟を起こせるのではないだろうか。

 さて削除メールの復元技術。これが今回の暴露の根源である。前の野球賭博で押収された携帯電話でのメールのやりとりから、今回の星のやりとりが明らかになったのである。これをdigital forensic といい(forensicは法医学のこと)、金融庁や警察では昨今この技術が飛躍的に向上している。日本振興銀行の摘発もこの技術によった。当人らは、問題のメールは綺麗に削除した、ごみ箱からも消したと安心しているのだが、本体のパソコンや携帯電話自体が廃棄されていないかぎり、本体のどこかにデータは残っていて、復元が可能なのである。だからこそ捜査機関は携帯電話をまずは押収するのである。言った言わないのやりとりは当人らが知らぬ存ぜぬで押し通せば立証は困難だが、こうしたデータは動かせない。DNA鑑定はじめ、科学捜査の発展は目覚ましい。ただ、携帯電話などの技術の進展で生活はいとも便利になったようだが、便利さは危うさと紙一重のところにあることを、使う人間自体が知っておかねばならないと思う。

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『武士の家計簿』『知的余生の方法』『冤罪の軌跡』

 この週末は、(久しぶりに?)読書三昧をしていた。結局新書を6冊読んだのだが(速読である)、中で上記の3冊が良かった。人生を豊かにするのは「友人、読書、旅行」だと言う人がいて、私も同感だが、その理由は、自分一人では経験できない別の世界を経験させてくれるからであろうと思う。逆に言うと、読書をしない人はつまらない。友人のいない人もつまらない。というより、読書もしないつまらない人では友人もできないであろう。

 貴重な時間だから、できるだけ、つまらない人とは関わりたくない。いつも同じ話を繰り返す人。過去の自慢話とか家族の話ばかり。人の言うことをまったく聞かず、自分の意見を上から押し付けてくる人。かつては地位のあった人に結構いるのだ。こちらが退屈そうにしても、生返事をしても、まるで気が付かない。世界は自分を中心に回っているからだろう。そんな人に限って、「どうだ、いい話を聞けてよかっただろう」なんていう態度だから、よけい嫌になる。こういう人には例外なく、友達がいない。何十年も生きてきて友達がいないなんて信じられないけれど、誰もこういう人を友達にしたくはないから仕方のないことである。寂しい人生だが、本人は気がつかない。滑稽でもある。

 『知的余生の方法』(渡部昇一著)は定年後も知的な生活を送ろうと書いている。それには仕事を離れた所で興味を持ち、自分を高めておくことである。年を取ると、基本的に価値観の違う人と関わるのはしんどくなる。同感。かつてわいわいやってそれなりに楽しかった相手とも今会えば如実につまらなくなっていることは結構ある。友人は「基本的な考え方」「経済レベル」、そして「知的レベル」が同じであること。まったく同感。──といった風に当たり前のことが書かれてあり、読みやすい。

 『武士の家計簿』(磯田道史著)は最近映画になったので、買ってみたのだが、実に面白い。文章も素晴らしくて、あっという間に読み切ってしまった。若干33歳頃の著作であるのに、驚く。加賀藩御算用者の猪山家は、代々の算術の才能により藩に重用され、落ちぶれた士族が多い中、維新後は海軍に登用され、高給取りとなる。歴史物だけでなく教養物としても十分に楽しめる内容だ。例えば、「〇石取り」の家というが、具体的に領地を支配して経営をし年貢を計算して…といったことは一切なく、藩がすべての代行業務をしてくれていたため、真の意味での封建制ではなく、それが故に領地を取り上げるときも抵抗が薄く、明治政府に移行できたのだという指摘など。対してヨーロッパでは貴族は領地に結びついていて、それが故に革命を経ても貴族が残っているのだとか。鹿児島もやはり領地と結びついていたので抵抗が強く西南戦争になったとか。歴史を考えるときにいつもあまり経済的な側面を考えずにいるが、実はそうしたことが大きいのである。女性の地位も実は高かったのは知っているが、それも数字で改めて認識した。

 さて、『冤罪の軌跡』(井上安正著)。昭和24年に起きた弘前大学教授夫人殺害事件を当時取材していた読売新聞記者が綴ったノンフィクションである。冤罪事件といえば足利事件が有名だが、戦後のどさくさ期には相当に杜撰な捜査が行われていたのである。冤罪を背負わされた那須隆さんは那須与一の末裔。同じく近所に真犯人がいたのだが(しかもこちらは同時期に同種のわいせつ事犯を敢行していた)、警察は自らのメンツにかけて軌道修正することなく、ひたすら那須さんを犯人に仕立て上げていく。そのためにシャツの血痕もねつ造。動機も不明、凶器も不明。一審判決は無罪を言い渡してはくれたものの、まったく理由を書かない判決だったという(信じられない!)。それもあってか控訴審では有罪となり、懲役15年。出所後に、真犯人が名乗り出る。名乗り出た経緯も、いくつかの偶然が重なった僥倖としかいいようがない。それがなければ再審の申立ては認められず、ずっと濡れ衣を着せられたままであったろう。那須さん、その無実を信じて家屋敷を売ってまで戦った両親、弟妹たちのことを思うと、戦慄が走る。被害者の遺族にとってもそれは同じことであったろう。古畑鑑定は多くの冤罪事件で問題となり、信ぴょう性が否定されたが、冤罪作りに手を貸す鑑定とは一体何なのだろうと思わされる。

 最近の冤罪事件といえば厚労省元局長事件である。証拠ねつ造も昔からあったのだと言えばそうだし、捜査機関のメンツが優先して、国民の人権はないがしろにされるという構図は同じである。ただしこの事件ではまだ真実が明らかになったわけではない。まさか係長が直接に頼まれて単独で偽造なんてできようはずがない。一体誰の指示であの偽造がなされたのか、国民は知らされないままだ。一方、前田検事を隠避したとして起訴された元特捜部長と元副部長がようやく保釈になった。検察としては起訴した以上有罪を取らなければならないが、しかし彼らが否認してくれていてその上は助かっているはずである。組織なのだから、彼らの一存でそんなことができたはずもない。検察にとっては大いなるジレンマだ。いずににしても明らかにしないといけないのは「真実」である。本当のことを言わないと、そのうえで反省をしないと、あなたは更生できないよ…捜査官はそうやって被疑者を諭しているのだから、自らこそ襟を正さなければいけない。

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成瀬巳喜男監督作品について

 昨年のことだが、依頼者の方が、大量に邦画のDVDを下さった。メインは成瀬巳喜男監督と黒澤明監督。成瀬監督は小津安二郎監督ほどは知られておらず、このDVDで初めて観たものばかりなのだが、実に素晴らしい映画がたくさんあって、感動している。

 「秋立ちぬ」「おかあさん」は全国の子どもたちに是非見てほしい名作だ。今は学校で映画上映などしないのだろうか。貧しいけれども人々は温かく、みながそれぞれ一生懸命に生きている。ああ、いいなあと素直に思う。上質な脚本で、どの台詞も選び抜かれ、どの人物にもリアリティがある。地道にしっとりとカメラはそれを映し出す。役者のちょっとした表情や仕草、舞台のしかけが無言のまま観客に多くのことを物語り、それが余韻につながるのだと思い至る。引き換え、今のドラマには動きやら台詞やらが多すぎる。

 昔の著名な俳優に接せられるのも大きな喜びである。「浮雲」(林芙美子原作)は大晦日に亡くなった高峰秀子の代表作である(「稲妻」にも主演)。「めし」(林芙美子原作)、「山の音」(川端康成原作)では上原謙と原節子が夫婦役を演じている。上原謙は二枚目だが大根と言われていて、たしかに何をやっても「上原謙」だ。それ以上に、姿勢が良くないのが残念である。立ち姿が決まらないうえ(役者は姿、声、演技と言われる)、ご飯を食べるときにテーブルに前かがみになるのが気になる。原節子は小津監督お気に入りの女優だが、何をやっても「原節子」という感じで、あまり表情が豊かな感じもしない。とはいえ、彼らは当時の典型的な美男美女なのである。

 「晩菊」の杉村春子、文句なく上手い。「あにいもうと」(室生犀星原作)の京マチ子、久我美子。「山の音」の山村聡が素晴らしい。加えて演技達者な名脇役が多い。ほぼどの映画にも登場する加藤大介は善人から悪人まで演じ分けている。老け役専門の浦辺粂子や性格俳優的な中北千枝子、などなど。この時代は映画の黄金期だったのだなと思う。成瀬監督がサスペンスに挑戦した「女の中にいる他人」もいい。新珠美千代、小林桂樹、三橋達也…。若かりし頃の草笛光子も登場する。

 最後の映画となった「乱れ雲」は絶対にお勧めである。カラー作品。夫を事故で失った女性(司葉子)が、加害者の男性(加山雄三)と恋に落ちるが、悲恋に終わる切ない話である。加山雄三が当時30歳の若いオーラを発していて、実に素晴らしく、びっくりした。今時こんな好青年はおるまい。司葉子の気品ある清楚な美しさも、他では決して見られないものである。この方は自民党の相沢代議士と結婚していて、国会議員時代に私も何度かお会いしたことがあるが、御夫君の選挙運動をかいがいしく手伝われ、飛行場でバスに同乗するときには御夫君と同行されればよいのに、私に「先生、お先にどうぞ」と言って下さったりした。実に人柄そのままに謙虚な賢さが画面の演技として表れたのだろう。当時この映画のことを知っていたら、私は御本人を前にきっと緊張してしまったに違いない。

 黒澤明監督の「羅生門」。原節子を予定していた女優が京マチ子となり、でも京マチ子で大正解だったと思う。三船敏郎は同監督の代表作「七人の侍」でも主役を演じている。どちらもが世界の他の映画にその後決定的な影響を与えている。あと同監督の代表作を見て、その後は小津監督の映画を見たいと思っている。洋画も、今のではなく昔の傑作を是非見てみたいと思っている。人間が生み出した素晴らしい芸術に、接しなければ勿体ない。

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内閣改造に思うこと

 内閣改造には驚いた。というかがっかりした。というと、ニューヨーク在住の知人は、まったく報道されない。中国在住の知人は、報道される度に日本の評価が下がる、と。

 依然、構造は反小沢という対立軸だ。そんなコップの中の嵐というか内輪もめには国民はもう辟易している。そんなことより、誰でもいいから、日本が沈没しないようにどうかしてくれと、切に願っているだけである。反小沢のメンバーしか入れないので、人材が偏るらしい。そういえば、官房長官に就任した枝野さんは半年前、参院選大敗の責任を取って幹事長を辞任したのだし、官房副長官に就任した藤井さんは、たしか鳩山首相のときに、体調不良を理由に財務大臣を辞任した。みんな、「昔の名前で出ています」…。

 といえば、与謝野さん。3年前自民党の総裁選に出て敗れたが、麻生内閣の副総理を務めた。その下で解散した2年前の総選挙では選挙区(東京1区)で落選し、比例復活したのだが、昨春離党して「たちあがれ日本」を結成し(平沼さんと共同代表)、自民党は除名になった。そして今回、連立工作が失敗して(?)離党、菅内閣の一員になった。なんとも解せないと、私の周りは寄ると触るとこの話である。もともと「たち日」は民主党政権打倒を掲げていたし、御本人も民主党を批判する本も出している。だからおかしいという以上に、選挙民は自民党の与謝野さんに票を入れたのだから、民主党内閣に入るというのであれば議席を返上してからでないと筋が通らない。菅さんは与野党協議にうってつけなどとのんきなことを言っているようだが、審議は進まないであろう。出自の正しさは民主主義において必要条件だからである。

 与謝野さんはずっと頭のいい人だと言われていた。実際、答弁など聞いていても、これほど安心して聞いておられる政治家も他にいなかった。それ故にとても残念である。この例に限らず、だんだんとイエスマンしかいなくなって、勘違いの極みになる人が周りを見ても結構いる。引き際を綺麗にすることが人生の花道なのにと思うが、あなたに代わる人はいない、是非あなたに頑張ってもらわないととおだてる人がいるのであろう。そんなことはないよ、あとは若い人たちに任せたよ、と言えるのは実は本人しかいないのだ。親身になって苦言を呈する人はだんだん遠ざけられ、あるいは自ら去っていく。人って悲しいなと思う。せめて自分自身は客観的に自らを見る目を持ち続けたいと願っているのだが…。

 増税も仕方ないとは思うが、まずは徹底的に無駄をなくしてからのことである。公約だった公務員改革もなされていないし、仕分けもパフォーマンスに終わっている。政治主導は掛け声だけだし、実際こんな体たらくでは官僚を排除してただ政治家に国を任せられるはずもない。誰か、英雄が出てきてくれたらいいのだが…。

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