ワールドカップ、大相撲から思うこと

よくある話だが、私もこのところ俄かサッカーファンになり、テレビも見たし記事もずいぶん読んだ。4年前の時は、日本が一次リーグを突破したこと、北朝鮮がおよそありえないほどの大差で敗れ(ポルトガルに7対ゼロ)選手らは祖国に戻れば命がないのではないかしらんと案じたこと、くらいしか記憶にないのだが。

さて今回、前回を超えるベスト8進出が目標だとか、はては優勝だかまで言う選手がいて、日本のサッカーは今や世界有数になったのかと信じ込んだ人は、私を含めて大勢いたようだ。しかし一勝すら出来ず、実態を知ればFIFA世界ランキング46位(リーグトップのコロンビアは8位)! つまりは実力通りの結果だっただけで、運が悪いのでもたまたま力を出し切れかった訳でもない。もともとスポーツほど実力がものを言う世界はないのである。体格、身体能力、ボールの扱い方、集中力、手法、どれをとってもまだまだ世界レベルにはほど遠い。優勝したドイツはやはりすべての面において、堂々の世界一である。

入れ替わって大相撲名古屋場所が始まった。注目の遠藤は、初日照ノ富士に、昨日(2日目)は妙義龍に敗れて、連敗。大相撲の世界に入ってすでに1年が経ち、スピード出世と華麗な技を披露して注目を浴び続けたうえ、多額の懸賞金がかかるとあっては、他の力士たちにとってこれほど発奮できる相手もないであろう。人気者にはこれからが本当の試練の時だが。恵まれた体の柔らかさと相撲勘を生かし、たゆまぬ精進をしていってほしいと願う。

今回目を見張るのは、照ノ富士関である。モンゴル出身22歳。190センチを超える堂々とした体躯は、押しにも引きにもびくともしない。初日遠藤を、昨日は栃の若(やはり190センチ超え)を、いずれも熱戦の末に下し、ファンが選ぶ「敢闘精神溢れる力士」1位に連日選出された。熱戦が終わっても息も切らさず平然としているのは、並大抵の器でないことを知らせてくれる。以前から横綱の器と言われていたが、なるほどである。横綱級の逸材としては、他に逸ノ城がいる。先場所十両優勝を果たし、来場所は確実に入幕するだろう。モンゴル出身20歳。そう、横綱3人の引退時期には彼らがうんと上に上がってきて、つまりはモンゴルの系譜がつながるのではないか。日本人期待の星遠藤関の敵は上位の力士だけではないのである。

アスリートはまずは体格と身体能力だ。天与の才を土台に、環境と努力によって自ら鍛錬を重ねていくものである。相撲は「四股、鉄砲、すり足」、基本の動作がきちんと出来ることがすべてにつながる。投手でいえば速球での勝負。小手先のテクニックは結局通用しない。そしてこのことはひとりスポーツの世界に限らず、芸術でも学問でも、すべての分野に通じるのではないかと思うのだ。学問であれば「読み書きそろばん」、絵であればきちんとデッサンが出来ること、ピアノ演奏でいえば、音階がきちんと弾けること。ベートーベンなどの古典がきちんと弾ける人はあとどんなものでも弾けるが、フランスものやロマン派ばかり弾く人の古典派演奏など、およそ駄目である。ごまかしのない基本。政治の世界にもそれは当然に言えるのだが。

滋賀県知事選、当初優勢と言われていた与党候補が、野党候補に惜敗した。敗因は、解釈改憲など正道を踏み外したことへの失望が民意に表れたのだと思われる。官僚をやめてまで出た候補者は、誠に気の毒としかいいようがない。

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平和憲法を捨て、なぜ「普通の国」になる必要がある?

東京新聞にドナルド・キーンさんの「私の下町日記」が掲載されるのを楽しみにしている。氏は平和主義者で、戦争は大嫌い。「源氏物語」に傾倒したのは、戦争がなくただひたすら美の追求がなされていることにあったという。

氏いわく、日本はこの60年間戦争でただの一人も死んでいない、何よりも素晴らしいことだ、これは平和憲法のお陰である。それを捨ててなぜ(集団的自衛権の行使を認める)「普通の国」にあえてなる必要があるだろう。そんなことをしなくても日本が世界に貢献できることはいくらでもある‥。

その通りなのである。国際的にどの国も究極目指すべきは平和である。無法な国があったとしても、それを解決すべきは外交であって武力ではないはずだ。日本の平和憲法は、どの国も目指すべき理想を体現したものであり、唯一の被爆国である日本は誇りをもってこれを推進すべきなのだ。その姿勢を、尊敬する国はあっても軽蔑する国はないと思う。よしんば軽蔑する国や人がいたとして、それが誤りであることは歴史が証明してくれるだろう。国が全力をもって目指すべきは平和であり、国民の安全なのである。

戦争が悲惨な現実でしかないことを、多大な不幸を生むことを、まるで知らない世代が為政者となり、国を誤った方向に進めているとしか思えない。振り返って帝国主義時代、軒並み植民地の時代に、日本がある意味やむをえずに起こしたのかもしれない大東亜戦争ですら、後世から見れば、国を誤った方向に進めたと非難されている。今平和憲法の下で、なぜ無理やり、ただ自分たちは正しいのだと、国を正しい方向に導いているのだと、為政者が他の聞く耳を持たずに勝手に進めてよいわけがない。

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解釈改憲、閣議決定により集団的自衛権を認めることは許されない!

昨日久しぶりにタクシーで帰宅をしたら、永田町は大きなデモで、警察官もいっぱい出ていた。もちろん集団的自衛権反対のデモである。本当に、よくぞまあこれほどの暴挙をしてくれたものだ。憲法9条は1項で「戦争及び武力の行使を永久に放棄し」、2項で「戦力はこれを保持しない。国の交戦権は認めない」と言っている。その下で作られた自衛隊については、当初違憲であると争われたが、どの国にも自然権としての自衛権があり、あくまで専守防衛のための最低限の軍事力であるとしてこれを認めてきたのである。

集団的自衛権は、例えば同盟国であるアメリカが他国から攻撃された際にこれを自国への攻撃とみなして武力を行使する権利である。「北朝鮮がアメリカを攻撃した際、日本が手をこまねいているだけというのはおかしいでしょう」と言っている議員がいたが、北朝鮮が近い日本への攻撃を飛び越えてアメリカを攻撃するなんてことは机上の空論であろう。「日本人母子がアメリカの船で救出されているときに攻撃されて日本が反撃できないとおかしい」との例も出されたが、日本人の救出であれば単なる自衛権で済む話であり、集団的自衛権など持ち出してくる必要もない。つまりはもって、どのような場合に集団的自衛権が実際に必須なのか、実現性のある例は一つも見出せないままである。

万が一的確な事例を見出せたとして、で攻撃をした、はい終わりといった簡単な話では済まないのである。ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争‥どの戦争も長引き、泥沼化したのは周知の事実である。始めるのは簡単だが終結は難しい、それが戦争というものである。だからこそどの国も戦争とならないよう最大限外交での努力をしなければならないのだ。戦争は外交の失敗であるから、正義が一方にだけあろうはずはない。イラク戦争では大量破壊兵器ありとの虚偽の情報を真に受けて日本も自衛隊を派遣することとなった。もちろんその時はまだ後方支援でしかなかったが、集団的自衛権が正面切って認められてしまえば後方支援では済まなくなる。実際、アメリカの同盟国は自国の兵隊を多数送り、たくさんの血が流された。自国及び自国民を守るためならばいざ知らず、彼らはいったい何のために誰を守るために尊い血を流したことになるのだろうか。おまけに、被攻撃国にとってみれば参戦国はすべて同じように憎き敵国となるのだから、当然にテロの対象となる。日本及び日本人が狙われることになるのは日を見るより明らかなのだ。

それでもどうしても集団的自衛権を認める必要があるというのであれば、国民にその旨きちんを説明をし、納得してもらったうえで、憲法改正という手続きによらなければならないのは法治国家である以上当然のことである。96条の要件が厳しすぎるので閣議決定によるというのではまさに脱法行為である。憲法の下位規範である法律ですら閣議では変えられない。もちろん法律制定・改正は国民の代表者によって構成される国会によるのであり、だからこそ国権の最高機関は国会なのである(41条)。それを上位規範の憲法であれば閣議で変えられるというのは、一体どういう思い上がり、見当違いによるものだろうか。閣僚には法律家もいるし、もちろん自民党にもたくさんいる。そもそも大臣、国会議員、裁判官その他の裁判官は憲法尊重擁護義務を負っているのである(99条)。言葉がない。

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都議のヤジ事件について思うこと

まったくもう,みっともない。というのが率直な感想だ。少子化問題について質問していた女性都議(みんなの党所属)35歳に対し,自民党議員らから「早く結婚しろよ」「自分が産めよ」「産めないのか」といったヤジが飛んだという話である。これが公になったのは女性都議が訴え出たからであって,でなければ闇に葬られたはずだ。つまり,ヤジ議員らに言わせれば「なんと運が悪い」。

国会議員になっていろいろ驚くことはあったが,うち一つがヤジだった。怒号と言ってもいい。それで質問も答弁も聞こえなくなると,議長・委員長が「静粛に」と命じる。静粛な法廷にしか縁がなく「どうして黙って人の言うことを聞いてられないの」と言うと,先輩議員いわく「だって黙ってたら退屈で寝てしまうじゃないの(笑)」。寝ている人も事実多かった。法廷では当事者は(陪席裁判官はともかく)寝てはいられない。国会では結局のところそれほど大事なことがなされていないということでもあるのだろう。なのでつい笑いを誘うようなヤジならよいのだが,品の悪いヤジがずいぶん多かった。

今回の都議たちもいつもの乗りでヤジっていたのだろうと思う。品が悪いなと感じた人は結構いたと思うが,誰一人これほどの大事になるとは思わなかったと思うのだ。実際,当の都議会の反応は鈍く,「早く結婚しろよ」とだけは野次った旨名乗り出た一人を除けば,誰が何を言ったのかあるいは言ってはいないのか明らかにならないまま終結した感がある。国内よりむしろ海外での反応が大きかった。どの国でも議員がこんなことを言うことはないし,もし言えば辞職は確実と思われる。今はどの国であれ(イスラムの一部の国を例外として)性差別や人種差別に敏感だ。民間ですらあまねくそうなのだから,市民や国民の代表である公人はどれほど敏感であったとしても敏感でありすぎることはない。

今回の事件が明らかにしたのは,日本の公人に残念ながらその自覚がなく,そういう人が公人に選ばれているという実態である。言葉というのは,教養を柱とする人格の如実な現れだから,たまたま失言をしたので謝罪をするといった問題ではない。都議ではなく国会議員や大臣にしても,やれ(福島に関して)「結局は金目でしょ」とか,(集団的自衛権に関して)「勉強が出来ず喧嘩も弱い金持ちがいちばんいじめられる」とか言っている。これらはすべて人格の発露なのだ。そういう人を選んでしまっている(だから国際的にも日本の格を貶め国民の恥辱となる),またそういう人が選ばれる選挙制度が問題なのだという根本的問題が露呈されたと感じている。事は単に性差別のヤジの問題に止まることなく,相当に根が深い。

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執筆『賃貸契約が定期借家権に切り替わり、賃料も値上げするようですが・・・』

自由民主党月刊女性誌「りぶる7月号」

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