選択的夫婦別姓について(同性婚とも絡んで)

この日曜(9日)午前10時~自民党党大会に出席してきた。党紀委員をほぼ20年やっているので(前参議院議員枠が1つある)、招待があるし、席も用意されている。司会は女性局長及び青年局長。女性局長を2年余やったので、2回は司会をした。党歌斉唱のピアノ伴奏もしたなあと懐かしく思い出した(ホテルも会場もずっと同じ)。この度は70周年記念大会である。そう、私の誕生年と同じなのだ。森山幹事長も石破総裁も、ペーパーを見ることなく各種数字を挙げ、途中一度たりとも詰まらず、すらすらと話したのでびっくりした。安倍総裁もそうだった。よほど練習をされたにしろ、なかなか難しいことである。何かコツがあるのだろうか。

来賓は、いつもの公明党代表及び経団連会長に、初めて連合会長もよばれていた。芳野友子さんは4年前、初の女性連合会長に就任し、独特のヘアスタイルも相まって一般にもよく知られている。何を話すのだろうか、もしかして選択的夫婦別姓について?と思ったらピンポンだった(他に2点あったが、メインはこれ)。いわく、結婚によって姓を変えるのは圧倒的に女性である。アンケートの結果(誰を対象にどの範囲で実施したアンケートかは不明)、20代男性の選択的夫婦別姓賛成が一番多かった、キャリア形成が途中で妨げられるからだと(つまり働く妻のことを考えているのだし、自分の姓はもちろん変えられない思っているのであろう)。この会場はほぼ男性だが、自らのこととして考えて欲しいと。強固に反対をしている自民党の一部強硬派に向けた話だろうが、なかなか説得的だったのではないかと思う。総裁は推進派なので、あるいは戦略的に芳野会長に来賓を依頼したのかもしれない。

公明党は賛成だし、野党もすべて賛成している。自民党にも推進派は多い。故に、自民党の党議拘束さえ外せば、難なく通過する法案である。民法と戸籍法を改正するだけなのである。韓国のように夫婦別姓にするのではなく(ここは婚姻によって姓は変わらず、生涯不変である。子供は夫の姓になる)、同姓を選びたいカップルはそうすればよいし、別姓を選びたいカップルはそうできる、と選択の自由を認めるだけなのだ。これによって従前、姓の変更が障害となって事実婚やむなしだった夫婦にも結婚の選択肢が広がる。そもそも姓は、親がつけてくれた名前と一体となって自分の一部であり、それを結婚によって(少なくともどちらかは)変えなければならないというのは根本的な人権に関わる問題ではないのだろうか。結婚による姓変更を強いているのは今や日本だけ。国連からの度重なる勧告は無視である。法務省法案は30年近く前に出されているのに、政権与党であった自民党が強固に拒んできたのだ。何のために?

先月、旧知の女性国会議員から突如電話があった。私が推進派とは知らずに?(弁護士で反対している人はほぼいないと思うよ。)掛けてきたらしい。いわく、夫婦が別姓だとすると子供の姓はどうするの? 法務省案は当初婚姻時にどちらの姓にするかを決めておく(兄弟姉妹の姓は同じ)のに対し、公明党案は出生の度に決めるという案である。私は後者でよいと思っている。子供を産むことのない熟年高齢者カップルもたくさんいるし、若い人であっても実際子供が産まれるかどうかは分からない。彼女は、戸籍筆頭者をどうするの?子供の姓は戸籍筆頭者に合わせないといけないのではないの?とすっかり戸籍の問題になっている。戸籍というのは技術的な問題で、それに実体が振り回されるのはおかしいでしょ、と言うと、「それは他の国には戸籍がないからよ。イスラムなんかないよ」ときたものだ(韓国は戸籍が整備されている)。通称(旧姓)でも銀行口座を作れるように金融庁が指導しているのに応じない銀行があってそれは銀行の問題だと言うし、とにかく戸籍は同姓とし、キャリアのある女性は旧姓を通称としてできるだけ不都合が生じなければよいんでしょ、と反対派は押し切るつもりらしい。しかしそもそも、2つの名前を持ち、場面によって使い分けるというのはとても面倒なことだよ、私は嫌だね、子供も持たないのだったらよけいになんのために夫の姓になる必要がある? 姓を変えたら多くの通帳口座ばかりか、いろいろなところに多くの問題が発生する。であれば婚姻せずに事実婚で、となるだろう。

しかし事実婚では困るからと、同性婚訴訟が起こされている現実はご存じなのだろうか。法律婚でないと相続権はないし、入院や施設入所の承諾者にもならない。最近読んで感銘を受けた『透析を止めた日』(堀川惠子著)は、夫の透析を見かねて腎移植を考え、自分の腎臓を提供すると申し出たところ、婚姻をしていないとダメ、それも3年と言われたため(臓器売買が問題になっているからである)、それまで姓変更が嫌で事実婚を通していたのを入籍に踏み切ったとのこと。3年後と言っているうちに夫の容態が悪化し、なんと75歳の夫の母親が腎臓提供者になったとのことである。これは極端な例かもしれないが、法律婚でないと出来ないことは結構ある。今や同性婚訴訟は高裁で何件も違憲判決が出て、遠くないうちに最高裁での判決も出る見込みである。こちらは「婚姻は両性の合意のみによって成立する」(憲法24条)に明らかに違反しているが、どうやら今の雰囲気では最高裁も違憲だと言いそうである(憲法の同規定の趣旨は親の同意は要らないというだけであり、同性婚は当時想定されていなかったからという理屈である)。であれば、男と男、ないしは女と女を正式なカップルとして認めるということになる。

婚姻届を見ると「夫となる者」「妻となる者」の記載がある。性同一性障害により審判で性変更が認められた当事者については、変更後の性に従って夫か妻かということになる。同性婚も正式な婚姻として認めて戸籍を作る(家族になる)となると、戸籍の構造そのものを抜本的に変えることになるはずだ。これに比較すれば、夫婦の姓の問題など、本当に形式的なことにしか過ぎない。それでも困っている人、結婚に躊躇している人がいるのは事実であり、政治はそういう人たちを救済するために動くべきもので、自分たちの理念を押しつけるために動くのは本末転倒である。結婚して子供を2~3人作り、離婚もせず平穏に一生を終えて、というカップルは理想かも知れないが、そうでない人は現実にあまりに多い。離婚をしたら妻は旧姓に戻るか現姓(=夫の姓)を続けるか、旧姓に戻れば子供と姓が異なるから子供の姓を変えるか(家裁への申立でこれは簡単にできるが子供は嫌だろうと思う)、その後再婚すれば新たな夫の姓に変わるのか、そうしたらまた子供の姓を変えるか…そうした現実に翻弄されている人たちも実際結構いるのである。まさか、姓を変えないために離婚をするな、再婚もするな、というのだろうか。これこそまさに本末転倒であろう。そもそも夫婦が別姓であれば子供の姓は親のどちらかとは当然異なるのだし、親の離婚や再婚で変えられることもない。氏名は自分の大切なアイデンティティなのである。

ちなみに姓は不変であるのが、犯罪取締り上も理想である。前科調書をずいぶんと見てきたが、戸籍名は1つだが通称名の記載欄にいくつも書かれている人もいた。何度も婚姻を繰り返した女性などである。それは余談だが、男女ともごく若い時であればともかく、年を取るほどに公私共にキャリアは積まれ、それと一体となった自分の名前は変えたくないと願うものだろうと思う。

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木村仁先生を偲んで「穏やかな笑顔、忘れません」

『参風』(一般社団法人参議院協会)第190号

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3月になりました。私のお洒落歴など。

今月末、大学は定年退職を迎えるが(定年退職は初めてで、最初で最後の経験になる)、20年勤めたこともあり、名誉教授を頂ける運びになっている。本当に有り難いことである。なお退職金など想定外だったが、頂けることを知り(退職金は無税)、これまたとても喜んでいる。臨時収入だ。大学の自分の部屋もほぼ整理し終え、あと教員会議に行けば、4月からは講義も試験採点もない。講義がなくなるのはちょっと寂しいかもしれない。ただ週1日とはいえ、片道2時間の通勤がなくなるのでその分体は楽である。自由業の区切りをつけるのはなかなか難しいだろうが、定年のある職種は否応なく区切られるので、ある意味気分的に楽かもしれない。

臨時収入が入るのを見越して(?)またまた毛皮を買ってしまった。すでに7着もあるのに、これ以上増やしてどうするというのだ!? 傍から見れば呆れるばかりであろう。だがこれは私の道楽(趣味)なので、致し方がない。お金を使うとすればお洒落しかないのである。家は要らないし、家具も要らないし、旅行熱はないし、ピアノは家に2台(加えて実家に1台)ある。40年の間に貴金属やアクセサリー、スカーフやショール、ハンドバッグなど増えすぎて身は一つしかないので、あちこちに分けてかなり整理しているのだが、それでも人様が見たらびっくりするほど、たくさんある。着物はわずかにこの11年であれよあれよと増えすぎて、置く場所も着る機会も追いつかないほどである(誰か着てくれる人がいたら、差し上げたいくらいだが、着物もサイズがあるのでなかなか難しい。売れば二束三文だし)。

顧みて、物心ついたときから、私はお洒落が大好きだった。母が洋裁をやっていて、家には高度なミシンと洋裁用ボディがあり、服飾雑誌が毎月届いた。ろくな既製服がない当時、母は顧客ばかりか私の服も作ってくれていたので、私は自分のデザイン帳を持ち、服飾雑誌を見ながら、次はこういうコートが欲しいとかデザインをしていた。そして三宮のトアロードの行きつけの店に一緒に行って、生地やボタンその他を選んだのである。大学では周りがジーンズの中、ひとり違う服を着ていたので、「六甲台のベストドレッサー」と言われていたらしい。他学部から見に来る人もいて、「お医者様のお嬢様だそうですね」と面と向かって言われたときには、びっくりした。まさかあ。本当に普通の、サラリーマンの家である! 

ただ普通のサラリーマンにしては、5歳の時に当時20万円もした(父の給料は月1万円だったのに)ヤマハのアップライトを、母が内職で捻出して買ってくれた。8畳の狭い寮に象牙のアップライトが運び込まれた日には大勢が総出で見物していたものである。それが壊れてしまい(弦が2本ほど切れた)、19歳の時には値上がり前のグランドピアノを買ってもくれた(当時60万円。値上がりで100万円になると言われたのだ。このピアノは今も健在で尾道の実家に置いてある)。服は母が作ってくれるのでいつもいいのを着ていたし、お弁当は周りが見に来るほど手の込んだ母の手料理だったし、見かけ以上の暮らしをしていたかもしれない。オーブンが昭和30年代初めからあり、毎日シュークリームやプリン、ケーキが焼かれていた家はほぼなかったはずである。そのことを同級生たちの家を回って私は知ることになる。ちなみに私もケーキ作りは得意であり、パウンドケーキ用のラム酒漬けフルーツは常備していて、作って大学に持っていくと非常に驚かれたものである。母は出汁一つとっても最初から作る本格派で、衣食住のうち衣食は完璧な生活だった(とずいぶん後になって思うようになった)。

「三つ子の魂百まで」という。とにかく私はお洒落が大好きで、いつも頭のどこかはお洒落に占められていた。何を着ていこうという楽しみがあるから仕事にも行けるよね、と本気で思っていた(今はさすがにそこまでではない)。毛皮を初めて買ったのは東京地検にいた28歳の時だ。同僚の結婚披露宴に着ていくワンピースは買ったけれど、この上に毛皮が欲しいよねと思っていたところ、目に飛び込んできたので、即刻購入した。あの瞬間はよく覚えている。60万円也(消費税はまだなかった)。茶色ミンクのハーフコート。月20万円ほどの安月給で買えるわけもなく、勧められるままにローンを組んだ。人生初めてのローンである(最初で最後だ)。詳細は覚えていないのだが、24回払いだとしても月3万円近く払うことになっただろうか(それとも36回払いにしたのだろうか?)。その後松山に赴任して懐具合が厳しく、毎日弁当を作って持っていったのをよく覚えている。あれでローンにはすっかり懲りた。そんなに苦労して買ったコートなのに、だんだんみすぼらしくなり、母に上げてしまい、しばらくして見たら毛が抜け落ちて、とても着れないものになっていた(毛皮も消耗品である)。

毛皮の値段は以後どんどん下がっていき、私の収入も上がっていったので、15年程前100万円のレオパードキャット(イタリア製)も普通に買えた。結局全部で20点は買ったと思う。韓国に出かけて買ったこともあるし、日本橋三越でも何点か買った(毛皮コーナーは閉店になって久しい。有楽町のエンバも閉店した)。どれも人に上げたり、あるいは廃棄して残っておらず、今ある8着はすべて別の所から買ったものである。いったん暖かくなった今月初め、気の早い私は一部の衣替えをしてしまったのだが、昨日の寒さは毛皮なしではやっていけずまた着ることになり、今日も、たぶん明日もそうだろう。毛皮の暖かさ軽さは、カシミアなど普通のコートの比ではない。毛皮らしくないよう今は加工されているのが主流であり、私には必需品だと思っている。

出色のノンフィクション作家・堀川惠子さんの『透析を止めた日』のことやら、選択的夫婦別姓ないしは同性婚のこと、最近の親子の法的事情やらのことを書きたかったが、それはまた後日に。

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『亡くなった夫に腹違いの兄がいました!』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2025年3月号

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『ベルサイユのばら』に思うこと

週末、タブレットをいつものように弄っていたら、やたらと『ベルサイユのばら』がヒットするのに気がついた。劇場アニメが公開されるそうである。もともとの漫画はマリー・アントワネットらの20年にわたる話で、それをわずか2時間にまとめるのは難しいし、もともと映画を見に行く習慣がないのでそれはパスしたが、テレビアニメ版がネット上で一部公開されていたので、つい懐かしく、見てしまった。

当時の少女たちの愛読書であった週刊マーガレットに『ベルサイユのばら』は連載された。50年前のこと、作者である池田理代子さんは当時まだ大学生だったらしい。彼女が創作した男装の麗人オスカルが格好良すぎて、他の高校生たちと同様、私も存分に嵌まった。オスカル宛てに恋文まで書いていた。恋文を書いたのは後にも先にもそのときだけである。恐るべし、創作の威力である。

時代背景はフランス革命前。時のブルボン王朝はルイ15世の孫16世が王となり、その妃はあまりに有名なマリー・アントワネット(ドイツ読みだとマリア・アントニア)である。彼女は時のオーストリアの名門ハプスブルグ家の娘たちの末子として生まれ、母親のマリア・テレジアによる政略結婚の駒として、歴史的に犬猿の仲であったフランスに送り込まれたのである。1755年生まれで、未だ14歳。未熟過ぎるのに、オーストリアからのお付きは一切許されず、周りに相談をする人もいない。1歳上の夫は善人だが頼りなく、趣味は錠前作りと狩猟で、もともとの社交嫌い。妻とは真逆である。王妃の第一の勤めは跡継ぎを産むことだから、それがすぐにでも果たされていれば話は違っただろうが、夫は毎夜妻の元に通ってはくるものの(仮性包茎で?)夫婦関係は持てず、それが何年も続くことになる。義兄に進言されてようやく手術を受け、晴れて子供が生まれたのは結婚して実に7年後のことである。アントワネットは2男2女を産み(育ったのは1男1女のみ)、良き母であり、夫婦仲も良かったようである。

マリー・アントワネットが断頭台の露と消えたのは1792年9月、享年37歳であった。フランス革命記念日として世に知られるパリ祭7月14日は、民衆によるバスティーユ監獄襲撃勃発の日であり、これを3年遡る1789年のことである。世のあちこちで革命が起こり国のトップの処刑など珍しくないが、中でアントワネットが群を抜いて有名なのはなぜなのだろうか。美しい女性だからか(物腰の優雅さは喩えようがなかったという)、著明な母親の娘だからか、と考えたこともあったが、その理由は、長く一途に相思相愛だったスウェーデンの大貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵の存在故だと書いてある本があって、妙に納得した。彼はマリーと同い年、互いに18歳の時にパリの仮面舞踏会で知り合い、運命的な恋に落ちる。政略結婚が普通であった時代、夫婦は世継ぎさえ作ってしまえば恋愛は自由という風潮であったが、二人はプラトニックだったとの説も強い。『マリー・アントワネット』の著者である歴史家ツヴァイクは、国王一家が革命勃発後に軟禁されていたチュイルリー宮殿での「この一夜」との説を採っている。ルイ16世がとにかく女性関係など微塵もない夫だったので、妻ひとりが羽目を外すわけにもいかなかっただろう。もともとマリーは厳格な両親に育てられ、不倫などあるまじきことと思っていた節もある。この夫婦は全くもって似ておらず、フランス国民としては、地味で目立たない自分たちの王ではなく、ファッションリーダーでもあり浪費で知られたオーストリア女に憎悪をぶつけることになったであろう。

わりと最近知ったのだが、フランスの王権が決定的に失墜したきっかけは、1791年6月20日のヴァレンヌ事件だったという。その頃にはすでに王弟らは国外に逃亡済みで、王一家も逃亡を企てたのである。もっともマリーは国外脱出のうえオーストリアなど王党派の他国の援助を仰いで王権を維持しようとしたが、ルイは、王なのだから国内に留まり、革命派ではなく王党派の強い地域に逃れようとしていて、夫婦の思惑は違っていたらしい。とにかく愛する女性を助けるべくフェルゼンは多額の逃亡費用を用立てて計画を練るなどまさに心血を注いでいたのに、優柔不断のルイは何度もその計画を先延ばしにした挙げ句、現に逃亡の途中で、フェルゼンに対して「ここまででよい。あとはひとりでベルギーに行ってくれ」と追い払ってしまったのだ。王が逃げたことに気づき、直ちに後を追う指揮官は、アメリカ独立戦争の英雄として名を馳せたラ・ファイエット(フェルゼンはその副官としてアメリカに赴任していた)。終始もたもたしていた王一家は、フェルゼンも欠き、国境を超える前に捕らえられてしまった。

フェルゼンはこの失敗を終生悔やんだ。王に命令されたとはいえ、なぜ自分はその後にこっそりついていかなかったのだろうかと。であれば最愛の女性を死に追いやることはなかっただろうにと。彼はその後も生きて、53歳の時にスウェーデンで民衆に惨殺されたが終生独身であった。フェルゼンは、ただ優雅で可愛い女性としてではなく、環境が変わるにつれ、母として、頼りにならない夫を支え、王権を守ろうと毅然とするマリーに人間としての底知れぬ魅力を感じていたのだろうと思う。マリーの手紙には知性が溢れ、軽薄だった王妃時代のそれとはまるで別人である。なぜ最初からこうではなかったのか。であれば、絶対王政は時代の流れから無理ではあるものの、例えば英国のように立憲君主制にソフトランディングすることは出来たのではないだろうか。マリーの晩年の肖像画は人間としての深みを感じさせ、一人の男性にそれだけの愛を捧げさせた女性の素晴らしさを知ることができる。

『ベルサイユのばら』が大ヒットしたのは、これら史実をベースに、巧みにフィクションを交えたことによる。男装の麗人オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、上記二人と同い年の設定だ。ジャルジェ将軍には娘ばかり5人が続き、将軍は末子の彼女を男として、自分の後継者に育て上げることにする。長身にブロンドの髪、まさに容姿端麗のうえ剣捌きは男以上(バイオリンも巧みで、モーツアルトの新作を披露している)。まさしくこれぞ宝塚の世界ではないか。とにかく格好が良い。常に毅然とし、正義感が強い。女々しい所など皆無なのだ。男女問わず、これでは誰でも惚れるわなあ。そして彼女を慕う従僕のアンドレ。オスカルの乳母の孫であり、小さいときからきょうだいのように育てられ、いつも影のようにオスカルに付き従い、支える。アンドレも大変格好が良く、アンドレファンがたくさんいる。

オスカルはフェルゼンに恋するが、もちろん片思いである。そしてたぶん30歳も超えたころから、アンドレを男性として意識するようになる。アンドレの目がだんだん見えなくなっていたことは知っていたが、今回のテレビアニメを見て、オスカルも結核で「余命半年」と宣告されていたことを知った。民衆の苦しみ、世の中の生まれながらの不公平を知り、近衛連隊長の職を捨てて衛兵隊長となり、貴族の地位や特権を捨て、バスティーユ監獄襲撃事件では民衆の側につく(民衆に寝返った近衛隊員がいたことを知って、池田さんはその人を描きたいと思ったそうだ。もちろん史実の人は男性だったと思われるが)。貴族と平民という身分差のため結婚はありえない時代だったが、共にパリに出発する前夜、二人は晴れて結ばれて夫婦となっている。この事件の際アンドレはオスカルを庇って死亡、まもなくオスカルも銃弾に倒れ、「アンドレが待っている」と亡くなる。享年33歳。

その後の王家はひたすら惨い運命を辿った。マリーの愛した息子(ルイ17世)はひとりほぼ監禁状態に置かれ、看守らの虐待を受けて食事もろくに与えられず10歳の儚い命を終えたという(何が、人権だろう)。その後のロベスピエールらによる恐怖政治で数え切れない人たちがやはり断頭台の露と消え、彗星のごとくナポレオンが登場して…王政復古があって、この頃のフランスの歴史は激しく変転しすぎて、なかなか理解が追いつかない。オスカルらはフランスがより良き国になることを夢見て、長年使えたマリー・アントワネットと決別したが、こうした現実を知らずに済んで本当に良かったと思える。天国でアンドレと幸せに暮らしてほしいと思う。

よけいなことだが、マリア・テレジア。自身は遠縁に当たるフランツに小さな頃から憧れ、恋をし、父親であるカール6世の許しを得て18歳で結婚した。この頃には非常に珍しい恋愛結婚である。父親が男子に恵まれず苦労したのを知っているだけに次々と子供を産み(なんと16人!)、次々と政略結婚させた。アントワネットのすぐ上の姉が本来フランスに嫁ぐ予定だったが、その上の姉がナポリ公国に嫁ぐ直前に亡くなったことから急遽そちらをナポリに嫁がせ、末子のアントワネットをフランスにやることにしたらしい。彼女は愛らしかったが、勤勉さに欠け勉強嫌いだったので、大国の妃が務まるか心配されていたが、その心配が現実のものとなったわけである。ちなみにヴィクトリア女王、エリザベス2世女王も恋愛結婚である。政略結婚であったならば人間の性として他に恋愛対象が必要となり、政務はきっと疎かになったであろう。名君の裏には名配偶者が存在している。

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