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『私の知らない間に、母が施設に入れられていました。』
カテゴリー: 執筆
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わずか1年での総裁選に思うこと
前回5日(金)にブログを書いた後に事態は急転し、石破さんが週末に総裁を辞任したため、初めての臨時総裁選要求はなくなり、普通の総裁選が行われることになった。前回は9人の候補だったが、報道によると石破さんを除く8人のうち5人が立候補する予定とのこと。そして総裁選は10月4日。本当に、1年で同じことが繰り返される。
日本の首相はほぼ1年毎に替わっている。任期の決まった大統領制とは違い議院内閣制だからとはいっても、イギリスでもまさかこれほどは変わらない。国際会議に出ても、これでは名前も顔も覚えてもらえない。顧みて、中曽根さんが各国首脳陣の真ん中に堂々と立ち、背も高くしゅっとしていて、日本人として大変誇らしかったのを思い出す。ずいぶん昔のことだと思って調べたら、昭和57年11月から同62年11月まで、通算1806日である。レーガン大統領とのロン・ヤス関係も任期の長さあればこそである。中曽根さんは俳句も俳画もされる趣味人で、私が参院議員のとき、同じ派閥の懇親会で、余興にフランス語で「枯れ葉」を唱われたのをよく覚えている。
候補者があまりに小粒だと前にも書いた。ずっと思っている。これぞ政治家という人をついぞ見かけなくなった。政治家に限らず、どの世界でもこれぞという人を見なくなったのは、やはり教育のせいだろうと思っている。厚い本をじっくり読むのではなく、軽い実用本を、それどころかスマホで断片的な知識を仕入れるようになったのでは、思考の厚味など出来ようはずもない。これに加えて、政治の場合は、選挙制度の変化が大きいと思われる。中選挙区制から小選挙区制に変わって、30年。中選挙区制では候補者の基盤は党ではなく派閥であり、派閥同士が競い合っていた。派閥の機能はまさに総理総裁候補を出すことにあったが、いつかしらそれが崩れて、これぞトップという候補者を出すことがなくなった。ついに最近では派閥が解消され(残っているのは麻生派のみ)、総裁を出すバックアップ機能が確固たる集団ではなくなった。個人の繋がりだけでは弱いと思うが、5人の候補者はそれぞれどういう組織・集団に支えられるのであろうか。
そもそも小選挙区制導入の理由は、アメリカやイギリスに倣って二大政党制にしようということであったはずだ。ところが、二大政党どころか、様々な党が乱立する一方で、選挙区で一人しか当選しない小選挙区制度では死票が増えるばかりである。ドイツでは小党が乱立した隙を縫うようにナチスが勢力を伸ばした歴史的事実を反省し、得票数が5%以下の党には議席を与えないという5%ルールが適用されているとのことである(これを適用すれば、日本でも議席を与えられない党がいくつか存在する)。死に票を増やさず民意を取り入れるためには、中選挙区連記制(複数名を書く)が望ましいとの議論をよく耳にするようになった。最初聞いたときには、そんな面倒な選択を選挙民が出来るわけないでしょ、馬鹿馬鹿しいと思ったりしたものだが、さりとて、このままではいけないこともまた事実だろうと思うのだ。
かつての中選挙区制では自民党議員も何人か選挙に出て(派閥をバックに競うことになる)、名前は一人を書くだけだが、無能だと思われれば世襲議員でも落選して新陳代謝が図られていたものだ。小選挙区になって以降、議員が亡くなればたいていその遺族が世襲し(形は公募にするにせよ)、自民党支持者は不満があってもその名前を書かざるをえないし、それが嫌であれば投票自体を棄権して投票率が下がる、ということになる。とにかく選択肢が少なすぎるのである。自民党に入れたいけれどこの人しかいないし、さりとて他の政党の候補者を書くわけにもいかないし…と選挙の度に悩むことになる。選挙制度の改革は折に触れて言われ続けているが、本当に考えないといけない時期にきていると切に思うものである。
カテゴリー: 最近思うこと
わずか1年での総裁選に思うこと はコメントを受け付けていません
総裁選前倒し(臨時総裁選実施)議論に思うこと
総裁の任期は3年である。昨年9月27日、9人もの議員が立候補して盛り上がった中、上位2人である高市議員と石破議員との決選投票に持ち込まれ、石破氏が高市氏を逆転して総裁に選出された。理由はいろいろあっただろうが、最後のスピーチの出来が勝敗を分けたと感じている。
私が参院議員になったのは1998(平成10)年7月、27年前である。時の首相は橋本龍太郎氏、幹事長は加藤紘一氏。最後の選挙方式となった比例拘束名簿式の下、私は11位につけてもらい、結局14位まで当選したのだが、幹事長は18位まで当選するだろうと読んでおられた。つまるところ自民党は惨敗したのであり(それをきっかけに自公連立が動くことになる)、選挙当夜当確が出て党本部に赴いたとき、出迎えた首相は「おめでとう」と言いながら微笑みはなく、握手をした手も氷のように冷たかった。すでに野中氏ら党の実力者から引導を渡されて辞任は決定済みであり、総裁選はまもなく実施された。現職議員に加えて、7月25日以降に晴れて議員になる私たちにまで選挙権が付与されたのだ。小渕恵三、梶山静六、小泉純一郎の3氏が立候補して小渕氏が新総裁となり、総理となった。
これまでの自民党の慣例では、国政選挙に負ければその責任を取って総裁は辞める(総裁に引導を渡せる実力者が存在した)。総裁が欠けるので当然のように総裁選が実施される、というだけのことだった。党則第6条2項に「総裁が任期中に欠けた場合には、原則として、前項の規定により(=総裁公選規程による)後任の総裁を公選する。」とあるが、条文の根拠など改めて見るまでもなかったのだ。今回同条4項が脚光を浴びている。いわく「総裁の任期満了前に、党所属の国会議員及び都道府県支部連合会代表各1名の総数の過半数の要求があったときは、総裁が任期中に欠けた場合の総裁を公選する選挙の例により、総裁の選挙を行う」(党本部総裁選挙管理委員会に対して行う。同5項)。これがこのところ騒がれている総裁選前倒し、あるいは臨時総裁選実施要求の根拠である。
幹事長に任命されて3年を任期とする総裁選挙管理委員会(委員長は昨年も今年も逢沢一郎議員である)はその手続きとして、基本、要求は顕名によるとした。8日(月)午前10時~午後3時の間に党本部に出頭して書面を提出する形である。その間マスコミはずっと張っているし、また名前は公表するとのことなので、迷っている人も多いそうである。同条4項をリコール規定だと解せば、匿名ではなく顕名によるべきだというのは当然であろう。だが、この規定のどこにリコールの趣旨が記されているのだろうか(そんなことを考えて作ったとはとうてい思えない)。臨時総裁選実施=現総裁の不信任=事実上のリコールと解するとしても、それはあくまで「事実上」であり、結局のところ、総裁が自発的に辞任しなければ、次に進めないはずである。そうした法的なことは詰められているのだろうか。自民党はこれまでおよそなんでもなあなあでやってきた。党則の規定に拠って云々といった議論はおよそしてきていないと思われる。
臨時総裁選実施要求が過半数を満たしたとしてもリコールの効力がないとすれば、それは臨時総裁選が前倒しで実施されるというだけであり、石破総裁自身も立候補できるはずである。その旨自民党両議員総会会長の有村治子氏も言明していたし、伊吹文明氏(元衆院議長)のブログにも書いてある。今朝の日経にも「現職の首相が改めて立候補することも可能だ」とある。つまり次の総裁選で再度当選すればよいのである。石破総裁反対派の弱いところは(客観的に見て、ということであり、私が石破さんを支持しているというわけではない)、石破さんを否定して次の総裁は誰になるべき、そして新たにどういう政治を進めていくといったビジョンが全く見えないことである。
いざ実施となったら誰かを立てて、推薦者を集めて…というのでは行き当たりばったりもよいところである。迷っている議員も多い中、いざ臨時総裁選を実施すると決まった場合、石破さんの対抗馬として誰が出るのか。石破さんが再出馬して石破さんがやっぱり当選したというのでは、目も当てられないのではないだろうか。そもそも昨年9人も立候補したということは、それだけ本命がいないということである。派閥も解消され、誰もが認めるこれといった首相候補もいない。かつての三角大福といった実力者はおらず、それぞれサラリーマン的な小粒の政治家しか見当たらない。
それはひとり自民党に限らず野党を見渡しても同じである。みな小粒。これぞ政治家といった議員がいない。自民党がコップの中での傍目にはバカバカしい政争をやっているときに、野党は次の総理が決まったら連立を組もうかなあと眺めているだけに見える。世界はどんどん動いている。石破さんならば大丈夫と思うわけではないけれど、では誰だったら大丈夫、任せられるという人も、与野党見渡して見当たらないという恐ろしいことに改めて気がついている。参院選からすでに1ヶ月半が経つ。
カテゴリー: 最近思うこと
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『購入した不動産が、不法に売却されていたようで…。』
カテゴリー: 執筆
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読書のお盆休みでした。『西洋哲学入門』を読んで。
今年は諸般の事情によりお盆の前に帰省したので、夏季休暇が結構長かった。葬儀参列や顧問先の懇親会出席などのほか、15日には全国戦没者追悼式(武道館)に、たぶん初めて、参列した。中央ブロックの国会議員席に案内され、両陛下ご臨席の下、首相、衆参両議長、そして最高裁長官の式辞を身近で聞くことが出来た。法曹と国会を経験したので、その方たちは皆個人的に知っている。天皇陛下のお言葉はとても聞きやすかった。
有吉佐和子に嵌まっている。その昔、『華岡青州の妻』や『助左衛門四代記』などを読んだのだが、復刻された『青い壺』が大ベストセラーになっていると聞いて手に取り、度肝を抜かれた。一陶芸家がたまたま作った「青い壺」。それがデパートで展示されて、購入者が世話になった人に差し上げて…青い壺が転々としていく、全13話のストーリーである。時空を超えて、20年後、創作者の元に(明時代の銘品だとして)戻ってくるのだが、壺に関わったそれぞれの人生が丁寧に、いずれもリアリティをもって描かれ、彼女が稀代のストーリーテラーであることをまざまざと見せてくれる。こんな作家がいたのだ、とただただ感激した。自伝的な女性3代記である『紀ノ川』、芸能ものである『連舞・乱舞』(日本舞踊が歌舞伎発出とは知らなかった)『一の糸』(三味線)『鬼怒川』(結城紬)、社会的な問題を取り上げた『非色』『恍惚の人』。ジャンルが広いことにもびっくりする。どの分野も社会問題も丁寧に調べられ、書き上げられている。あとまだ有名な作品がいくつもあるので、すべて読みたいと思っている。ちなみに彼女は昭和6年生まれ。母と同い年である。
さて、『日本人が学ぶべき西洋哲学入門 なぜ、彼らはそう考えるのか?』(ジェイソン・モーガン&茂木誠著 TAC出版)。著者2人はどちらも存じ上げないが、知る人ぞ知るの方なのだろうか。モーガン氏はアメリカ・ルイジアナ出身で未だ40代、日本で教鞭を執っているとのこと。対談形式のため、少なくとも通常の哲学書よりは読みやすいだろうと思ったのだが、たしかに日本の歴史・古典への造詣が深いことがよく分かる。哲学はかつて若い頃勉強しなくちゃと思い、いろいろと買って読んだが、ある程度分かったように思えたのはショーペンハウエルのみ。キエルケゴールもニーチェもさっぱりで、聖書も読んでないような者にはどだい無理だよねと思わされたものである。中年になって手に取った各種仏教書もまた然り。法律家であればルソー・ヴォルテール・モンテスキュー、ホッブズ、そしてカント・ヘーゲル辺りは読んでおくべきだと思うし、昔の偉い方々(ことに旧制高校を出られたような方々)はもちろん、それこそ原文ででも読破されたのだろうが、私にはたぶんもう無理である。高度な抽象論がすらすらと読み解ければどんなにか面白いだろうと思うが、残念ながら持って生まれた知能がそのレベルに達しないことを、最近諦念をもって達観するようになった。これも年の功かもしれない。
古今東西の偉人の名前がたくさん出てくるので、ある意味歴史を復習しているかのようである。古代ギリシアのソクラテス、プラトン、アリストテレス。アリストテレスは哲学者というより科学者であった。アレクサンダー大王の師であったことでも知られる。対談者2人は互いに様々な名前を出しながら、その人を好きか嫌いか、私生活は…性格は…といった話を進めていく。面白い指摘があった。バッハは音楽を数学的に徹底して極めているため、彼の音楽は計算式で出来ていて、人の温もりが感じられないと。私はバッハは大好きだが、バッハを聴いて「感動」することは確かにないかもしれない。モーツアルトやベートーベンと全く違うのは、バッハの音楽が数学だからだと考えれば納得できる。バッハの時代は今のピアノではなくチェンバロ(ハープシコード)だから、打鍵で音色は変わらず、よって一つ一つの音に精を込めることがないのが違いかと思っていたのだが(もちろん対位法など作曲技法のせいもあるが、ベートーベンが対位法を使って作曲したソナタなどは感動する)。
ヨーロッパでは身分制ががっちり固まっていたが、中国では科挙(高級官僚登用試験)が1300年にわたって実施され、家柄に拘わらず、科挙に合格しさえすれば出世の道が開かれていたことはよく知られている。科挙に毎年不合格であるばかりに高齢になっても悲惨な生活をしていた人の話は聞いていたが、改めて考えると、これは素晴らしい平等主義ではないのか。なぜ中国が早くから平等主義を採っていたのか、それは他民族国家であったが故なのか。布教のために中国に送り込まれたイエズス会宣教師から科挙の話を聞いて倣い、ルイ14世が高等文官試験を始めた、という話は初耳である(本当?)。身分制はフランス革命でギロチンに掛けられたルイ16世(ルイ15世は14世の曽孫。16世は15世の孫である)の時代までずっと続いていたのだが。
この本で、よくぞ言ってくれたと思ったのは、LGBTのことである。彼らは各種政党同様、一緒になることで力を持つのだと言っている評論家がいたが(なにせ、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーに加えて、最後にQ=自分の性志向が分からない、まで加えるのだから、なんでもありなのである)、対談者2人は、これは政治運動であって、性差の問題ではないと喝破している。かつてゲイが厳しく取り締まられていた西洋の歴史はあるにしろ(イスラムでは未だに犯罪である)、日本では犯罪ではなかったし、性に対してはおおらかであって、プライベートのことを誰も糾弾することはなかった。しかるにアメリカの圧力でこの度LGBT理解増進法を可決してしまったのは、パブリックとプライベートの区別が出来なくなって、社会人の一般常識が崩れた結果であると言う。この法律は、日本の伝統文化の中でとってつけたような感じがして、私には違和感が半端ない。
アメリカのネオコン(新保守主義者)は、冷戦終結後のアメリカの外交政策において、特に軍事力を用いた積極的な世界戦略を目指す勢力である。1960年代後半にアメリカの左派勢力から分離する形で登場し、2000年代初頭のブッシュ政権(息子のほう)下で、イラク戦争を推進するうえで大きな影響力を持つようになった。強硬な外交姿勢(国際社会においてアメリカのリーダーシップの下、民主主義の普及を目的とした積極的な外交政策を目指す)、軍事力重視、イスラエル支持、反共産主義などが特徴だ。彼らは湾岸戦争、イラク戦争を主導して煽り、紛争の火種を撒き、次はウクライナ戦争の背後で暗躍している。ウクライナはロシアに領土を侵略され、「民主主義のために戦っている」のだが、まさに民主主義がアメリカの宗教で、聖戦なのだ。地図を見て「ウクライナはどこですか?」と聞いたら9割のアメリカ人は分からないだろうが(日本がどこにあるかもたいていは分からないと聞く)、ウクライナは絶対に守らなければならないとも言う。
対談者2人いわく、アメリカはキリスト教国ではなく「啓蒙思想教国」で、爆弾による「民主化」が聖戦なのであって、キリスト教とは無関係どころか正反対だと。世界の民主化をするのがアメリカの役割だと考えている人がたくさんいるのが国際紛争の多くの要因になっていると。日本が敗戦後アメリカの占領下で見事民主国家に転じたことがアメリカの成功例になったのはよく知られている。これまでもそうだったが、ウクライナでも日本政府はただ「アメリカについていくのが正しい」だけで、そこには何の思想も哲学もありはしない。ロシアが国連憲章違反の侵略戦争をしていることは事実だが、プーチンには思想があり(「ウクライナを諦めるわけにはいかない理由」を彼は自分で論文に書いている。「ロシア人とウクライナ人の歴史性一体性について」)、米英主導のグローバルな価値観が世界を覆い尽くすことは許されないと考えている。ロシアにはロシアの、インドにはインドの、中国には中国のそれぞれの価値観があると。このことについては私も前にブログで指摘している。日本の政治家は歴史を知っているのだろうか、確固とした思想があるのだろうか。
とにかく暑い。毎日35~36度で、よくまあ生きていられるものだと思う。いろいろとしたいこともあるのだが、少し過ごしやすくなってからにしよう。今は健康を損なわずサバイバルすることだ。コロナ禍の影響も大きかったが、着る物がだんだんラフになり、だらっとしたワンピースがいちばん風が通って過ごしやすいため、このところずっとそんな格好をしているが、同じような格好をした女性が多い。その点男性はズボンを穿くので、ネクタイはしないまでも大層暑いだろうと気の毒だ。3ヶ月予報だと11月頃まで暑いらしい。着物は長い間着られない。
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読書のお盆休みでした。『西洋哲学入門』を読んで。 はコメントを受け付けていません



