新年。検察のこと、永山則夫のこと。

 ほぼ3ヶ月ぶりの書き込みになる。プロバイダーが環境設定を変えたとかで、ホームページ記入ができなくなったのである(閲覧も出来なくなった)。この対応はなかなか高度らしく何人かの知り合いに当たって可能な業者を探し出し、ようやく実施してもらったのが1ヶ月余前。記入方法が以前と違うので、ハードルが高くなってしまった。

 昨年12月来、いわゆる派閥パーティ政治資金キックバック事件について、検察が派手なリークをし始めた。国会議員に絡むとはいえ贈収賄(いわゆる疑獄事件)ではなく形式的な「政治資金規正法違反」(収支報告書不記載)であるのに、ここまでやるのだろうか。世論は(我々サラリーマンは1円だってごまかせないのに)論難された。全国から検事50人を動員し(検察事務官も入れて100人か)、高級ホテルでの取調べが続けられた。これを受けて、マスコミも周囲も連日、安倍派幹部の誰がやられるか、次には二階派も誰がやられるか、大騒ぎをしていたのに、結局のところ、逮捕者は高額キックバック議員1人のみ。議員の起訴はその人を入れて3人のみ、派閥幹部ゼロ、あとは派閥の会計責任者らのみの起訴となるようだ。来週26日には通常国会が始まるのでこれでケリをつけるらしい。

 まさに「大山鳴動して鼠一匹」。そもそもこの事件で、検察はどこに着地するつもりだったのだろうか。年に1回行う派閥パーティの際、所属議員に販売ノルマを課し、それを超えた分を派閥の収支報告書に記載せず各議員に還付して、これは報告書に記載しなくていいと言い、それが慣例として続いていたようである。公訴時効は5年なので、この間にどれだけの金額が不記載となったのかといえば、派閥単位で何億になるらしいので、もちろん少額ではない。それを会計責任者が自分だけで出来るはずもなく、派閥幹部の了承・指示があったことは当然であり(どこの組織が経理係だけでそんな勝手なことが出来る!?)、しかしながら安倍派の会長は安倍氏、細田氏が続いて逝去しているので、死人に口なし、事務総長らは知らないことにして口裏合わせをするのだろうと思っていた。全員在宅なのだから、そんなことは簡単であり、しないほうがおかしいくらいである。最初から派閥幹部をやるつもりがないのならばこんな大がかりな捜査態勢を取る必要はなく、派手なリークは自分たちの首を絞めるだけである。検察はそもそも不偏不党であり、法と証拠に基づいて粛々と捜査をするだけの存在である。個人の業績ないし検察の存在価値を高めるために国家権力を濫用しているような、検察の暴走と言われても仕方のない顛末であったと思う。元検事としてもひたすら恥ずかしく、人から聞かれる度に忸怩たる思いに囚われる。とにかくこの2ヶ月、事ある毎にこの事件の話に付き合わされている。

 「永山則夫 封印された鑑定記録」(堀川惠子著)を読んだ。著者は卓越した力量のノンフィクションライターで、以前にも「死刑の基準 永山裁判が遺したもの」を読んで、非常な感銘を受けた。19歳の、4人連続射殺事件と聞けば極悪非道にしか聞こえないが、彼の生い立ちには凄まじいものがある。網走生まれ8人きょうだいの末から3人目。父は博打狂いで失踪。行商で一家を支える母親は、一部の子供だけ連れて、他の子供らを置いて家を出る。そのとき則夫4歳。母親代わりだった19歳上の長女は分裂病を発病して入院。食べるものにも事欠く極貧の中、則夫は誰からも目をかけられず、友達も出来ず孤独な生活を送る。中学を出て集団就職した後夜間高校に行くべく努力はするものの結局は転落を繰り返し、やがてホームレスになり、侵入した米軍基地で銃を見つけ盗んだことが、この一連の犯行に繋がっていく。子供らを置いて出る彼の母親は、自身実母に樺太で文字通り置き去りにされた子供時代を送っており、虐待の因果をつくづく思わされる。

 鑑定記録は非常に大部なものであり、関係者すべてに会って、母親の生い立ちにまで迫った迫真のルポである。こうした環境に育てば、そして誰一人愛情をもって接してくれず存在を否定され続けていれば、自分もどうなっていたか分からない。もちろん殺人を正当化する気持ちは微塵もないが、殺人者を育てた環境や社会を無視していては、事件の本質には迫れないであろう。折しも18・19歳を特定少年とした改正少年法の下、犯行当時19歳の少年に初の死刑判決が下された。殺人の被害者は2人、放火もしている。永山則夫については、1審死刑の後、2審無期懲役となり、最高裁で再び死刑となって、48歳の時に死刑が執行されている。獄中結婚し、『無知の涙』などのベストセラーを執筆発行し、印税を被害者遺族に渡した(受け取らなかった遺族もいる)。

 

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『国際ロマンス詐欺に遭いました。お金を取り戻したいです。』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2024年1月号

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『遺言を作るに当たり、遺言執行者を指定した方がよいのでしょうか?』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2023年12月号

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『娘たちに仲良く遺産を分けてもらいたいのですが…。』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2023年11月号

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『中世ヨーロッパ全史 上』(ダン・ジョーンズ著)を読んで

読書家の知人から勧められていた本に、この連休ざっと目を通した。ヨーロッパの中世とは一般に西ローマ帝国滅亡(476年)から東ローマ帝国滅亡(1453年)までの間の1000年程度とされている(ルネサンスで近世が始まる)。ちなみに上巻の副題は「王と権力」で、今予約中の下巻は「創造と革命」である。ベストセラーであるらしいが、結論から言うと、通り一遍の話が綴られていて、あまり面白いものではなかった。
ただ、あっと思うことが最後の頁にあった。「十字軍は続行し、中世を超え、現代ではオルタナ右翼、ネオナチ、イスラムテロリストが好んで比喩として使っている。こうした人々が一様に固執する貧弱な概念は、1000年にわたってキリスト教徒とイスラム教徒の関係を定義してきた。彼らが正しいわけではないが、こうした誤りを犯すのは彼らに限らない。十字軍は宗教と暴力が混じり合った異形であり、教皇の野心を実現する道具として歪められ、最終的にはあらゆる場所であらゆる相手を標的に暴走した。十字軍は中世が生み出した毒を含む概念のうち、もっとも大きな成功を収め、長く続いたものの一つである……」。

そうなのだ、十字軍は綿々と今に至るも続いているのである。『異教徒は間違っており、キリスト教徒は正しい』(ローランの歌)故に、イスラム教徒が信仰を曲げない限り虐殺するのは全くの善だし、同じように、イスラム原理主義者から見れば、イスラムの自分たちの信仰こそが正しいのだから、その考えを実現するために暴力が必然となり、どこまでも暴走し、とめどなく広がっていく。絶対に自分たちが正しいと微動だにせず、相手も同じ論理に立つ以上、和解や譲歩などありえず、憎悪と虐殺、破壊のみが延々と続いていく。

作者も指摘するが、中世の傑物と言われた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ(イタリア名フェデリコ)2世は、3歳でシチリア王に就き(母がシチリア女王だった)敬虔なキリスト教徒ながらアラビア語やイスラム文化に深く傾倒した。教皇の命令を拒みきれずに十字軍遠征に携わり、指揮官としてイエルサレム王国を訪れてスルタン、アル=カミールと友好関係を築いたうえ、聖都へのキリスト教徒帰還という、これまで誰も達成し得なかった偉業を成し遂げたのである。2人は個人的に外交関係を結び、互いに平和裏に交流できることになったのだが(現代であればノーベル平和賞ものであろう)、教皇はじめ多くは平和的解決法を尊ぶことなく、以後何度も彼は教皇に破門され、諸侯から目の敵にされて辛酸を舐めることになる。その数奇な人生は『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』(塩野七生著)に詳しい。

あの時代、宗教にも人種にも文化にも偏見のない見方が出来るようになったのはとても不思議なことのように思う。両親は彼が生まれてすぐに亡くなったし、きょうだいもおらず、ある意味天涯孤独な境遇にあり、ただシチリアという開放的な風土の下、優秀な家庭教師らをつけてもらえて、その教えることをぐんぐん吸収していくだけの驚異的な頭脳が備わっていたのは事実であるが、それだけでその柔軟性が育つとも思えない。生まれてくる時代が早すぎたのは確かだが、しかし、以後800年を経た現代でも彼のような柔軟な考え方の出来る人はそれほどはいないのではないだろうか。

それどころか、十字軍さながら硬直した考えを持っている人が多いと思っている。民主主義こそが絶対善というのもそうである。そこに到達する前に封建主義や独裁制やその他、通過してきた過去がどこの国にも社会にも存在している。例えば、児童労働が許されない、というのは理念としては正しくても、先進国も以前はどこも児童を働かせてきたのだし、それどころか同じ人間であるのに、奴隷として売り買いし、平然と酷使してきたのである。しかもそれはわずか150~200年ほど前の話に過ぎない。それを忘れたように、今まだ貧しい国を間違っていると非難するのは違うのではないかとずっと思っている。そこに欠けているのは謙虚さであり、想像力であり、相手の立場への配慮であろう。

ウクライナ問題しかりだが、中東の根深い対立の背景にアメリカがある。バイデンはウクライナ支援を続けたいが、共和党は反対している。民主党の中にもそれに同調している人がちがいて、トランプがもし大統領に返り咲くことがあれば、早速にウクライナ支援を打ち切るだろう。そもそも彼はプーチンの強烈な支持者である。日本は悲しいかな、アメリカの言う通りに動くようだが、大統領選次第でアメリカは大きく変わる。トランプは起訴されていて、バイデンの息子も起訴されている。それでいて互いに高齢者同士が次もまた大統領候補だなんて、一体どういう国だろうと思ってしまう。

少なくとも本当の意味での先進国ではないと思うが、それでもただ追随するのだろうか。元外交官の国会議員が「外交とは要するに勝ち組になることですよ」と簡単に言っていたが、それはアメリカなりいわゆる先進国に歩調を合わせるということなのだろうか。であれば、完全に思考停止ではないだろうか。外交とは真の国益を全うすることであり、国際協調も必要であり、多角的な思考の賜であって、それがただ他の先進国?に委ねられているというのは独立国ですらありえないと思うのだ。

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