執筆「希望の実現に向かって努力する 作家活動がもたらしたもの」

 近頃とんと読書をしないことに気が付いた。読むのは新聞、仕事絡みの本・雑誌、加えて贈呈本だけだ。
 もちろんそれだけでも結構な量があり、相変わらず活字漬けの毎日ではあるのだが、かつては自ら欲求した本を、寝しなや通勤に読んでいた。その読書習慣が、いつのまにか抜け落ちている。それで分かったことは、私は生来さほどの本好きではなかったということである。心底好きなものは死ぬまで好きなはずだからだ。
 と理解して、気が楽になった。実は以前から、薄々気がついてはいたのだ。私の読書たるや、質量ともに、いわゆる知識人のそれとは比べるべくもないことに。ただ認めるのに抵抗があった。なぜか。
 ちょっとした文学少女だった私は、長じて小説を書くようになった。結果、幸運にも作家としてデビューすることができた。本当に、どれほど作家に憧れ、作家業を続けたかったことか。だが、私はまもなく筆を折る。無から有を産む芸当を職業とするには、欲求や努力だけでは足りない、才能が必要だと思い知ったのである。
 だが、冷静に考えて、私が現在あるのは、小説を書いたお陰である。検事で作家だったからこそ、政治家にとの声がかかった。ここで、決して出会うことのない方々を知ることができた。やめた後はすぐに独立開業ができた。運命の変転は、あの一時期の、何かに取り憑かれたような欲求と努力の賜なのである。
 なんだか「藁しべ長者」みたいだなと思う。一本の藁しべから、運命が幾重にも好転し、最後に長者になるという、私好みのストーリー。人生、まずは希望である。そして実現に向かって努力をすること。そのうえで諦めるのはいいが、やらない前から諦めてはいけない。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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新年を迎えて

 1月があっという間にもう終わる。早い。
 16日夜,かつしかシンフォニーヒルズで,ポーランドのバイオリニスト・チェリストと,ベートーベンのピアノ3重奏第3番を披露した。私にとっては一大イベントだった。なにせピアノパートが非常に難しく(ことに,速い4楽章),あちこちつかえる箇所があるうえ,弦楽と合わせるのである。しかもリハーサルは直前の1回のみ。
 しかし,本番ではなぜだか見事に呼吸があって(超プロなので,見事に合わせてくれて?),丹念にリハーサルをしたように聞こえたらしい。実際は私は数えられないほどのミスを冒したのだが,エネルギーと音楽大好きの心と,そして何より合奏が上手くいって,拍手が続いた。弾いている間,もちろん緊張はしたけれど,楽しくて仕方がなかった。音楽の醍醐味,ここに極まれりである。

 突然,予想しなかったことが起こった。この試練を経て急に,自分のピアノ奏法の欠点が明らかになったのである。
 細かく言うとキリがないが,初歩の基本がなっていないということが今頃,分かったのだ。4歳から始めて,一体今まで何をしていたのか。自らの出す音に耳を澄ますこともなく,楽譜を見て,ただ鍵盤を叩いていた。楽器だから当然,適当には音は出る。果ては人におだてられるまま,プロ級かもと錯覚していた自分が,限りなく恥ずかしい。
 今ゆっくりと,一から指練習をやり直している。これまで先生から何度も「ゆっくりと練習しなさい。10回速く弾くより,1回ゆっくり弾くほうがどれほど効果的か」と言われた。それをせず,指は幸いよく動くからと,最初から速く弾いていたのは,自分がちゃんと弾けていると思い込んでいたからである。今はゆっくりとしか弾けない。ちゃんと弾けないことが分かったからである。
 音楽はまずは耳である。そして,謙虚さ。好きであるという気持ちだけでは人に聞かせられるものにはならない。

 これはすべてに言えることかと思う。
 井の中の蛙,大海を知らず。知らない者ほど天井の高さが見えず,自分が大したレベルであるかのように錯覚をする。僕は仕事柄よく法律が分かっているなどと言う法律の素人がいるが,それと同じである。
 今始まった国会を見ていても,そんなことをつい思ってしまう。
 ちゃんと分かって言っているのか? 政策の一部じゃなく,全体が見えているのか? 国際的なこと,日本の将来が見えているのか?……もちろん政治家は政治のプロであるべきで,アマチュアであることは断じて許されない。ひとり自分や選挙民の問題ではなく,国民,国家の存亡がかかっているのだから。

 オバマ大統領が就任した。演説が上手い。内容はもちろん,感動がある。心と魂が籠もっている。内容だけでは人の心に響かない。国民に感動を与えてくれる政治家が欲しい。こんな世の中だからこそ,国民に元気を与えてくれる政治家が欲しい。もちろん内容の伴う政治家。そんな人が出ないだろうか。

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執筆「自分が変われば人も変わる 自分が変わらなければ何も変わらない」

 また新しい年である。
 当然ながら、また一つ、年を取る。
 悲しいことである。だんだんと皺やしみが増え、白髪も増えてきた。体もたるんでしまりがなくなり、動きが鈍くなっている。若い人は綺麗でいいな、羨ましいなと思う。若い時には気がつかないが、若いことはそれだけで素晴らしいことなのである。
 ただ、冷静に考えると、加齢は悪いことばかりではないと思える。精神的にはむしろ良いことが多いように思う。私は成長が人より遅いのかもしれないが、ようやくに自分というもの分かってきて、ずいぶんと生きやすくなったのだ。
 私は短気で、狭量で、完全主義者なのだ。だから他人を受け入れにくかった。だが、人にもそれぞれの考え方、生き方があり、みな一生懸命にやっているのだと思えるようになって、対応が穏やかになった。
 自分が優しくなったからだろう、周りも私に優しくなった。自分が変われば人も変わる。自分が変わらなければ何も変わらない。本当に、もっと若い時にこの処世術が会得できていれば、人生もっと充実していただろうにと残念である。
 人生の有限が見えてきだすと、すべてが愛おしくなる。今見ている何気ない光景もいつか必ず見えなくなる。今話している人ともいつかは話せなくなる。年を取ると涙もろくなるのは感受性が研ぎ澄まされてくるからなのだ。
 とはいうものの、身体的にはやはりアンチエイジング(抗加齢)でいきたい。もともと堅い体が昨今ますます堅くなり、不自由になってきたので、体を動かすことを今年の目標にしようかなと思う。60歳でなお美しい前田美波里さんのようにはいくまいが、せめて努力だけはしたいものである。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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裁判員制の重大な問題について

 来年5月施行が近づき,このところ何かと言うと,裁判員制が話題に出る。
 たいていの人が(弁護士を含めて)反対である。なぜこんな大事なことがさっと通ってしまったのか。日本では絶対に機能しない。裁判員には心身共にたいそうな負担となる。この財政多難な折に多額の予算を使って,あえてやる価値がどこにある。……
 もとより私は,国会議員時代から強固に反対していたのであり,今なおその気持ちは変わらない。理由は,以下。

?もともと陪審制に代表される裁判への市民参加は,お上を信用できない歴史からくる国 民の「権利」であって,日本とはそもそもの成り立ちが違う。日本では導入しても義務 意識でしかない(これに限らず,諸外国ではこうなっている,という議論は誤りの元で ある)。
?陪審制の国では,被告人が有罪答弁をして証拠調べなしに(すなわち陪審裁判を選択せ ずに)直ちに量刑に入ることができるが,この制度では被告人に選択権がない(与える と,被告人は裁判員制を選択しないからというのは,本末転倒である)。
?対象が住居侵入窃盗のような身近な犯罪であればともかく,殺人などの重大犯罪である から,証拠を見るにも量刑を科すにも素人の裁判員には負担が重すぎる。

 以上に加えて,いろいろな人と喋っていると,新たな問題点が浮き彫りになってきた。? 公判前整理手続きにおいて争点と証拠の整理をするのだが,ここで裁判官は予め中身 を知ってしまい,刑事訴訟法の鉄則である「予断排除の原則」が完全に損なわれてしま う。またこの手続きは当然ながら法曹三者のみが関わるので,裁判員はお飾りにすぎな い。
? 裁判員6名の名前は一切出ない。判決にも出ない。であるのに裁判員は評議にも量刑 にも加わるから,被告人は名無しの権兵衛に裁かれたことになる。ことに対象が重大事 件であり,死刑の場合もあるのだから,とうてい納得がいくはずがない。

 この2点は重大な指摘であると思う。

 かねて私は,証拠の扱いはどうなるのだろうと考えていた。
 被害者死亡の事件では当然ながら被害者の死体は証拠となる。
 死体検案書も解剖の写真(鑑定書)も,凄惨な殺人現場の写真もある。これらはすべて重要な証拠であり,見ずに裁判してもいいとはとうてい思えない。かといえ裁判員に対して,嫌でも何でも絶対に見ろと要請することはできない。専門家は慣れているからいいが,素人には耐え難いものであるはずだからだ。倒れたら困るから,きっと見なくていいと裁判所は指導するはずである。
 それやこれやで,矛盾が明らかになりつつある。拙速な裁判となり,これからは被害者も参加しうる裁判制度となるから,裁判員はあちらからもこちらからも期待をされ,かつまた恨みを買うかもしれないのである。

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執筆「伝えられなかった感謝の言葉とともに 悔いのない人生を生きるために」

 おかげさまで、弁護士業も早や4年になる。この間、周りの人に大いに助けられてきたが、今年はとても悲しい年になった。格別お世話になった方が亡くなったのだ。
 5月に食事の約束をしていたが、入院するのでと断りが入った。その後、電話で何度か仕事の話はしたが、4ヶ月後、突然の訃報となった。
 最後にお会いしたのは3月だった。それが最後になるとは考えもしなかった。分かっていれば、どうしても言っておきたいことがあった。「本当にありがとうございました」。私がどれほど感謝をしているか、永久に伝える術はない。それが大きな悔いである。
 生老病死。人は必ずや死ぬのだが、最後の挨拶ができないことがこれほど辛いとは知らなかった。思いきって携帯電話の登録を消したとき、二度と声を聞くことのない現実の重さが、胸に押し寄せてきた。
年齢のせいだろう、私の周りにも死が増えてきた。死因は断然、癌が多い。寿命が延びた分、かかりやすくなったそうだが、若くして逝く人も珍しくはない。自覚症状が出たときにはすでに手遅れ。それどころか、検診を受けたら末期だったという話もある。
 余命あといくらと宣告されたら、私はどうするだろうか。行きたかった所に行くだけの気力があるだろうか。死に出の旅の準備を整え、周りの人にも気配りができるだろうか。否、自暴自棄になり、あたふたするだけで、とてもとても、そんなことはできそうにない。
 明日がをあることを前提に、人はその日を生きている。だがしょせん、生は有限なのである。いかに悔いなく生きるか。結局はやはり、毎日を充実して生きることしかないのだろう。
 身につまされて人生を考えた今年も、まもなく終わる。

自由民主党女性誌 『りぶる』

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