日本は世界に向けて発信しなくては──英語で

 週刊新潮新年号で藤原正彦さんが「宣伝下手」な日本の問題を大いに憂えている。イギリスの友人に尖閣問題のビデオを公開しなかったのは日本側に都合が悪いことがあるのではと言われたと。私もずっと同じことを憂えていた。日本国民だって、何かこちらに非があるのではと思うし、あくまで正しいと信じている人は、なぜきっちり公開して世界に訴えないのだと苦々しく思っている。菅内閣の支持率を落とした代表は小沢問題ではなく、尖閣問題なのである。小沢問題はいずれ強制起訴されるのだし、永田町ではもういいじゃないか、他にやることが山積しているだろうに、と思っている。

 公務執行妨害で逮捕したのが正しければ、なぜビデオを公開しないのか。なぜ勾留中に処分保留のまま釈放するのか。犯人の身柄が日本国の主権下になければ起訴はできず、当然に不起訴になる(実際不起訴処分になった)。それは日本にやましいことがあるからではないか? ビデオを非公開と決め、漏らした公務員を逮捕するとかしないとか(結局逮捕せず不起訴になった。当たり前だが)、日本国民ですら一連のやり方に矛盾なり憤りを感じているくらいだから、まして国際社会では理解不能としかいいようがない。

 かつて検事時代に私は通訳をやったことがある。その際日本語から英語には決して訳せない言葉がある。「以心伝心」、「よろしくお願いします」、「非力ではありますが」、「身に余る大役ですが」、「先輩たちを差し置いて」といった諸々。謙虚は美徳、言葉にしなくても伝わるというメンタリティが背景にあってこその言葉だからである。もちろんその根底にはムラ社会がある。反対に、自分が何をしたいのか常に自己発信をすべき社会では厳しい競争のうえに適任者が選ばれ、自信こそが人を輝かせるのである。言語を学ぶということはその言語を話す人たちのメンタリティを学ぶということである。逆に、メンタリティが理解できなければ言葉は正しく使えない。

 なぜ日本は発信しないのか。ただ黙って微笑んでいれば、そのうちに理解してもらえると思っているのだとしたら、不心得も甚だしい。英語で世界に向けて発信すべきだし、政治家などが国際社会でスピーチをするには当然英語でやるべきだ。通訳の言葉はあくまで通訳のもの。意味はある程度伝わるとしても自分の言葉ではない以上誰の胸にも響かない。先日、広島と長崎で二重被ばくしたという90歳近い方が、国連で訴えるといって、英語でしゃべり、周りの大きな感動をよんでいた。私も胸を打たれた。当然ながら決してうまい英語ではなかったが、伝えようという気持ちあればこそ必死で英語を勉強したのだろう。その気持ちは十二分に伝わった。世界には英語が母語ではなく、そううまくはない人は大勢いる。むしろ多数派だろう。それでも自分の言葉としてしゃべる。それこそが人の胸を打つのである。まして国連など国際機関では公用語しか記録はされない。日本の代表が日本語でしゃべっても誰も聞いていないし、また現実に通訳の言葉だけが記録に残るのだ。片や中国語は国連の公用語ときている。日本は発信する気持ち、手段ともに完全に負けているのである。

 それが日本の謙虚さだと思っているのだとしたら、それこそが勘違いである。少なくとも政治家には不要のものである。自分を守れない、自分の意見がない、では誰も尊敬をしない。「自分」を「国」に置き換えてもまったく同じ道理である。どしどし発信しなくては。日本の発信がアニメとか「かわいい」だけではあまりにも情けない。問題は、発信するものがないから、手段も必要がない…実は本当はそういうことなのかもしれない。

 

 

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