執筆「感性育てる国語」

 読書は時に、大きな発見をもたらす。八年前、偶然手にした『スカートの風』(呉善花著)がまさしくそうだった。

 韓国語と日本語は語順がそっくりで、互いに最も学びやすい言語だと言われる。ところが、来日した著者は、いくつもの相違に戸惑うのだ。「本日閉店します」ではなく、なぜ閉店「させていただきます」なのか。「泥棒が入った」ではなく、なぜ「入られた」のか(韓国語には受身形がない)。やがて彼女は答えを見出す。前者は許可を求める気遣いであり、後者は自らにも責任があるということだと。

 それでも日本の伝統生け花だけは謎だったが、来日後五年ほどして理解できるようになる。その奥にある精神性と不可分の美。たおやか・すずし・侘し、といった「大和言葉でなければ形容不可能な古趣の味」だと。

 たしかに、「寒い」しか知らなければそうとしか感じられないはずである。凍える、かじかむ、凍てつく、そうした言葉を知って初めて、そう感じることができるのだ。日本で学び日本語に堪能な、知人のフランス女性が、帰国後もずっと雨が降ると「しとしと」と感じると言った時には心底驚いた。自然を擬人化する、こうした擬態語は他の言語にはあまり見られないのだ。尊敬語・丁寧語・謙譲語と、TPOに応じて使い分けが必要な敬語もまた、真にその気持ちがあればこそ正しく使いこなせるものであるにちがいない。

 言語は人の考え方ばかりか感性をも作る。すなわちそれは、人格を作るということだ。教育は一に国語、二に国語だと、固く信じる所以がここにある。

東京新聞 夕刊 『放射線』
(中日新聞 夕刊 『紙つぶて』)

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