執筆「男女には画然とした違いがある。 相互の尊敬・理解があっての社会。」

 私は自他ともに認める、メカ音痴である。
 家電もパソコンも、生活や仕事に必要最低限使うだけで、そのメカニズムや多種の機能に興味を持ったことがない。故障したら自分では何も調べず、業者か友人に丸投げである。車を持たないのは、都会なので必要がないことに加え、ブレーキが利かなくなったらどうしよう、ひとり山中で車が故障したらどうだろうと考えるだけで恐ろしいせいもある。スピードを出して気分転換しようなどとはまるで思わない。
 我ながら情けないなあと思う。とはいえ、同族の女性もけっこういて、卑下するほどではない。私は地理にも弱いのだが、男性がいなければ私が先導するくらいなのである。と言うと、「ほら、だからそれは、女性が指導者的立場にないからで、訓練次第だよ」と言う人がいる。たしかに、女性の中にも理系に強い人、空間認識である地図や囲碁将棋に強い人はいる。そうした個人差はあるにしろ、全体としての男女差は絶対にあると私は思う。
 以前、オーストラリアの夫婦が書いて世界的にベストセラーになった本がある。『話を聞かない男、地図が読めない女』。読んで、なるほどと納得した。男女はそもそも脳の構造が違うと言うのである。
 女の子のほうが育てやすいのはよく知られたことである。男の子は体が弱いうえ、昆虫でも乗り物でも、動く物に多大の関心を示して、行動範囲が広くなるからだ。男の本能はハンターなのである。かつては外で獲物をしとめ、女と子どもを養っていた。依然、男は女をしとめ、自らの遺伝子を残すべき宿命を負っている。
 私は、メカや空間に強い人を、単純にすごいなあと思う。たいていの男性はそうだからすごいなあと思うのだ。他者からの攻撃であれ何であれ、いざとなると頼りになるのはやはり男である。そして、権利と義務は表裏一体なのだから、いざというとき、貴方は男だからと前に押し出し、自分は弱い女だから庇ってねというのは甘えであろう。男女共同参画社会やジェンダーフリーも、もともと違う男女をまさか同じにしようという訳ではあるまい。画然と違うからこそ恋愛もあり、相互の尊敬・理解・謎もあって、人生は楽しいのである。
 日本語にはかつて、女言葉と男言葉があった。台詞だけで、女か男かが分かる文化。それでこそ美しい日本語であり、美しい国であったはずだ。男は男らしく、女は女らしく。これは依然として普遍的な真理であると私は思う。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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