「人間は死ぬまで働くべきである」。介護施設に思うこと…

会員情報誌『選択』の記事を時々送って下さる方がいる。7月号巻頭インタビュー吉野直行氏(慶應義塾大学名誉教授)の「日本財政を救うのは『働く老人』」が良かった。いわく、「国債の需要がなくなれば日本はすぐに財政破綻する。」「高齢化社会では財政政策の効果が弱くなる(=日本が停滞した理由)。」「高齢者もできるだけ長く働いて社会貢献してもらうという視点が必要だ。100歳まで生きる社会で、65歳で退職して残り35年は誰かが面倒を見るなんていうことは不可能だ。私の理論モデルでは、すべての人が死ぬ前の日まで働き続け、生産性に応じた給与を支払えば、日本経済は絶対に破綻しない(←本当?)。」「国債発行とは将来世代へのツケ回しにすぎない。増税はせず、どこか別の所から捻出するという政治家はペテン師に過ぎない(←大いに同意する)。幸い日本の高齢者の多くはもっと働き続けたいと考えている。社会保障が減る分を自助努力で補ってください。消費税も上げずに働いて稼いでくださいと頼むべきだ」…。

少子化の話はすでに書いた。夫婦2人で子ども1.3人にしか作らない世界で、夫婦の介護を自らの子どもだけで賄うのは、数字で見てもとうてい不可能である(子どもは自分の親だけではなく配偶者の親も介護することになるのだし)。そのことは棚に上げて、他人が産んだ子供を介護要員の当てにするというのは、お金を有り余って持っていれば済むという話ではないであろう。人間ではなくロボットが面倒を見るというのであればともかく、そもそもが稀少な若年労働力が(将来性も売上げもない)死んでいく老人の介護に費やされるというのは、それこそ夢も希望もない話である。介護というのは本来、福祉であり、企業生産性ベースに乗ってくる話ではない。

長生きをするのは素晴らしいと言う。100歳長寿で、元気で、人の助けもあまり借りることなく、それどころか世の中のためになって生きていられるのであれば、それこそいくらでも長生きしてもらえばよいと思う。つまり、寿命と健康寿命がほぼイコールであればよいのであって、介護介助医療の助けを延々借りることによって(財政的負担が一体どれだけかかるのだ!)寿命だけを不自然に伸ばすことは百害あって一利なしであろう。吉野教授は、死ぬまで働いて給与を得られることを考えておられるようだが、それはなかなか難しいだろうし、そうではなく、私はひとりひとりが健康で寿命を重ね、介助も介護も特段の医療も不要な長寿社会が来るのが理想であろうと思っている。ごくときたまかまもしれないが、90歳を超えて、あるいは100歳も超えて、車椅子も要らず、杖くらいはつくにしても自分の脚で歩き、きちんと食べて、楽しく話をして、ああこういう風に年を取りたいなと思う方にお会いすることがある。長寿というのは、そういう人たちのことを言う。

介護施設のビラがよく入る。先般のを見ると、私方自宅の近くに建設中の介護施設であった。健常者用のアパートと要介護者用のアパートが同じ棟に建つことになるらしい。前者の入居者が後者に入居することになってもいいし、夫婦で前者と後者で住み分けしても互いに近くて行き来が出来てよいというのである。びっくりしたのは、その値段!(港区だし、もちろん地価が高いということはあるにしろ) 後者のアパートの広さはわずかに10畳程度。鰻の寝床のような部屋の端にベッドがある。おそらく寝たきりで、食事は運ばれてきて、食べさせてはもらえるのであろう。それがいくらだと思われるだろうか? 住居費が月30万円以上、食費は5万円程度(大したものは食べないはずだ)、もちろん水道光熱費はかかるにしろ知れている。あと看護その他スタッフの人件費になるはずだが、なんとびっくり、月62万円! ちなみに、比べて前者のアパートは40平米とだいぶ広いが(キッチンもある)、月40万円程度であった(それでももちろん高いが、結局介助の人件費にかかる費用の差であろう)

月62万円は、日に2万円である。年700万円以上!を払える人がどこにいるのだろうか。年金でその額はありえないから、もちろん預貯金を切り崩すのであろう。自宅を売却してきたお金を充てるのだろうか。自宅を売却したのであればもう戻るところはなく、その10畳程度の部屋が死ぬまでの住処ということになるのであろう。施設に払う金だけで月700万円超え、10年生きれば8000万円程度にはなるのだろう。それほどのお金持ちはもちろんいるにしろ、普通にありえる単位の話ではない。そもそもそれまでお金を貯めてきて、最後そんなことに大枚のお金を使うって、何か間違っていない?! 楽しいか?生き甲斐を感じるか? まさか。誰だって、自分の脚で動き、自分の行きたい所に行き、食べたいものを食べたいではないか。

特別養護老人ホームは介護度要である。月20万円程度しかかからないので、年金で暮らしていける施設である。そしてその上は、切りがない。アパートの所有権を持つこともできるし、それこそお金さえ積めば手厚いケアも受けられるであろう。しかし、それでも、である。スタッフはいなくなり、別の人に代わっていたりする。馴染んだ住居者がいなくなり、独りぼっちになることもある。結局のところ、お金を積んだからといって幸せは買えない。幸せは健康であること、自分のしたいことがあること、社会的に孤立していないこと…によってもたらされるものである。豊かな老後を一人一人が作っていくことが、日本経済にも資することになるはずである。異次元のなんちゃらとか、ばらまき福祉、といったことばかり言っているのでは政治への信頼は損なわれるばかりである。

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