ウクライナ戦争に改めて思うこと

大型連休が終わった。私は4月29日事務所に出た後、5月1?5日尾道に帰省し、6日から通常勤務である。気温の変動が激しくて要注意だが、依然マスクをし、手洗い・嗽を励行しているせいか、至って体調は良い。何より睡眠不足がいけないので、夜は(何かしたいことがあっても)早めに寝て早く起きる生活習慣に変えたのが良いのだと思っている。

さて、ウクライナでは依然戦争が続き、民間人の惨殺など悲惨な現状が日々伝えられるが、停戦ないし終戦の当てはいっこうに見えない。有識者の話を聞き、本や記事を読むが、中で、思想家内田樹氏(現神戸女学院名誉教授)の話(月刊日本2022年5月号)がいつもながら洞察力に満ち、非常に参考になった。いわく、S.ハンチントンの『文明の衝突』(1966年)ではいずれ世界は7?8つの文明圏に分割されるとの見通しだったが、ウクライナ戦争は「ウクライナはロシア帝国の属領であるべきか、単立の国民国家であるべきか」という本質的な問いを巡るものである。旧ソ連圏を再び支配下に置くことで帝国を再編しようというプーチン対死を賭して単立の国民国家であることを選ぶウクライナ国民の正面衝突である。

前近代の世界では帝国が基本的な政治単位だったが、ヨーロッパでは1648年のウェストファリア条約から「国民国家」という新たな政治的単位が導入された。後者が支配的になっていくのは、フランス革命戦争が「国民国家は帝国より戦争に強い」と証明して以降とのこと(私は、ナポレオンが素人の市民を徴兵して、傭兵ばかりのプロイセンに勝利したときがその分かれ目かと思っていた)。そして19?20世紀、帝国の属領だった地域が次々と国民国家として自立していく反面、各帝国は崩壊していく。

なるほどと思ったのは、ウクライナ戦争に世界的関心が集まるポイントは「政治的正しさ」(political correctness)であるということだ。すなわちゼレンスキー大統領は、国際社会に向けて「我々は、自国領土や市民の自由と権利を守っているだけではなく、この戦いを通じて、世界中の人々の自由と権利をも守るためにも戦っているのだ(=上位の価値)」とのメッセージを発信している。それ故に世界中の市民から支援が殺到したが、対してロシアはNATOの東方進出で自国の安全が脅かされたという「戦争理由」を掲げるだけで、それはロシアの国益にしか関わりがない。ロシアは今回「力による現状変更」に踏み切ったことで「越えてはならない一線」を越えてしまった。

氏は、アメリカについて「自分の手は汚さずウクライナに激しく抵抗してもらって、ロシアの兵員兵力が損耗し、経済制裁でデフォルトに陥り、国際社会で孤立した二流国に転落するシナリオを期待しているだろう」と言う(中国は厳しい立場に置かれており、台湾侵攻は遠のいたのではないか?)日本は「帝国の属領」になるのか「独立した国民国家になるのか」と言えば、日本は「アメリカ帝国の属領」であると。独立を目指すのが不可能なのは、今の日本人には「総力戦」を戦う力がないからだと。それでも独立を目指したいというのならば、「我々はどういう世界を目指すのか」という理想を問い直すべきだと(それは憲法前文にすでに書かれているだろう)。

4月26日付け日経新聞オピニオン「抗うウクライナ、日本に教訓」(秋田浩之)にも大いに共感した。まとめると、?有事では同盟の有無が明暗を分ける、?自力で防衛する力と意志がないと、他国の支援は得られない、?政治リーダーによる優れた国民と軍の統率力が戦況を大きく左右する。ことに?。ウクライナは、大統領以下国民が国の独立を守るために必死で戦っている。民間人の殺戮を止めるためにすぐに停戦だ降伏だと言うのはたぶん日本人くらいだろう。国の独立をまさに死守しようとする姿勢こそが世界中の共感を呼び、支援を集めている。同盟国に自国の防衛を丸投げするような国を、同盟国すら守ってくれるはずもない。いわんや他の国々はそっぽを向くだろう。もっと以前に向き合わなければいけなかったはずの冷徹な現実を、ウクライナ戦争は我々に突きつけている。

カテゴリー: 最近思うこと パーマリンク