首相補佐官「法的安定性は関係ない」発言に思うこと

礒崎陽輔なる人物を知ったのは最近である。自民党参院議員だが2007年当選(大分県選出)、私が出て3年後に入ってきた人なのだ。東大法学部卒、総務省(旧自治省)出身。02年から2年、安全保障・有事法制担当の内閣参事官を務めた際、安倍首相(第一次内閣)がいたく気に入り、参院に出馬させたという。そして、第二次安倍内閣の下、総理大臣補佐官に任命され、安保法案のキーマンの役目を担ってきた人であるらしい。

この人を知ったのは今年に入ってからだ。憲法学の常識である、憲法で権力を縛る立憲主義について、「この言葉は学生時代の憲法講義では聴いたことがない。昔からある学説なのか」とツイッターで呟いたことが、大きく報道された。いうまでもなく、憲法では常識のレベルであり、近代の歴史を少しでも学べば、暴走しかねない権力を憲法の下に縛り、市民の自由と権利を守るための人類の知恵であることを知る。それを、傍らの人に漏らす以前に、まずは大衆に大きく呟くなど、無知のうえに無恥も甚だしい。

次は6月、ネット上で女子高校生とのやりとりの一部始終が駆け巡った。彼が、集団的自衛権行使の必要性について火事の例を引き、隣家が燃え、そのうち自家にも燃え移る状況下で自家を守るために消火活動に当たるとの譬え話(首相も同じ例を模型まで使って得々とテレビで披露し、日本の中枢のお粗末さが世界の笑いものになっていはしないか、本気で心配である。)を出したのに対し、「バカ。攻撃の場合は火事とは違い相手がいるのだから、こちらも攻撃されるんだよ。まったく違う次元の話では譬え話にならない。そもそもその例では個別的自衛権で対応が可能だ」といった要旨で反論され、そちらが結構理路整然としているのに対して、首相補佐官のほうは大人げなく激高してやりとりした挙げ句、相手がまだ18歳の高校生だと分かったとたんにツイッターを閉鎖して逃亡したという事件である(このやりとりはあまりに馬鹿馬鹿しくて笑えるので、まだご存じない方はネットでご覧になってください。)。

この御仁はおよそ政治家になるような人ではない、真っ当な大人ですらないと思っていたところに、この度の失策だ。地元での講演の際「法的安定性は関係ない。我が国を守るために(集団的自衛権行使が)必要かどうかが基準だ」との発言をしたというのだ。野党は当然ながら更迭を要求し、対して内閣及び党は謝罪・注意だけで幕を引こうとしている。そもそも政府が従来、国連憲章に定める集団的自衛権は存するが、憲法9条の下、行使はできないとの立場を長い間とってきた事実を、一内閣の閣議決定で変更することは法的安定性を害し、法的クーデターとよぶべきものだが、それを、首相に最も近い政治家が何が悪いと開き直ったというのがこの発言の趣旨と思える。要は、それこそが内閣の姿勢だということができよう。

いつも思うことだが、問題の所在は、たまたま外に表れた「失言」ではない。ではなく、その根っこにある、その人そのもの(あるいは組織そのもの)である。政治家はその全人格で国民を代表する。完全な私生活以外ではその行為・発言は公的なものであり、その責任たるや重大極まりないのだ。その重さに耐えられない人に政治家の資格はない。こうした一連の発言は、この人(だけではない。)が政治家の資格などさらさらないことを明白に物語っているのではないか。いわばその対極にある社会的逸脱者の場合ですら、原則的には外に表れた犯罪としての行為のみを非難の対象にするものの、同じ行為でも累犯者・常習者になればその性格(人格)をも非難の対象にし、刑罰は重くなるのである。

誰であれ、どんな場合であれ、その人格と切り離された、ただの失言や失策などおよそありえないと私は常々思っている。それがもし、言ってしまったやってしまった、だから謝罪する、許すからいいよというのは、純然私人同士の話である。会社でのセクハラ・パワハラでもそれでは済まないし、我々弁護士もその不適切発言・行動には常に懲戒というペナルティがついて回る。まして公人であれば公人としての責任の取り方があろうというものだ。だが今や新国立競技場建設問題にも顕著なように、それが全体に薄められ、「赤信号、皆で渡れば怖くない」になっていることが一番恐ろしいことだと思うのである。

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