赤ちゃん取り違え判決に思うこと

今年とても面白い(といっては当事者に失礼なのだけれど)判決があった。11月26日,東京地裁での判決だ。60年前,墨田区の病院で産まれた原告は,13分後に産まれた別の赤ちゃんと取り違えられ,以来別の家庭で育った。今ではおよそ考えられないが,赤ちゃん取り違え事件はいくつも起こり(まさに映画「そして父になる」の世界である),ニュースでも接していたが,今回は裁判になったので注目を浴びた。原告は1億5000万円ほど請求したが,判決はうち慰謝料として3800万円を認めたという。

原告は本来裕福な家庭の出身であったが,間違えられて貧しい家庭で育った。本来の家庭は弟3人がすべて私立高校から大学に進学,全員が1部上場企業に就職したという。原告の人生も本来であればそのコースに乗ったはずだが,育った家は貧しく中卒後定時制高校にしか進めなかった。職業はずっと運転手である。小説「王子と乞食」ではないが,これほどまでに対照的な家庭間の取り違えというのは通常は起こらないと思われる。当時はまだ家で出産するのが普通であり,病院間の格差が今ほどではなかったのであろう。

さて,なぜ取り違えられたのが分かったのか。それが劇的なのである。本来貧しい家で育つはずだったほうは裕福な家で育ったにかかわらず,そして大学まで出してもらったにかかわらず,弟3人とうまくいかず,遺産相続や介護でもめ事を起こしていた。容姿や性格は弟らと似ていない。母親は「産着が用意していたものと違っていた」と言う(原告の親もそう言っていたというのだが,互いに自分の子供なのに分からなかったのか,それも不思議なところである)。弟らは親子関係不存在確認の訴えを起こし,今はDNA鑑定が進んでいるので,親子関係が否定されたのである。それから弟らの執念が実って本当の兄貴が探し出されたというわけである。

俗に「氏より育ち」という。しかし実際は「育ちより氏」だったわけだ。環境は遺伝を覆すことができなかった。法律的に興味があるのは,本来の家とは違う貧しい環境下で育てられたからこそ逸失利益や慰謝料やらと言えるけれど,反対に貧しい出自が裕福な家庭に育てられたほうからはそうした構成はできないという点である。今回はたまたま実に格差のある家だったが,同じような環境下であれば,あとは本来の親や兄弟の元で育たなかったことに対する慰謝料のみしか立たない。そして慰謝料は交通事故で死んでも最高3000万円である。それより多くはできないのは法的には自明の理のように思える(今回の判決も原告本人の慰謝料は3000万円。あと亡き両親の慰謝料を800万円とし,それを原告及び弟3人が相続するという構成をとった)。今回の判決について,低すぎるとのコメントが多いようだが,判決としては仕方がないと思っている。

いずれにしても本当の両親の元で育てられなかったという損害は金に見積もることはできない。二度と戻らない人生。今,本当の弟らと交流を温めているという原告に幸多かれと祈らずにいられない。

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