自民党女性局フランス研修旅行について思うこと

この度の大炎上で、自民党女性局が一躍有名になってしまい、片腹痛い。今を遡る20年少し前、自民党女性局長だったからである。いろいろあって続投したので、併せて2年2ヶ月の長期にわたった。全国津々浦々の支部に出かけて地方議員はじめ自民党支持者らと交流を持ったり、永田町党本部で研修をしたりして、有意義であったと思う。中には今でも親しく交遊のある、尊敬すべき(元)地方議員もいる。
そういう地味な活動しかしてこなかったので、今回38人の多人数でフランスに行ったとのこと、驚くばかりである。実は、女性局でフランスに行くということ自体は、この7月12日女性局の行事に請われて出席した際、行事の最後、松川るい局長が皆の前で「今度女性局でフランスに行くんですよ」と得意げに言ったので、知ってはいた。え、フランス?  6月末移民の少年(もちろんイスラム教徒)がパリで警察官に殺害された事件を発端に、移民らによる大暴動が発生し、警察隊との衝突が起こって、マクロン大統領はドイツ訪問を取りやめたし、外務省からも渡航注意が出ている。それなのにフランス? 大丈夫なのか、と思ったら、そんな大事なことには一言も触れず、「フランスは3歳児以上に義務教育を課しているので、それを見てきます。楽しみにしていてください」! この得意げな声音も耳にこびりついている。東大→外交官→参院議員。素晴らしいキャリアの彼女は、当然のように自信家である。

なんだ、そんなことを視察に行くのか? 子供は遊ばせるべきである。どうしても早くから英才教育をしたければ、自費でやればいいのである。そう思っている人のほうがずっと多いはずで、義務教育を6歳から3歳までに引き下げるべき、なんて思っている人が一体どれほどいるのか。自分一人の、せいぜいよく言って少数派もいいところである。子供を、その個性も立場も考えず一律に縛るのも害ならば、一体そのお金はどこから出るのか? またまた増税で賄うつもりか? 日本はますます借金肥大国になるだけである。政治家こそそれを考えないといけないのに、ポリシーもなく、国家の骨組みもなく、なんでもお金(税金)をつぎ込めばよい、というのはおよそ政治家ではありえない。

事実婚にも同じ効力を認めた結果として、出生率が2.0に上がったと喧伝していたフランスだが、何も言わなくなったと思ったら、またもや1.8に戻っていたのである。しかもその割合は移民が多いのだ。フランスは出生地主義を採っているので、アフリカなどからの移民労働者がフランスで出産すればすべてフランス国籍になる。そのためその割合を正確に出すのは難しいが、移民=貧困で格差問題が大きくなり、宗教的対立もあって、国を揺るがす由々しき事態に陥っているのは(今回の暴動事件の背景にもそれがある)、ある程度ものを知っている人は知っている。しかし未だに、欧米の先進国というだけで何でも見習おうとする人たちは官僚、外交官、政治家などいわゆるエリート層に多いと常々感じているところである。

民主主義は絶対的な善である…と考えるのは世界でごく一部に過ぎない。ロシアは敵、ウクライナが正しいというのはアメリカの考え方であり、インドはじめ世界の多くの国はその立場を取っていない。安全保障をアメリカに委ねている日本は、すべてにわたってアメリカ追随だが、世界の多くの国は呆れているはずである。キリスト教を共通の価値観にする欧米とは違い、日本は歴史も文化も異なるアジアの国である。その立ち位置の自覚もなく、ひたすらアメリカに追随するのは、きっとそれが考えなくてもよく、楽だからであろう。情けない。

という次第で、女性局が視察に行くという分野は全く関心のないことであったが、楽しみにしていてくださいと大言壮語するからには、また、女性局の行事として公的に行くのであれば、そのうちレポートが出るのだとばかり思っていた。公的出張に報告が伴うのは社会的常識のレベルである。ところがどっこい。正規の報告ではなくまさかの大炎上により、私はこの研修旅行の内実を知ることになった。まさに天網恢々疎にして漏らさず。もっとも誰がたれ込んだのでもない、自ら自爆したのである。

7月下旬に3泊5日、松川、今井絵理子、広瀬めぐみ、他男性の参院議員4人はファーストクラスで、他の地方議員その他はビジネスクラスだったのだろうか、松川議員が自らのSNSに得意げにアップした写真はエッフェル塔前でのポーズ取り写真その他であった(炎上後削除)。今井議員ももちろんアップしたので大炎上し、結果明らかになったのは、仕事?らしいことはわずかに6時間のみ、あとはシャンゼリゼ通りでのショッピングやセーヌ川下りの豪勢なフレンチ、5つ星ホテル滞在…なんだ、これは。完全な観光旅行ではないか。呆れることには、松川氏は小学生の次女同行、大使館職員に子守をさせ、おまけにレセプションなど公的な集まりはすべて欠席して今井副団長に任せていたという(子供との家族旅行を公費でやったわけである)。ここまでの公私混同はおよそ聞いたことがないが、元外交官の彼女にすれば外務省が国会議員のお世話をするのは仕事でしょうくらいに思っていたのであろう。勘違いも甚だしい。

大炎上して、女性局・青年局を束ねる組織運動本部長(小渕優子さん)が厳重注意をしたのに対して、「誤解を与えた」(であれば、誤解を解くよう説得しなければいけないが、誰も誤解などしていない)とか「軽率だった」とか、言葉はともかく、ふてぶてしい態度に終始し、全く反省などしていないことがテレビを見ている者にも如実に伝わり、気分が悪くなった。反省するような人であれば、もともと大炎上するような事態に至っていないのだ。すべてが結局のところ人間性の発露なのであり、子供を同行したことも含め、自分は絶対的に正しく、何一つ間違ったことはしていないと思っているはずである。

組織運動本部長からの注意だけでその上の幹事長が放っているのは、この日程で党が金を出すことを了解した故であり(子供同行も含めてか?)、ただまさかこんなに浮かれて遊びの写真を嬉しそうにアップして大問題になるとは予想もしていなかったであろうから、この騒動が早く収まることをただひたすら待っているのだと思われる。広瀬議員は松川・今井両氏と違い昨年の参院選での初当選であるが、やっぱり同じように浮かれて5つ星ホテルや豪華なフレンチなどをアップして炎上、地元の知事選の応援に戻れないらしい。自らも女性の参院議員をとの触れ込みで初当選し、今度は知事選にも女性を立てたというのに、逆風である。彼女に会ったことはないが、50代で弁護士をしていて、普通より知能も高いはずなのに、こんなことをして反感を買うとは思わなかったのか、不思議である。弁護士はじめ知っている周りの男性で同じことをしそうな人は思いつかないので、言いたくはないが、女性は駄目だよねとつい思ってしまう。女性の国会議員を3割にと、松川さんもずいぶん声を大にして言っていたが、量より質を。非常識な女性を増やすのは有害なだけである。

国民は今、諸物価は上がるし、賃金は上がらないし、先行きは見えないし、困っているのである。国民を代表するのが国会議員であり、それが国民の現状を知らず、知ろうともせず、自分は特権階級だからと常に上から目線であることをまざまざと見せつけられた。東大→官僚は、一般的に言って確かに優秀ではあるだろうが、優秀=頭が良い、ではない。本質的な頭の良さというのは教養があり、バランス感覚があり、相手の立場になって考えられる資質である。もちろん学歴も職業も問わないが、その基本は18歳までに家庭環境で培われるもので、それ以後には身につかないような気がしている。そうした本当に頭の良い人が政治家にならなければ、日本は欧米に尻尾を振り追随するばかりで、自らの立ち位置も分からず、後退する一方ではないか。そうしたことを思わされた「事件」であった。

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木原誠二氏案件、その後…

刑事告訴は未だになされていない。やったことは妻の代理人が弁護士会宛に人権救済の申し立てをしたことだけである。それも最初は法務省宛にするつもりが、行政機関に対してするのは政府トップにある自身の立場上まずいということで(そんなことは私が前回のブログに書いたように、普通に考えて分かることである)、急遽弁護士会宛に変えたというのだから、ちょっとお粗末である。何よりもすごいことは、未だ一切の会見がなされておらず、明らかに一切の取材を避けていることである。官房副長官の公務よりも「家族のケア」という私事が大切というのならば、職は辞すべきである。任命権者である首相がどう考えているのかも全く見えてこないのは、不気味である。
この間、文春はスクープ第4弾で、10頁以上にわたる特集を組んだし、そこに出てくるS元警部補(昨年退職済み)による、なんと実名での会見も行われた。S氏が異例の取材なり会見に応じた動機は、自分たちが真剣に捜査をしていたのに突然、上から捜査終了と告げられたうえ、先月警察庁長官が「事件性がなかった」と述べたのが「頭に来た。現場の警察官をバカにしている」と義憤に駆られたからである。事件性がないはずはない。なければ12年を経て再捜査に踏み切るはずはなく、その際警視庁捜査一課を主とした30人体制が組まれ、Yの供述を引き出すために30回も宮崎刑務所に出張することなどできはしない(複数で赴いているはずで、交通費宿泊費その他を考えると、総額1000万円位にはなるのではないか)。それが途中で急に止められた背景には、高度に、政権からの差し金があったことが伺える。

そもそも警察に押収されたドライブレコーダーに、木原氏が警視庁での取調べ後の妻に対して「俺が手を回したから大丈夫」「何も喋るな」と言っているのが残されているのだ。タクシーはタクシー強盗などに備えて録音録画をしている。警察の要請があれば当然提出する。ドライブレコーダーのことを知らなかったとしても、運転手という第三者がいる所でそんな話は普通、しない。家に帰って、誰もいない所でしか言えない話のはずだが、それこそ警察が喝破したように「東大出のボンボンで、脇が甘い」というより、常識が欠けている証左であろう。誰かもっと有力な方に入ってもらったのであろうが、当事者である自分が働きかけたのは事実と思われるので、名誉毀損の告訴もできなければ、会見も開けないという八方塞がりになっているのであろう。このままだんまりを続けていれば、人の噂も75日で、皆忘れてしまうと思っているのだろうか? まさか。ことは殺人事件が闇に葬られたという、恐ろしい案件なのである。

本当はYが実行犯ではないかと前回書いた。しかしYは外されているそうだ。なぜならば、被害者の死亡推定時刻は前夜(4月9日)の午後10時頃。Yが被害者方に来たのは(Nシステムの解析により)午前零時頃だからというのだ。しかし、解剖を実施したのは10日だから(午前ではなく午後だったかもしれない)、2時間程度のずれがあるのは珍しくない。そもそも食べ物の消化具合で、食後すぐとか何時間後という割り出しをするので、食事時間についてX子がずらせばそれも異なってくる。非力な女性X子だけでは実行できないから男である、を下敷きに推論すれば自ずとYになり、Yは警察に嘘の話をした…ということになるのだが、S氏は、YではないZを実行犯として挙げている。それを実名にすればそれこそ名誉毀損で訴えられるかもしれないので、だいぶぼかしているが、素直に読めばZがX子の父親であることは浮かび上がってくる。YがX子によばれてその家に行ったときには、Zがすでに殺人を犯して帰っていたのであれば、ストーリーはクリアになる。

そもそもこんな残忍な殺害方法は、相手に対してよほどの恨みがないと出来ない。愛娘を大事にせず、生活費も入れず、池袋のキャバレーで働かせるような婿。娘とは不仲で、だから子供を連れて逃げていたのに無理矢理連れ帰られ、子供2人の親権は欲しいなどと言う。そもそも家だって、自分のものなのだ。ろくでなしの婿…激昂して、思い切り残忍な方法で殺害した…という見立ては成り立つ。大学時代ボクサーでもあったし、一発殴れば相手は失神して、その後やりやすいだろう。しかし、あくまでこれは推理でしかない。S氏も、実行犯Z説は自分の説で、再捜査班全体で共有されていたとは言っていない。証拠も少ないと言っている。Zは近くに住んでいたようで、歩いて向かって帰ったのだろうから、その日犯行時刻頃そこにいたという証拠もおそらくないのではないか。自分の家だし娘夫婦に住ませているのだから、何度も行って指紋だってあちこちに残っているのは自然である。

夫が無惨な死を遂げたというのに、その夜X子は近くの居酒屋で祝杯を挙げている。笑顔にピース(同席したYは笑っていない)。よほど夫に恨み辛みがあったのであろう。ざまあみろ、という安堵感達成感で一杯だったのだろう。夫がいなくなれば離婚の要もなく、子供の親権や面会交流などと主張されることもない。厄介払いが出来て万々歳、ということか(コワい)。そして父親は娘と一体になって、強い殺意をもって婿を刺した、そのうえで自殺として処理されるよういろいろ指示をした、なにせ警察官なのだし、そこは素人と違って頼り甲斐がある…。

以上の推察はできる。自殺ではない、他殺だとは思われる。だとして、誰が殺したのか。それが特定できなければ…アイツだ、アイツしかいないと諸事情から高度に推察できても、それだけでは起訴はできない。それでお蔵入りになった事件はたくさんある。無理して起訴をしたものの「疑わしきは罰せず」で無罪になった事件もいくつもある。もし、そこに「自白」があれば、大丈夫である。X子が実行行為に何らかの関与をしていたのであれば(例えば包丁を手渡したり、体を押さえたり)普通の共犯だし、ただ殺意を共にして共犯者に実行させたのであれば共謀共同正犯であって、いずれにしてもその供述は「共犯者の自白」であり、実行者が否認のままでも十分に立件できる。いずれにしてもX子の自白が欲しいので、S氏もそれが故に何度も取調べをしていたのである。だがX子は口を割らない。ましてや父親のことなど決して言わないであろう。いちかばちかZの逮捕に踏み切ったとして(そもそも逮捕状が出るほどの証拠があるだろうか? Z方を捜索はしたようだが、捜索差押令状のハードルは逮捕状と比べられないほど低い)知らぬ存ぜぬで通されれば、起訴などできない。

なぜ他のマスコミが取り上げないのか、ワイドショーでやらないのか、といった意見が大勢を占めているようだし、政権や警察に遠慮している、圧力をかけられていると言っている人も多いようだが、推論だけしかない本件では、もしX子なりZから訴えられれば名誉毀損になるおそれも高いのである。それが分かっているから、どこも流さないのだと思われる。もちろんこれは公人である木原氏のもみ消し疑惑とは別の話である。
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木原誠二官房副長官スキャンダルに思うこと

コロナ発症して今日でちょうど4週間…倦怠感・疲労感(咳・痰は少し)の後遺症は依然続いている。風邪程度で済んだ人も多い一方、2ヶ月かかった、7ヶ月かかった!(脱毛まであったそうだ)という人もいて、医者に言わせると「治ればよいです。治らない人もいますから…!」。コワい。とにかく二度と感染しないことだ。マスクはどんなに猛暑でももはや必携である。

そんな中で、私の頭がホットな状態なのが、冒頭のスキャンダルである。私が参院を辞めたのが2004年、この方がいわゆる郵政解散総選挙で(財務省を辞めて)衆院当選したのが2005年、なので直接の接点はない。東大→財務省→35歳で代議士、2008年に落選したがそれ以降は当選を重ねて5回当選(今53歳)。岸田首相の懐刀と言われている「切れ者」だそうだ。実兄はみずほフィナンシャルグループ社長、親なども相当の地位にあった人であることも知っている。

この方がマスコミを賑わせたのは昨年来、愛人と隠し子が発覚したことによる。昨年は親子で七五三、今年は親子でディズニーランドと、ずいぶん堂々と振る舞っていることにびっくり。誰に出会うかも分からないのだから、一般のサラリーマンでも家族以外とはそんな所に行かないが、フランスの政治家同様、プライベートは関係ないでしょ、というスタンスなのだろうかと思っていた。愛人が元ホステス、そして妻も元ホステス(互いに面識がある)で、家族は前夫の連れ子2人と、自分の子ども2人の計5人ということも、そのときに知った。

今月、いわゆる文春砲が炸裂したのは、それとは完全に別件である。木原氏の妻の前夫は2006年4月10日、自宅で死去したのだが(享年28歳。妻は26歳で、子どもは3歳と1歳だったと思われる)、不審死なのに、自殺で処理されている。包丁か何かの凶器で喉元から刺した傷が肺にまで達しての失血死など、自殺の方法としてはそもそも希有すぎる。そのうえ凶器を自ら抜いて近くに置いておく…そんなことができるだろうか? まさか。もし自分で刺したのならば、そのままの状態で事切れているだろう。死体解剖がなされたようだが、その際致死量の覚せい剤が検出されて、過度の覚せい剤使用によって狂乱状態となり、自殺をした…と片付けられたようなのだ。

しかしいろいろな疑問が湧いてくる。?そもそも自殺する動機があったのか。男(Yという)の所に子ども2人を連れて逃げていた妻(X子という)を取り返すべく、その前日自宅に連れ帰って(ハイエースという大きな車を、前もって実父から借りていた)離婚の話し合いをしていたというのである。もちろん遺書はない。?覚せい剤使用は重罪である。高価なもので、それが致死量となるとかなりの量・金額になるし、一体誰からいつどうやって入手したのか、どうやって自分の体に接種したのか(飲んだのか注射したのか)、きちんと捜査をする必要があるはずだが、なされた形跡がない。?妻は当時隣の部屋で子どもらと寝ていて気がつかなかったというが、それだけのことがすぐ隣の部屋で起こっていて、全く気がつかないなどありえるか。つまり、他殺であろうと容易に推察できると思われる事件を、あえて自殺で処理したことについては、妻の実父が警察官だということが影響したのではないかと思えてくる。自分の身内が殺人容疑で逮捕されたりしたら、おそらく父親は職を辞することになるからだ。

X子はこの後、銀座のホステスになり、2008年、客で来た若手有望政治家の木原氏と出会う。独身でハンサムな木原氏に、彼女はぞっこん惚れこみ、そのあと落選した3年余の間(民主党政権の時である)も経済的援助を惜しまなかったという(もちろん木原氏自身も有能な人なのでちゃんと働いてお金は貰っていたようである)。政治家が40歳を過ぎていつまでも独身というのも格好がつかないので、見合いも組まれ、有名な料亭の娘さんとの結婚式も予定されていたのに、結局木原氏はその結婚式をキャンセルし、X子は妊娠して、2014年結婚に至る(10月出産)。この間愛人との交際も併行していて、愛人の娘は2015年3月に産まれる(これだけを見ても、なんだか節操がなさすぎる)。妻との間には2018年第二子も産まれる。

つまり、前夫の不審死事件と木原氏との間には何の接点もない。木原氏との接点が出来るのはその後である。この事件はコールドケース(未解決事件)として残っていたらしく(殺人事件に時効はない)、所轄大塚警察署の女性刑事が2018年初め、おかしいと気がつき、捜査態勢が組まれることになる。その際、Yが当日X子方に車で向かっていたとの裏付けが取れ(しかし、Nシステム解析でそこまで分かるだろうか?)、覚せい剤事犯で収監中の宮崎刑務所を頻繁に訪れてようやく、Yが当日、X子から電話を貰い、「夫婦喧嘩の弾みで夫を殺してしまった」と告げられて、家に向かったとの言質を取ったそうである(180センチもある夫を女一人で刺し殺すのは、就寝中か意識不明中でもない限りおよそ無理なので、Yは最初からその場にいて、覚せい剤使用といい殺害といい、主位的に関わったのではないかと私は感じているが)。それを受けて、X子の実家(名古屋らしい)及び木原宅が捜索されたのが2018年10月。事件現場(一軒家と思われる)はX子父のものだったようで、すでに取り壊されているらしい。

12年も経って、再捜査をすると言われて被害者父は喜び期待したが、なぜだかその後捜査は頓挫してしまう。もし警察が、月日もずいぶん経っているし、今更の立件は難しいと自分たちで再度判断をして止めたとしたら格別、もしここに、木原氏が自民党の有力議員である(捜索に入られた当時、自民党情報調査室長など有力ポストに就いていたという)が故に、警察が何らかの忖度をしたか、さらには権力側からのなんらかの働きかけがあったとすれば、それがまさしく木原氏自身に絡む問題となる。

もし何も働きかけなどしていないと断言できるのであれば、堂々と記者会見をすればよいと思う。政治家であるからには身の潔白は自らが説明責任を果たす以外にない。妻の事件については自らはたしかに預かり知らぬことなので、妻を信じていますと言い切ればよいのではないか(あるいはきちんと取調べに応じさせます、そして真実を明らかにさせますといえば、なお良い)。しかしながら自らはだんまりを決め込み、普通の市民のように弁護士を使い、「事実無根・人権侵害」「刑事告訴する」旨の書面を送ったので、まずいのではないかと思ったが、やはり未だに刑事告訴などなされてはいない。公職にある者に対する名誉毀損については、マスコミ報道は刑法230条の2で言論の自由(国民の知る権利に奉仕する)が高度に守られているし、そもそも政府トップにある者が法務省や検察庁といった自らの下部機関に指示する形になるのは妥当ではない。やるのであれば職を辞すのが先なので、そんなつもりがさらさらないのならば、これは単に脅しになってしまう。

被害者の父親が顔を出して司法記者クラブでの会見に応じている。とにかく真相を明らかにしてほしいと。遺族はもちろん、関係のない一般国民もそう願う。父親は息子と連絡が取れず、心配になって当日午前3時頃、息子方に行き(車を返してもらうのであれば、車で行っていないのだろうか。それが分からない)、変わり果てた息子を2階で発見している。強盗にやられたと思ったそうだ。110番をする際、住所が分からず外に出て電柱表示を確かめた際、荷物を抱えた怪しい男を見たのだという。これがYだとすると、彼はすでに家にいて、真夜中に人が入ってきたのでしばらく息を潜めていて(X子同様、父親が来たとはゆめにも思わなかっただろう)、いなくなった際に慌てて外に出たのかもしれない。その際返り血を浴びたであろう衣服なども一緒に持ち出したとすれば辻褄が合うのではないかと想像してしまう。

X子とYとの通話状況なども警察は押さえているはずである。凶器はじめ現場の指紋などは採取していないのだろうか。もしかしてYと前夫は以前より知り合いで、覚せい剤仲間であったり(反社系になる)、X子のこととは別に金銭問題などで揉めていたことはなかったのか。例えば前夫に保険金が掛けられていたなんてことはないのだろうか。X子は妻でありながら遺体の引き取りに応じず、葬儀に来て線香を上げてくれという義父の電話を切り、以後何の音沙汰もないそうだ。もちろん孫にも会わせてもらっていない…。事実はまさに小説よりも奇なり。ただただ本当のことが知りたいと、しばらくぶりに思わせてくれる事件である。

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『事実婚の夫が亡くなりました。遺族年金は貰えるでしょうか。』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2023年8月号

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「人間は死ぬまで働くべきである」。介護施設に思うこと…

会員情報誌『選択』の記事を時々送って下さる方がいる。7月号巻頭インタビュー吉野直行氏(慶應義塾大学名誉教授)の「日本財政を救うのは『働く老人』」が良かった。いわく、「国債の需要がなくなれば日本はすぐに財政破綻する。」「高齢化社会では財政政策の効果が弱くなる(=日本が停滞した理由)。」「高齢者もできるだけ長く働いて社会貢献してもらうという視点が必要だ。100歳まで生きる社会で、65歳で退職して残り35年は誰かが面倒を見るなんていうことは不可能だ。私の理論モデルでは、すべての人が死ぬ前の日まで働き続け、生産性に応じた給与を支払えば、日本経済は絶対に破綻しない(←本当?)。」「国債発行とは将来世代へのツケ回しにすぎない。増税はせず、どこか別の所から捻出するという政治家はペテン師に過ぎない(←大いに同意する)。幸い日本の高齢者の多くはもっと働き続けたいと考えている。社会保障が減る分を自助努力で補ってください。消費税も上げずに働いて稼いでくださいと頼むべきだ」…。

少子化の話はすでに書いた。夫婦2人で子ども1.3人にしか作らない世界で、夫婦の介護を自らの子どもだけで賄うのは、数字で見てもとうてい不可能である(子どもは自分の親だけではなく配偶者の親も介護することになるのだし)。そのことは棚に上げて、他人が産んだ子供を介護要員の当てにするというのは、お金を有り余って持っていれば済むという話ではないであろう。人間ではなくロボットが面倒を見るというのであればともかく、そもそもが稀少な若年労働力が(将来性も売上げもない)死んでいく老人の介護に費やされるというのは、それこそ夢も希望もない話である。介護というのは本来、福祉であり、企業生産性ベースに乗ってくる話ではない。

長生きをするのは素晴らしいと言う。100歳長寿で、元気で、人の助けもあまり借りることなく、それどころか世の中のためになって生きていられるのであれば、それこそいくらでも長生きしてもらえばよいと思う。つまり、寿命と健康寿命がほぼイコールであればよいのであって、介護介助医療の助けを延々借りることによって(財政的負担が一体どれだけかかるのだ!)寿命だけを不自然に伸ばすことは百害あって一利なしであろう。吉野教授は、死ぬまで働いて給与を得られることを考えておられるようだが、それはなかなか難しいだろうし、そうではなく、私はひとりひとりが健康で寿命を重ね、介助も介護も特段の医療も不要な長寿社会が来るのが理想であろうと思っている。ごくときたまかまもしれないが、90歳を超えて、あるいは100歳も超えて、車椅子も要らず、杖くらいはつくにしても自分の脚で歩き、きちんと食べて、楽しく話をして、ああこういう風に年を取りたいなと思う方にお会いすることがある。長寿というのは、そういう人たちのことを言う。

介護施設のビラがよく入る。先般のを見ると、私方自宅の近くに建設中の介護施設であった。健常者用のアパートと要介護者用のアパートが同じ棟に建つことになるらしい。前者の入居者が後者に入居することになってもいいし、夫婦で前者と後者で住み分けしても互いに近くて行き来が出来てよいというのである。びっくりしたのは、その値段!(港区だし、もちろん地価が高いということはあるにしろ) 後者のアパートの広さはわずかに10畳程度。鰻の寝床のような部屋の端にベッドがある。おそらく寝たきりで、食事は運ばれてきて、食べさせてはもらえるのであろう。それがいくらだと思われるだろうか? 住居費が月30万円以上、食費は5万円程度(大したものは食べないはずだ)、もちろん水道光熱費はかかるにしろ知れている。あと看護その他スタッフの人件費になるはずだが、なんとびっくり、月62万円! ちなみに、比べて前者のアパートは40平米とだいぶ広いが(キッチンもある)、月40万円程度であった(それでももちろん高いが、結局介助の人件費にかかる費用の差であろう)

月62万円は、日に2万円である。年700万円以上!を払える人がどこにいるのだろうか。年金でその額はありえないから、もちろん預貯金を切り崩すのであろう。自宅を売却してきたお金を充てるのだろうか。自宅を売却したのであればもう戻るところはなく、その10畳程度の部屋が死ぬまでの住処ということになるのであろう。施設に払う金だけで月700万円超え、10年生きれば8000万円程度にはなるのだろう。それほどのお金持ちはもちろんいるにしろ、普通にありえる単位の話ではない。そもそもそれまでお金を貯めてきて、最後そんなことに大枚のお金を使うって、何か間違っていない?! 楽しいか?生き甲斐を感じるか? まさか。誰だって、自分の脚で動き、自分の行きたい所に行き、食べたいものを食べたいではないか。

特別養護老人ホームは介護度要である。月20万円程度しかかからないので、年金で暮らしていける施設である。そしてその上は、切りがない。アパートの所有権を持つこともできるし、それこそお金さえ積めば手厚いケアも受けられるであろう。しかし、それでも、である。スタッフはいなくなり、別の人に代わっていたりする。馴染んだ住居者がいなくなり、独りぼっちになることもある。結局のところ、お金を積んだからといって幸せは買えない。幸せは健康であること、自分のしたいことがあること、社会的に孤立していないこと…によってもたらされるものである。豊かな老後を一人一人が作っていくことが、日本経済にも資することになるはずである。異次元のなんちゃらとか、ばらまき福祉、といったことばかり言っているのでは政治への信頼は損なわれるばかりである。

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