解散は先送り…? 少子化に思うこと

広島開催サミットで存在感を示した首相は、その勢いで解散に踏み切ると言われていた。だが首相公邸でのハチャ、メチャ忘年会の模様が週刊文春で暴露された結果、支持率は当然のように下がり、首相は、秘書官に任命していた長男の更迭に踏み切った。しかしこの忘年会は息子が勝手にやったわけではなく、主である首相もいたし(夫人も)、となると息子に責任を被せるのもどうかと思うし、結局のところ公邸に招待する客を厳選していなかったことなど、危機管理態勢が問われるわけである(首相動静には「来客なし」となっているらしい!?)。写真などはスマホで簡単に撮れるし、、録音も出来るし、どうとでも編纂できるし、軽い人は軽い乗りで人に送るから、拡散は簡単である。その際、週刊誌がネタをすぐには出さず、何かの折を狙って出すのは常套手段である。

とにもかくにも、支持率が下がったことを受けて、今国会中(?今月21日)の解散はなくなったらしい。総裁選は来年だし、有力な対抗馬もいないし、前回総選挙からまだ2年も経たないし、やるとしても来年でいいだろうと思うが、わりとすぐ、秋の臨時国会時だとの憶測が流れている。首相の最大の権力は解散権(衆院議員の生殺与奪の権限)であり、それにいったんとりつかれるとどうしようもないのだとも聞く。

さて先般、少子高齢化について講演をする機会があったが、日本の出生率はついに1.3を切ったそうだ(一番低い韓国は、0.8!)。2.0を上回らなければ人口は減少するが、昔と違い、医療も経済状態も良くなって子どもは死ななくなったからさほど産む必要もないし、女性の高学歴が進めば女性はあまり子どもを産まない。故に、先進国はどこも軒並み少子化であり、2.0を超えているのは後発国ばかりである。男女平等、高福祉の北欧ですらその例外ではなく、事実婚にも同じ恩典を与えたフランスでは一時出生率が2.0を上回ったと喧伝していたが、最近はやはり1.8程度である(しかも移民の子どもが多い)。一人っ子政策を7年前に止めた中国も少子化は止まらず、今や人口ナンバー1はインドになっている。後発国でも医療や経済状況がよくなれば、そして女性の地位が上がれば少子化に転ずるだろうし、全世界的に今後少子化は止まらないと思っている。まずその現実をしっかりと受け止める必要がある。

特に日本の場合は、結婚しなければ子どもを産まないので、未婚化が少子化に拍車をかける。生涯未婚率(50歳時未婚率)は今や男性30%弱、女性20%弱という高率である。なんと男性の3分の1が未婚なのだ!(50歳以降に結婚したとしても含めない)正規労働でないと年収も低く、結婚できないので賃金を上げろ、という話ももちろん出るのだが、反対に女性は、正規労働者の未婚率は4分の1(非正規は10分の1)と上がるところを見ると、食べていけるし結婚しなくてもよいと思う女性が増えていると思われる。

とにかく社会の価値観が大きく変わっているのである。かつては結婚しなければ男女とも一人前ではないとの社会のプレッシャーがあったし、お見合いの世話を焼くおばさんがどこにでもいた。だが、今やそんな人はほぼ絶滅したらしく、学校か職場か、あるいはどこやらでとにかく知り合わないと結婚には結びつかない。かつて男性が単身赴任をすると食事に困ったが、今やコンビニがどこにでもあるし、ネットその他ひとりで楽しめることがたくさんあって、結婚しないと孤独に苛まれるということもない。どころか、結婚すると互いの両親親類との付き合いも面倒だし、家族に時間もお金も取られる。子どもの教育資金は恐ろしくかかるし、苦労して育てても、もちろん老後の面倒を見てもらえるはずもない。もともと結婚は若い時は苦労が多くても「老後のための保険」であったはずだが、3組に1組が離婚する時代では、そのメリットも少なくなっているであろう。

社会のプレッシャーもなく、経済的要因もないのだとしたら、結局のところ、よほど相手を好きにならなければ結婚しないのではないか? 結婚しなければ子どもは出来ない、となると少子化は必定である…。ちゃんと結婚している周囲の人たちを見ていると、その両親が幸せな結婚生活を送っていて、ロールモデルになっているケースが多いように思える。両親が不幸な結婚生活であれば、あえて結婚したいと思わなくても当然であろう。結婚が当たり前ではなくなったこの時代、離婚もせずに最後まで添い遂げるというのは、今はそれだけでなかなか立派なことであろうと思う。

とにかく、若い男女が結婚したいと望む世の中にしなければ、少子化は進む一方である。多様化の時代、選択肢はできるだけ多く…。夫婦選択的別姓はその一環であるのに、しかも単に形式のものであるのに(同性婚を認めるかどうかは実質的な問題である)未だに執拗な反対論があり、長年何も進んでいないのは、一体どういうことだろうか。先月、やたら寒かった日に、朝日新聞記者の取材を事務所で受けたのだが、この7日(水)リレーオピニオン欄に載るので、機会があれば、お目通し願えればと思う。

夫婦選択的別姓の趣旨についての説明がそこにないのは、朝日新聞では折りに触れて記事にしているからだという。私のホームページでもかつて書いたので、検索をかけてもらえればよい。夫婦同姓を強要しているのは、すでに世界で日本だけである。そもそも明治になるまで殆どの人には姓はなく、戦後は家制度も解体して個人同士の結婚になっているのに、本来個人のものでしかない姓をなぜ結婚を機に相手と同一にしなければならないのか。結婚しても名前は何も変わらないという法制も当然あるのに(韓国や中国はそうである)、愛する伴侶と同じ姓にしたい人にはその選択を認めるという自由な法制に何が不満があるのか、さっぱり分からない。

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『夫の暴力、暴言にこれ以上耐えられません。』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2023年6月号

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5月になりました。国政補選・統一選挙に思うこと…

無事5月である。いろいろあったが先週中になんとか済み、今日はわりとのんびりしている。明日も事務所に出てきて、3日朝から尾道帰省である。天気が良いので嬉しい…。先ほど久しぶりに事務所から外に出たら、いつの間にか新しいコンビニが出来ている(初めて聞く名前だがイオン系だそうだ)。コンビニは同じ通りにすでに2つあるし、通りを挟んでも1つあるし(スーパーもある)、これで経営は大丈夫かと他人事ながら心配になる。自宅周りもコンビニはありすぎるほどあるうえ、大型スーパーも3つもあるのだ(まもなくもう1つ出来る)。

用事が溜まっていたので先週末29日(土)、新橋から銀座中央通りに出たら、交差点角のビルが壊されていて、前に何があったかとんと思い出せない(そういうことはしょっちゅうある)。5丁目のニューメルサがイグジットメルサに変わっていて(銀座1丁目のメルサは閉店になった)、ざっとビル内を探検した。そのあと有楽町まで歩く。JRに乗って東京駅に出たらいつもと違う所に出たらしく、見慣れない構内である。出口になかなかたどり着けず、かなりの運動になった。東京に一応は慣れた私でこれだから、地方から来る人などはきっと迷ってうろうろすることだろう。とにかく東京は歩くことが多い。

もうだいぶ前だったような気がするが、大型選挙の後半戦は先月23日(日)だった。区議選が行われ、私は前回までとは違う、知人に頼まれていた区議に投票した(どちらも当選)。いつも思うのだが、区議が我々選挙民の前に出てくるのは4年毎の選挙の時だけである。区長は見たことがない。4年の間に何をしているのか、さっぱり分からない。それはマスコミが関心をもって報道しないからだと言う人がいるが(地方ではもっと報道されているはずだ)、私はかねて、地方議員にそんなにやることがあるだろうかと懐疑的である。国会は法律を作るが、地方では作って条例で、その数たるや圧倒的に少ない。予算をどう使うかで議会は開くが(委員会もあるはずだが)、一体年にどれほどの期間開かれているのだろうか。どんな審議がなされているのかも分からない。

地方議員の数はその自治体の条例で定まっている。人口6万6000人しかない千代田区の議員定数は25人。獲得投票の一番少ない議員はなんと500票台である!一方、人口25万人の港区の議員定数は34人。こちらは1200票程度は必要である(もちろん世田谷区など人口の多い区ではもっと必要になる)。そして、議員年収は、大体1000万円と言われている。フルタイムで働いても高収入なのに、それほど働くべきことはないはずで、副業を持っている議員も多い。そして4年毎に必死に選挙運動をすればあと4年は安泰とくれば、なかなか良い話ではないだろうか。

もちろん、票数が少なくて済むのは、投票率が低いことと無縁ではない。大体40%程度である。行っても行かなくても変わりはしない…頼まれているから、知った人だから、選挙に行く、という人は多いと思われる。なにせ地方選挙である。誰が代表になったからといって暮らしがそう変わるとは思えない。

国政補選は全国で5つ。衆院が千葉、山口2区・4区、和歌山の4つ、参院が大分県選挙区。うち和歌山と大分は野党現職だったから、岸田政権としては現状維持の3つ取れればよく、結果としては僅差で大分も取れたから勝利である。広島でのサミットが今月開かれ、その成功を手土産に、岸田さんは今国会中の解散総選挙に踏み切ると言われているが、果たしてどうだろうか。いずれにしても前回の総選挙は一昨年10月だったから2年も満たず、あまりに早すぎると思われる。任期は本来4年なのに、平均して2年半?2年10ヶ月程度である。選挙はそれ自体で大変金がかかるし、世襲など選挙に強い候補は別として、みな選挙区を向いて政治をやることになり、本末転倒ではないかと、かねがね思っているところである。

そう、世襲の問題も今回大きくクローズアップされた。山口の新人候補は、巨大な政治家ファミリーの出である。伯父(元総理)は昨年選挙戦の際凶弾に倒れ、父は体調不良により現職を早く引退して息子に譲った。「息子に跡を譲りたい」と軽く口にしたことで叩かれたが、それほど彼らにとっては当然のことなのだ。中小企業や家内工業はよく世襲で継がれるが、大企業ではよほど個人として優秀で、他から見ても納得できる人事である必要がある。とにかく能力の伴わない放漫経営では競争に勝ち残れず、潰れてしまうのは当たり前のことである。

国会議員の場合、経営者とは違い、議員は数の一人に過ぎない。優秀でなければ党内でも政権内でも良いポストは与えられないにしろ、選挙にさえ当選すれば、失職はしない。「その他大勢」でいる分には、選挙にさえ通ればよいのである。中選挙区の時には、自民党候補が複数立候補するから選挙民は優秀なのを選び、でないのを落とせばよかったのだが、小選挙区ではそうはいかない。自民党候補がどうしようもなければ野党候補にするか、とはならないし、そういう場合は棄権をすることになる。その結果が投票率の大幅な低下である。およそ6割が選挙に行かないとなると、残り4割のうちの過半数、例えば全体有権者の4分の1の得票でその選挙区を取ることができるのである。これは選挙民を代表している数字とはとても思えない。

そもそも小選挙区制はイギリスに倣ったものだが、イギリスは世襲は認めない。子弟が選挙に出ることは出来るが、別の選挙区からであり、それは党が決める。そしてまた比例区はなく、すべて小選挙区である。日本のように、落としたはずの候補がまた受かっているというようなことはありえないのだ。日本は制度を変えるのに、まさにいいとこ取りをしたわけだ。これでは新陳代謝が図られない、もとの中選挙区制に戻すべきだとはよく言われるが、市会議員や区議会議員より狭いような選挙区で戦える現行選挙制度は、お金がかからない。事務所もスタッフも少なくて済むからである。中選挙区の時の5分の1位で済むそうだから、国家議員自身が元に戻そうとすることなどおよそ考えられないのである。

『世襲』(中川右介著)を一読した。政治、企業、歌舞伎の世襲をよく調べて書かれてあった。かつて自民党総裁・総理は世襲ではなく東大卒官僚出身が普通だったが、世襲になってから東大卒はなくなり私大卒ばかりだとのこと。中には職歴もない人までいるそうである。

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『終活を始めたいのですが、自宅の扱いについて助言をください。』

自由民主党月刊女性誌『りぶる』2023年5月号

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神奈川県・黒岩知事スキャンダルに思うこと

今回文春に出たのは、12年も前の女性関係である。11年の長きにわたった不倫関係とはいえ、神奈川県知事選に出る前の、つまりは過去のことである。それが文春砲となったのは、ラインなりメールに露骨に表れた、その卑猥さが強烈過ぎるからだろう。実際、読んでいて、気分が悪くなるほどだ(潔癖症の知人男性は「吐き気がする」と書いてきた)。書いたのはもちろん、本人。その人格が発露したものであり、こういう人が公人であり、県民の代表者になってはいけないというのが、正直な感想である。

とはいえ、他にいい候補がいないのでねえと、知人の神奈川県民が言っていた。という次第で、結果は残念ながら、圧勝だった。記事は文春を買わなくてもネットである程度は読めるし、このネット社会において、まるで知らないでいることは難しいと思うのだが、「不倫をしていたんだって? そんなことはよくあることだし。男なら皆思い当たることがある。それに、相手の女性だって同罪じゃない?」程度の認識の人が実は多いようなのだ。私も別に、不倫そのものを咎め立てているわけではない(もちろん褒められたことではないが)。それだけならば実際巷にはよくあることで、公人になる前の昔のことではあるし、文春だってわざわざ取り上げはしなかったはずだ。

選挙に出るから別れたい…それは貴方の勝手である。それで皆が別れられるのであれば、別れ話のもつれによる事件など起こりはしない。一方的に自分の事情から別れるのであれば、きちんと相手を納得させるだけの誠意を示さなければならない。ひたすら謝罪して、まとまった手切れ金を支払うなどは当然のことだ。その後もいろいろと言い立てられる男は、間違いなく、謝罪も慰謝も不十分で、相手の恨みを買っている(某首相は芸者への手切れ金をけちったためにチクられ、すぐに首相を辞めることになった)。それは結局のところ金銭の恨み辛みに特化する。綺麗に別れられないのは、人間として、ケチで自分勝手で、全くもって尊敬になど値しない。

黒岩さんがテレビに映ったとたん、生理的に受け付けられなくて、即刻チャンネルを回した。今後も決して見ないようにするだろう。そういう人とこれからも働いていかねばならない神奈川県庁の人たちなど、気の毒である。神奈川県民は耐えられるのだろうか。その卑猥な人格は以前からのもので、先の12年間は、知らなかったが故に皆問題にしなかっただけである。いったん露わになってしまえば、もはやなかったことにはできない。ご本人は、今頃になってマスコミに垂れ込んだと思われる相手の女性を非難しているのであろうが、それはそもそも自分が撒いた種である。そもそもは県知事になどなるべきでない人だったのだから、出すのであれば12年前に出して欲しかった。

このスキャンダルで思い出したのは、巨人坂本選手のライン事件である。女性と生で性交渉をして、子供が出来たからと当然のように中絶させて…という一件が強烈だったのは、ラインに残された卑猥な(特殊な性癖の?)自分勝手な、女性をものとして扱う、知性のない言葉の羅列だった。相手の女性が「こんなことを言われました」「されました」と言ったところでそれは伝聞でしかないが、本人が書いたものは否定のしようがない。相手はもちろん無関係の人にも強烈なインパクトを持つ。目に焼き付いたまま、言葉が、人格そのものとして残ってしまう。

スキャンダルは、マスコミがそれを「事実」として取り上げるのだから、証拠が必要である。いつも思うのだが、なぜ当人らは「証拠」を残すのだろう。黒岩さんも知事になる前、マスコミ業界で知られた人だったわけだから、半ば公人であり、おまけに自分は妻帯者である。相手とはいつかは別れないといけないはずで、そのときに一悶着ないとなぜ言い切れるのだろう。想像力を少しでも働かせれば、後々証拠になるようなことは一切残すべきではないのである。

相手から届いたものは削除すればよく、自分からは出さないのが鉄則だ。坂本選手も名前の知られた、いわば公人である。相手の女性を存分に傷つけておいて、ある程度始末金を払ったからといって(どうやらお金ですべてが片付くと思っている節がある)、あと何もないとなぜ思えるのだろうか。適当に付き合ったと思われる相手の女性が有名人との関係を黙っているはずもなく、知人から漏れることも十分にありうるのだ。どれだけ信頼できる相手かも分からないのに、よくまあ平気でラインを出しまくることである。黒岩さんも坂本さんも、そして最近は私の身近にそういう人がいて、危機管理がまるでなっていないと呆れ切っている。

私は神奈川県民でもないし巨人ファンでもないから、2つの案件に関していえば、とくだん被害はないのだが、ラインの言葉が目に焼きついて、不快だし、これは今後ずっと消えないと思われる。そのレベルの被害を被っている人は数多くいると思われる。ネット社会だから、と言えばそれまでだが、皆、誰であれ、気をつけて行動すべきだとつくづく思っている。

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