執筆「便利な品々に囲まれて思う 発展とは・・・幸せとは・・・。」

 まだまだ若いと思っていたが、この春、ついに私は50歳を迎えた。
  私が生まれた昭和30年は、高度成長が始まった年である。高校を卒業する年、オイルショックを経験した。その後も日本は発展し続け、土地の価格は上がり続けた。膨らみ切ったバブルが突如崩壊し、以来15年間、不況は長引き、社会には閉塞感が漂う。実に激動の半世紀であった。
  私の記憶は神戸に始まる。父の勤める会社が神戸にあり、その寮も神戸にあった。私はいつも寮の友達と、周りの自然の中で遊んでいた。4歳の時、皇太子御成婚。8畳一間の我が家にもテレビがやって来た。私の机は当初ミカン箱だったが、思い返すと泣けてくるほど、それはそれは幸せな時代だった。小学2年の時、時代の先端を行く鉄筋アパートに移った。わおー、すごい。二間に、トイレ・風呂・台所付きだ。中学1年で、新築の一戸建てに移った。
  ワープロを初めて見たのは25年前、司法修習生の時だ。まだ超大型で100万円超。以降目覚ましい勢いで安価・小型化され、タイピストが駆逐された。そのワープロも専用機はすでになく、パソコンの一機能になって、久しい。
  この10年はIT化時代である。情報はインターネット、通信はメール。通信の主流は携帯電話とメールになった。
  手紙だと放っておけるが、メールだとすぐに返信をという気分になる。と周りの友人らが言うが、私も同感だ。せき立てられるように慌ただしく返信を打つ。その分、心は伴わない。心も文化も、明らかに手紙のほうにある。言葉を練り、相手を思いながら、自筆でしたためる手紙。漱石の小説を読むと、あの時代、朝書いて投函した手紙にその日のうちに返信が届いていたことが分かる。なんと便利でありかつ優雅な時代であったことだろう。
  人は本来、簡素な生活でこそ落ち着いた気持ちになれるという。自ら求めて僧や修道女の生活を送る人はもちろん、収容所や戦後の耐乏生活ですら、人は僅かな物で生きていけ、大きな精神上の自由と平和が与えられることを知るという。だが、大部分の人は、簡素な生活を送れるにかかわらず複雑な生活をあえて選ぶのである(リンドバーグ夫人『海からの贈り物』)。
  国が発展し、生活全般が便利になったようでいて、その実我々は決して幸せになったわけではない。幸せは絶対ではなく相対であり、あくまで心の問題だからだ。では、何のための発展だったのだろう。便利な品々に囲まれながら、そんなことをふと思う。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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国会の暑い夏

  話題の郵政民営化法案――。
  衆院で5票差で採決、来月上旬には参院での採決が予定される。参院で法案を修正して再度衆院に送っていては、8月13日の会期末に間に合わない。継続審議は首相が呑まないだろう。このまま採決になれば、どうやら否決の公算が極めて大きいらしい。
  となると、首相は躊躇なく解散に打って出るだろう。私の周りでもすでに選挙態勢に入った議員が多い。地元での会合やポスター作り……。いったん解散風が吹き出すと資金がいつまでもは続かず、早く選挙をしてくれ、という声になる。私の在籍当時にもそういう事態があった。党の各種部会から多くの衆院議員の姿が消え、外交など継続的なものは解散のない参院が中心となってやらねばとの声が現実的に思えたものだ。

「衆院の解散」について、再度憲法を調べてみた。
  69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。もっとも7条で、天皇の国事行為の一つとして「衆議院を解散すること」が挙げられ、実際の運用も内閣の裁量で行われている。
  あるいは、郵政法案が参院で可決されてもなお解散に打って出るかもしれないのだ。
  しかしながら、解散の本来の意義からして、その濫用は許されないはずだ。もともと4年の任期がなぜ毎回解散によって(解散がなかったのは1回だけ。解散する力のない総理と評価されるらしい)実質平均2年8か月になるのだろうか。今回秋に選挙があったとして、ようやく2年。国家予算が800億円使われるという。
             
もともと郵政民営化が改革の本丸とは思えないし、まして解散・総選挙によって国民の信を問わねばならないことだとはとうてい思えない。とは誰もが言うことだが、思い起こせば、首相が政治家として当初から言明していた政策は、これだけであった。
  加えて、総裁選挙中に、「靖国神社8月15日参拝」、そして「自民党をぶっ壊す」。ちゃんと首相は公約を実行している、と言った議員がいる。問題は、これほどになってもまだ「ポスト小泉」が見えてこないことにあるのではないか。

 幹事長から党政治倫理審査会に、反対、棄権・欠席した51人の衆院議員の調査が委嘱された。ここには衆参の議員以外に有識者4名、党員2名の委員がいて、私はこの度やはり元女性検事・弁護士の後任として、新たに委員の委嘱を受けた。
  対象議員がもっと少なければ党紀委員会に直ちにかけるところだろうが、多すぎるので、まずはその前段階の政治倫理審査会でということなのだろう。私にも多々人間関係があって難しいところだが、有識者として考えることは、自民党がまずもって公的な組織だということだ。総務会で党議拘束がかかった以上遵守しなければならないし(総務会は党規約上多数決。慣例として、反対者は退席したり総務会長一任として全会一致の形をとってきた。党議拘束を外したのは臓器移植法案のみ)、規律違反に然るべき対応をしなければ組織とはいえない。
  国民のためにも、自民党にはもっとしっかりしてほしいと切に願うのだ。

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執筆「感謝しながら生きたい」

 人は、受精の段階で、ほぼ決定づけられている。と最近、気がついた。DNAはいわずもがな、生後の環境もまた大きく親に左右されるからだ。
  もちろん、与えられた遺伝と環境の中で、人は精一杯の努力をすべきである。それが人のあるべき姿だ。
結果はどうあれ、努力する姿それ自体が美しく、人をいたく感動させる。
  ただ、努力できるというのもまた、一つの資質であるらしい。勤勉性。責任感。目標達成意欲ないし遂行力。
見渡せば、何事にも意欲的に取り組む尊敬すべき人がいる反面、何事にも不真面目で投げやりな人もいる。
  たいていの人は、私を含めその中間で、努力するときあり、しないときあり。これは対象への能力や適性と大いに関わるようだ。
つまり人は好きなこと、やりたいことはやる。また、出来ることは気楽にやる。
最近私は、ストレッチをしないとますます体が堅くなって、いずれ腰が曲がるよと脅されるのだが、生来運動が嫌いなので、ついやらずに日が過ぎる。
  人はかく既定された存在だが、せっかく生を受けたのだから、親に始まる様々の御縁を大切にし、人のお役に立てることに喜び、
「一隅を照らす」存在になれればと願う。人生の有限を悟り出してこの方、どの人も愛しく見えてみた。
生老病死の宿命を背負って生きている人間。自分にあるものに感謝し、人がしてくれることに感謝しながら生きようと思う。
  書くことはとても好きで、あっという間の半年でした。 お付き合い下さった皆さま方に心から感謝します。

東京新聞 夕刊 『放射線』
(中日新聞 夕刊 『紙つぶて』)

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執筆「法律の基本は国語力」

 そろそろ前期の試験問題を作る時期だ。学生は心配しているが、基本的な問題しか出さないから、日頃勉強しておけばどうということはない。
  ただ、論述式なので、文章が書けないといけない。学生には、新聞や本を読み、実際に文章を書いてみなさいと、折に触れて勧めている。法律の基本は国語力だからだ。
  法律は見識に根ざした学問である。まずは常識ありき。それを万人に納得させる理論づけが法律である。だから基礎的な素養が何より大事となる。昨年、法科大学院が始まったが、その本家本元の英米では、大学に法学部がない。文学、ジャーナリズム、心理学などを専攻した者が、さらに法曹を目指してロースクールに進み、一気呵成に法律を習得する。
  日本では、来る裁判員制導入に伴って、中学で法学教育を施すという。社会に関心を持ってもらうのはいいのだが、そんなことに時間を回せるほど、基礎教育は十分になされているのだろうか。
  さらには小学段階での英語教育にも疑問を感じる。たしかに英語ができると便利だが、あくまで伝達手段であり、肝心の思考を作るのは国語である。昔からいわく、「読み書きそろばん」。初等教育で学ぶべきはとにかく国語なのだ。英語は中学から学んでも十分、物になる。それに、本当に英語が必要な人は限られる。我々は、海外ニュースも本もすぐに母国語になる便利な国に住んでいる。
  教育は基礎作りである。「基本に立ち返って」と、私はいつも学生に言っている。

東京新聞 夕刊 『放射線』
(中日新聞 夕刊 『紙つぶて』)

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執筆「日本に根ざす司法制度を」

「弁護士って、検事と正反対の立場ですよね。大変でしょう」とよく言われる。
  笑って答える。「映画やテレビではそうだけど、実際は大して変わりませんよ」。無罪を争う事件は限られ、素直に罪を認める事件がほとんどだ。検察官も弁護士も、その目指すところは同じ。犯罪者の更生、社会秩序の維持、被害者の救済である。
  裁判で明らかにすべき事実は「真実」だ。これは本来「神のみぞ知る」ことだが、唯一絶対の神は不在だし、一方で「お上」への信頼は高く、国民が刑事司法に真実の究明を求めているのだ。結果、ともすれば精密を極めすぎ、裁判長期化の要因ともなっている。
  この対極がアメリカである。
  刑事司法も基本的に、民事と同様、当事者間、つまり検察官対被告人(弁護人)の争いであり、多くが司法取引で決着する。その典型は、無罪を主張したいが陪審では勝てないと判断した場合、軽い罪名と刑罰で手を打つことだ。取引はせず陪審裁判にした場合、弁護士が依頼者から聞かされるべきことは「陪審に信じ込ませたい事実」である。
  アメリカはそもそも人種も価値観も多様な国である。だからこそ、共通のルールを法律が定め、詳細な契約を結ばなければならない。弁護士が増え、訴訟社会が必然となる。
  近時日本にも、法曹の大幅増員に始まる司法改革の波が押し寄せている。その理想にアメリカがある。何であれ、アメリカ。それが戦後日本の現実だ。だがもうそろそろ、自国の拠って立つ基盤を見つめ直す時ではないのだろうか。

東京新聞 夕刊 『放射線』
(中日新聞 夕刊 『紙つぶて』)

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