執筆「真のエリート教育とは」

 先日、中曽根元総理の誕生祝い会に出席した。
  氏は八十七歳。「家族に言われまして、今年は短く、二十分で」と冒頭笑わせてから、スピーチをされたが、内容はもちろん、そのままで文章になる整然さは未だに別格である。もとより頭脳が別格なのである。俳句・書画をよくされ、フランス語で「枯葉」を歌う趣味人でもある。
  比べて今の政治家は、と言う人がいるが、資質の差は当然として、時代が画然と違うのだ。戦前は、制度として、真のエリートを育てていた。旧制高校では、カントなど哲学を原文で読んでいたという。現在も厳然と階級が残るヨーロッパでは、ノブレスオブリージ(高貴な者はそれだけ責務も負う)。ここでの教育の中心は、伝統的に人文の素養、つまり哲学や文学や歴史である。
  これらは実学やハウツー物とは違い、すぐに何かの役に立つわけではない。だが、そうした素養こそが人間の厚みとなり、人や社会への洞察力を培い、物事に正しく対処できる力を育てるのだと私は思う。
  戦後、平等主義が行き過ぎ、エリートといえば偏差値エリートになってしまった感がある。だが、受験マニュアルをいくら詰め込んでも、知識や教養とは別物である。そして人生は、解を自ら考えて導き出し、情と理で相手を説得しなければならないことが実に多いのだ。
  政治家の質が、法律家の質が、とよく言うが、全体の質を上げなければ、その中から選びようがないではないか。そんなことを改めて思わされる。

東京新聞 夕刊 『放射線』
(中日新聞 夕刊 『紙つぶて』)

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