『市塵』(主人公新井白石、藤沢周平著)を読んで感じたこと

 シドッチというイタリア人宣教者が、布教のためにひとり九州の南端に密航してきた事件があった。耶蘇教は禁じられていたから長崎奉行所で処刑されてもよかったが、幕府の儒者新井白石が江戸まで連れて来させ、博識のシドッチを通して地理をはじめ世界の新たな知識を仕入れ、本にも著した。その話が書かれているというので手に取ったのだが、とても厚く、シドッチのことはごく少し含まれているだけであった。だった。だが大変読み応えがあり、藤沢周平作に外れは殆どないことを改めて認識させられた。

 白石がそもそも仕えていたのは甲府藩主綱豊である。綱豊の父親は3代将軍家光の次男であった綱重だ。綱豊が後に6代将軍家宣になるのだが、これがかなりの偶然の産物なのだと知った。家柄は基本的に直系で繋がっていくのが本筋である。傍系に行くのは早世したか後継に恵まれなかったか。江戸幕府を創設した傑物・家康は1534年に生まれて1616年に亡くなった。享年73歳は当時とすれば長寿である。後継に恵まれず苦労した秀吉を反面教師として、子孫を残すべく、とにかく丈夫な女に手をつけたと言われる。結果、男児10人に恵まれた。後継の秀忠は1579年生まれ、1632年死亡(享年52歳)。正室お江与の方は淀君の妹で、7人の子供を生んでいる。うち男児2人。長男は家光だが、秀忠夫妻が次男忠長を偏愛し後継者にしようとしていると危惧した家光の乳母春日局は家康に直訴、長幼の順が守られることになったのは有名な話である。家光は1604年生まれ、1651年死亡、享年46歳。ちなみに忠長は乱行の故か?28歳で蟄居を命じられて亡くなっている。

 家光には男児が3人いた。母親はそれぞれ別の側室である(江戸幕府15人の将軍中、正室による跡継は家光だけである)。長男家綱は1641年生まれ、つまり父親の逝去を受けて第4代将軍になったときはわずかに10歳だったのだ。それでも将軍が務まるというのはそれだけ幕藩体制がしっかりしていたからに他ならない。1680年に亡くなったが(享年38歳)、子供はおらず。ここで直系は絶え、将軍職は家綱の弟に行くことになる。順当であれば家光次男綱重(1644年生まれ)だが、1678年に死んでいる。その息子綱豊は1662年生まれで当時18歳だったし、順番としてはそちらが正しいと主張する者もいたが、結局のところ、家光の3男綱吉が5代将軍となった。当時館林藩主、1646年生まれで34歳。後に悪名高き「生類憐れみの令」を発布したのは、とりもなおさず子供に恵まれなかったからである。側室はたくさんいたが、綱吉の子供を産んだのは、お伝の方のみ。男児は夭折、女児は成人して紀伊家に嫁がせ、綱吉はその子供を当てにしていたというが、子供を産まないまま27歳で亡くなった。万策尽き果て、綱吉は亡兄の息子綱豊を養子にすることを決意する。そして1709年、62歳で逝去し、綱豊は47歳で第6代将軍家宣となる。間部詮房や白石の補佐の下、悪名高い生類憐れみの令を廃し、これからの善政を期待されていたのだが、1712年、つまり僅か3年の在位の後、50歳で逝去する。つまり、綱吉が今少し長生きしていれば、家宣の将軍職はなかったのである! 

 家光の子孫は繁栄とは程遠かったことになる。家宣の存命の子供はひとり家継のみ。1709年生まれ、当時僅かに3歳である。まさかねえと思うが、それがそのまま将軍となり(間部詮房が抱っこしていたという)、生母月光院と家宣正室天英院との確執もこれあり、天下に名高い絵島生島事件が起きたのもこの時代である。家継1716年逝去、6歳の短い人生であった。江戸幕府の創設は1603年とされていることからすると、家康の直系ないし血筋は100年余に過ぎなかったことになる。その後は家康が創設した御三家のうち紀伊家から吉宗が第8代将軍として天下の指揮を執ることになる。吉宗は1684年生まれで1751年まで生きた。間部詮房や白石が幕府の中心にいて栄華を誇ったのは、家宣・家継時代のわずかに6年に過ぎなかったのである。

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