宮﨑勤事件…茨城一家殺傷事件

思い立って、少し前から「断捨離」を始めている。一気呵成にとはいかず、休み休みなので、なかなか片付かないのであるが、千里の道もまず一歩から、である。雑貨は選別して(もったいなくても)捨てる。服や小物は人にあげたり、捨てたり、バザーに出したり…。本や書類もたくさんあるので、やり出したら、本当に切りがない。うち書類は気軽には捨てられないものも多く、事務所に持参し、秘書に裁断のうえ捨ててもらっている。

「幼女連続誘拐殺害事件判決書(被告人宮﨑勤)」(東京地方裁判所刑事第二部)の冊子(白表紙)は大変分厚い。全739頁。連続して4件の女児強制わいせつ殺害事件が起こったのは昭和63年8月~。5件目が未遂となって逮捕され、最初の起訴は平成元年9月だった。平成9年5月、死刑言い渡し。一審に7年もの歳月を要したのは、ひとえに責任能力についての精神鑑定を3回も行ったことによる(起訴前は簡易鑑定しかしていない。人格障害であり責任能力に問題がないとの鑑定結果を信頼したからである)。平成10年4月、この部に対応する東京地検公判部第2検察官室に配属になった私が、前任者から、記念にと貰った冊子なのである(何らかの理由で審理が遅れた場合、私がこの事件に立ち会っていたことになる)。

犯行声明を新聞社に送りつけ、野焼きされた被害女児の遺骨を遺族に送りつけたのは、日本の犯罪史上例がなく、当時の新聞もテレビも連日報道をしたことは、今なお記憶に新しい。それから8年ほど経った平成9年、やはり衝撃的な神戸連続児童殺傷事件が起こった。犯人が14歳の中学生であったことから世間に大衝撃を与えたが、もちろん容疑者は宮﨑事件を踏まえて行動していたはずである。両者共、人を殺害する前に、猫をはじめとする小動物に残虐な限りを尽くしているが、前兆となる小動物虐待は、こうした快楽殺人には世界おしなべて共通するものと言われている(長崎の15歳女子が同級生を殺害した事件も同じであった)。精神障害に関するバイブルのような『DSM-5 精神疾患の分類と診断の手引』(医学書院)を見ると、「反社会性パーソナリティ障害(=人格障害)」の一種であろうし、世間によく言われるサイコパスの、やはり究極の形であろう。

神戸事件の犯人は刑事責任年齢には達していたが、少年法の(二重基準である)刑事処分年齢16歳には達していないため、医療少年院送致にしかならなかった。普通少年院収容期間は長くて2年程度であるが、彼の場合は収容継続が繰り返され、結局7年ほど少年院にいたと思われる。それでも22~3歳であり、満期退院から16年ほど経つ計算だから、今は38歳頃であろう。また事件を起こしたとは聞かないが(お騒がせな本を出したりはしたが)、どこでどうしているのか、ふと気になることがある。

さて、一昨年9月に起こった茨城一家殺傷事件。手がかりが薄いらしく、迷宮入りかと思われたが、この度、埼玉県に住む26歳の男が逮捕された。茨城県警はじめ関係者の大変なご努力を多としたい。本当に、ものすごいプレッシャーの中、日夜どれほどの精勤に励まれたことか。殺しがあれば、金銭関係、男女関係、怨恨の線を洗っていく。本件では何のトラブルも見つからなかった。物色された跡もなく、金目当ての犯行ではない。…となると動機は…通り魔的な快楽殺人。そうした性癖を持つ者がそんじゃそこらにいるはずもなく、前科前歴を丹念に洗っていくことになる。30キロ離れてはいるが、容疑者が線上に上がってくるのは存外に早かったかもしれない。

報道によれば、容疑者は今を遡る10年前の16歳の頃、小2と中3の女児に刃物で切りつける連続女児殺傷事件を起こしている。殺人未遂・銃刀法違反などの罪名だ。あまりに重大な犯行であり、更生の見込みも薄いと判断されたのであろう、少年の処分権限を持つ家裁が少年院送致では済まない「刑事処分相当」として検察庁に逆送して、起訴となった。猫などへの虐待の数々も当然ながら裁判所に提出されたはずである(猫の生首を持って学校に来たらしい)。

検察の求刑「懲役5年以上10年以下の不定期刑」はずいぶん軽いと思われそうだが、少年法では、これが有期懲役刑の最高なのである(平成26年改正の際、「懲役10年以上15年以下」まで引き上げられた)。弁護人が被告人の精神的な障害なり未熟さを主張し、これを受けて裁判官が、まだ18歳にもならない少年を刑務所送りにするのはできたら避けたいと考えたのであろう、家裁移送とし、結果医療少年院送致にしかなっていない(家裁移送決定はたまにあるが、極めて少数である。家族の殺害で見たことがある)。

このときに刑務所に行っていれば、通り魔殺人に快楽を見いだすこの容疑者が、出所後再び事件を起こさなかったはずだ、と言うつもりはない。人生をやり直せないのと同様、そのときに時間を戻してシミュレーションすることはできないし、そもそもこうした性向は人格に深く根ざし、そうやすやすと変わるものではないと思うからである。しかしながら、この裁判が間違っていると思うのは、同じ殺害でも、家族や友人との軋轢からその相手を殺害した事件であれば(多数の事件はそうである)、環境を変えたり考え方を変えたりできれば、再犯は防げる類いのものであるのに対し、全く無関係の通りすがりの女子に対し、性的興奮を得るために刃物で殺傷するというのは全く性質の異なる態様だからである。後者については更正を考えにくいのだから、セオリー通り、規定通り、刑務所にやることしかない。少年だから…立ち直るかも…などと甘い私情をそこに差し挟むのは裁判の在り方からして、間違っている。

報道によれば、容疑者は18歳頃から5年ほど医療少年院にいたようである(神戸連続児童殺傷事件と同じく、ずいぶんと長い)。平成30年に退院して、翌(令和元)年9月にこの大事件を起こしたのである! 反省の色など、ありはしない。どころか、どうやれば捕まらないかといろいろ考えたはずである。通り魔では捕まるから、民家に入るのはどうだろうか。その際狙うのは、人目につかない、防犯カメラもなさそうな、文字通り「ポツンと一軒家」である(その種番組は面白いが、変な人たちに狙われることはないのか、心配である)。今はわざわざ現地に行かなくても、パソコンで「物色」することができる。ドンピシャなのを見つけ、下調べをして、あとは決行、だったのであろう。

警察は、いろいろな情況証拠を積み上げ、検察との協議も入念にしているし、今後の捜査の進展及び起訴を待つことになる。裁判員裁判となるので、起訴後は公判前整理手続に付され、2年ほどは公開にならないであろうが。一般に殺害には動機があるが、それがただの快楽であれば、被害者と犯人を結びつけるものは何もない。そこから犯人検挙に至るのは大変難しいことであるが(世田谷の一家殺人事件は捕まらない)、数は少ないにしろ(切り裂きジャックにしても、「羊たちの沈黙」にしても、肉食の国に多いと言われている)一定数は存在するこれら快楽殺人者に対して、捜査も公判もまた処遇もどのように臨めばよいのか、考えねばならないことのように思われる。

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