座間事件(9人殺害・死体遺棄等)に思うこと

衝撃の猟奇的事件。発覚は2017年10月末、実に3年前に遡る。ばらばらに切り刻まれた9人の遺体は、犯人の部屋に置かれたクーラーボックスなどに収納され、一部は腐乱し、辺りは異臭を放っていた。犯行は、同年8月23日から10月23日までの2ヶ月にわたる。白石被告は、ツイッターで自殺願望のある女性を誘い出し、強姦(強制性交)のうえ殺害、そして有り金強取、を繰り返していたのである(空ボックスもあり、発覚しなければ当然犯行続行だったはず)。働かずに、性欲と金銭欲を同時に満たすための手段として、なんとも身の毛のよだつ恐ろしい方法を考え出したものである。

最初この報道に接したとき、自殺願望=同意殺人の弁解が来るかなあ、と漠然と感じたものである。殺人は199条(=懲役5年以上の有期懲役・無期懲役、死刑)だが、被害者が殺害に同意している場合(承諾ないし嘱託殺人)は202条(=6月以上7年以下の懲役・禁錮)が適用され、格段に刑罰が軽くなるからである。犯罪成立要件は、構成要件該当性→違法性(阻却事由)→有責性で順にチェックしていくのだが、「被害者の同意」はこのうちの違法性阻却事由の一つである。財産犯などは被害者の同意さえあれば犯罪が成立しないが、生命は最重要の法益(刑法で守るべき利益)であるため、被害者の同意があっても犯罪は成立し、ただ、同意がない場合と比べて構成要件(=条文)が異なり、法定刑が軽くなるのである。

だが、逮捕された白石は「本当に死にたい人はいなかった」と述べているとのこと。無駄な抵抗はせず、罪を認めるのだと少し安心した。犯罪はそもそも許されないことであるが、やってしまった以上は自らの犯したことを素直に認め、反省することが、人間としての最低限の在り方である。もちろんいくらそうされても、失われた命は返らないし、遺族の悔しい気持ちが晴れることはないが、それがあるとないとでは天地の差である。それなくしておよそ贖罪は始まらない(例の池袋暴走事故の高齢犯人が車の何らかの不具合が原因であって自分の過失は何もないと無罪を主張したという。本当に何という恐ろしい人であろう…ご遺族が気の毒過ぎて、言葉もない)。

9人の被害者毎に再逮捕を繰り返し、また猟奇的事件なので、検察は鑑定留置をして責任能力に問題なしとの結論を得たうえ、翌2018年9月に起訴をした。裁判員裁判になるため、公判前整理手続(非公開)で争点と証拠の整理をするのだが、弁護人が争うのは責任能力だけであろうと考えていた。事実が認められれば死刑しかなく、その場合、被告人が事実を認めるから弁護人もその通りと言うだけでは弁護士は何もやらなかったことになるので、せめて責任能力だけは争点にするはずであった。

ところがどっこいである。先月末に開かれた第1回公判で、弁護人は承諾殺人の弁解をしてきたのである! 被告人の主張が変わったのかと見たら、被告人は終始一貫していて、ひとり弁護人の主張が異なるのである。しかし、ちょっと待ってほしい。弁護人たち(国選弁護であろうが、裁判員裁判では複数の弁護人が選任される)、あなたたちは刑法をちゃんと勉強しているのですか? 「被害者の同意」における「同意の要件と有効性」は何ですか?「同意が行為時に存在していること」(←以前死にたいと言っていた、が根拠になるはずがない)、また「真意からの同意であること」が必要でしょう。後者については著名な判例がありますよ。男が別れたい女に心中を持ちかけ、後追い自殺をすると信じ込ませて毒薬を渡し、女が自らそれを飲み干して死んだ事件について、検察は被告人を殺人で起訴したのに対し、被告人らは自殺教唆(刑法202条前段)を主張したが裁判所は殺人罪を認めたのである(最判昭33・11・22)。この事件の被害者は被告人に騙されたとはいえ、自ら毒薬を飲んだのであって、被告人は手を下していない。それでも殺人を認めたのである。

対して座間事件は、部屋のロフトに予め吊っておいたロープに、被害者を掛けて自ら殺しているのである。その前に睡眠薬などを飲ませるなどして強姦もしている。最初の被害者からはお金を借りていて、殺害してその借金をチャラにする目的だったし、他からも殺害後に有り金を奪っている(強盗)。そのあとは証拠隠滅のために遺体はばらばらにされる。そういう、犯人の一連の意図も知ったうえで、殺害されることに同意をしている、とでも言うのでしょうか? おまけに、2人目の被害者は男。最初の被害者の恋人で、彼女を探しに来たのであって、自殺願望など過去にもありえない。これをどう説明するのですか?

以上、どこをどうしても認められえない主張弁解を、被告人がどうしてもしてくれと言うのであれば格別、被告人の意図にあえて反して勝手に主張することが弁護人の職責を果たすことですか? 被告人の供述通りであれば、被害者の遺族は公判廷で証人としてよばれてさらに辛い思いをすることもなかったのに、弁護人たちが勝手に争点にしたがために、気の毒にも遺族の証人尋問が続いているのである。

検事時代、時々この手の弁護士がいたことを思い出す。例えば、覚せい剤事件で本人は事実を素直に認めているのに、違法収集証拠だから無罪だと終始一貫ぶちまけていたが、被告人は弁護人を半ば無視したまま、最終陳述でも淡々と、「申し訳ありませんでした。二度とやりません」と素直に謝っていた。どんなにか選ばれた弁護士に困惑していたことであろう。そもそも違法収集証拠でもなかったし、自分の勝手な趣味で、被告人の意思に反し、かつまた全く利益にならない主張をすることは、弁護士倫理上どうなのよとの思いが拭えなかった。そんな弁護士は私選ならば解任すればよいのだが、国選の場合選任は裁判所なので、被告人の一存で解任も出来ないのである。

残念なことだが、ひどい弁護士が実に多い。周囲を見渡しても、あれれと思うことがよくある。法律知識はもちろん必要だが、それを支えるのは人間力ないし教養である。弁護士をやたら増やした当然の結果なのかもしれないが、本当に困ったことだと思わざるをえない。

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