松戸事件(千葉のベトナム女児殺害)に思うこと

大型連休である。私は暦通りに出勤しているが、明日から尾道に帰省する。一年中でいちばん心地よい季節。健康であるお蔭で、仕事も出来、遊びも出来て、幸せなことである。

毎日のようにいろいろな事件が起こり、よく似た事件もあるので、どれがどれだったか混同することが、よくある。中で突出して衝撃的だったのが、松戸事件だ。ベトナム女児9歳が3月24日、終業式への登校途上で行方不明になり、翌々日、用水路から丸裸の死体が発見された。状況からして小児性愛者による犯行であることは明白だった。

通りすがりの犯行であれば、検挙に至るのはなかなか難しいだろうと感じていたが、千葉県警も懸命に捜査に当たり、3週間後の4月14日、犯人逮捕となった。なんと、顔見知り。どころか、被害児童も通う小学校の保護者会(PTA)会長だ! 児童の見守りを担う人間がその児童を襲って殺害するとは、まったくの想定外だ。絶句。

翌日か翌々日には送検され、まもなく20日になる。毎日気にはしているが、犯人は依然黙秘を続けているという。勾留満期が来ても逮捕容疑の死体遺棄だけで起訴をするとは考えにくいので、おそらくはいったん処分保留で釈放し、殺人容疑で再逮捕すると思われる。それからさらに20日の勾留。その間に犯人が喋り、事案の真相が少しでも明らかになればと願う。

犯人割出しの決め手は、道路に設置された防犯カメラ及び最近ことに発達したDNA鑑定だった(あとドライブレコーダーも)。女児の遺体からの犯人の遺留物、また犯人の車からは女児の遺留物が検出されている。つまり、一昔前ならば、同じことをやっても捕まらなかった確率が高い事件である。この種事件に目撃者は普通いないし、被害者が死んでしまえば犯人を言い当てる者もいない。つまり顔見知りの場合、最初から口封じのために殺害するつもりだった可能性が高いのである。同じ年頃の自分の子供もいて、よくぞまあ、自らの獣欲のために、何の落ち度もない、いたいけな児童を手にかけられるものだ。鬼畜の犯行とはまさしくこのような犯行を言う。

客観的証拠は揃い、黙秘のままでも起訴はされるが、なぜ黙秘をしたままなのか。黙秘をしたままでは反省の色がないとして、裁判では悪い情状に働くだけである(でなくても良い情状など一つもないが)。実は15年前、県境をまたいだ某市で、フィリピン人ハーフの女児9歳が行方不明になったままの事件があるという(殺人事件の時効はかつて15年だったが、すでに撤廃されている)。死体が出なくては殺人事件での立件もない。立件には、犯人が遺体を遺棄した所を自白し、その自白通りに遺体が発見されることが必要だ。さすれば、それは真犯人以外にはありえない(「秘密の暴露」である)。これが彼の余罪だとすれば(他にもあるかもしれないが)、今ここで喋ることは余罪につながる。1人殺した場合は無期懲役で済むかもしれないが、2人殺せば確実に死刑である。

被害者の数で量刑を決めるのは、以前よりいかがなものかと思っている。被害者の命が犯人より軽かろうはずはない。むしろ逆である。それよりも犯行の動機、情状、社会に与えた影響、何よりも再犯可能性が大事である。異常性欲は、残念ながら、治らない。相手が大人であれば自らを防衛することも少しは出来るかもしれないが、年端のいかない子供は無防備である。知らない人にはついていかないようにと親はしつけることはできるが、知った人にもすべてついていくな(PTA会長もダメだよ)と教えることはできない。社会に与えた影響の大きさ、その卑劣さ、そして他の犯罪とは比較できない再犯可能性の高さを思うとき、松戸事件だけであっても、十分に極刑に値すると信じている。

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