舛添知事事件に思うこと

彼自身を少しは知る者として、驚きはなかった。公私混同、ケチ、せこい、自意識過剰、自信過剰‥なので、自分の行動に文句がつくなど想像もしなかったのであろう。今謝っているのは、案に相違して非難が高まり、地位が危うくなっているからであって、心の底から反省しているからではないと思う。

もとより知事である。都民を代表する政治家である。どれほど反省し、不適切とされた金額を返金し、あるいは毎週末公用車で通っていた他県の別荘を売却し、給金を下げるといったって、どれほどの意味があろうか。これが被告人なら、情状が酌量され刑期も下がるが、被告人ではない(はずだ)。問題はもともとの根っこにある。そもそもが知事たるにふさわしい資質を欠如しているのだ。というほど大したものでもなく、まっとうな社会人の資質を欠如していることが明白になっただけだ。

第三者(元検事の弁護士)に依頼して厳しく調査してもらうと言い、その調査結果が出るまで、自らの口で何も語らなかった。2人の元検事(どちらも知らない人だ)が長々と語り、どれも「違法ではない」とし(要は、政治資金規正法は金の使途に無関心なのである)、しかしうち何件かについて「不適切」とした。違法ではないとの結論づけは最初から読めていた。そのために依頼したのであり、依頼者の期待を裏切る人はめったにいない。

おかしくはないか? 弁護士が違法性がないと言えばそれで足りるのか? もしこれが被告人であれば、弁護人(=刑事事件の代理人弁護士)に任せきっても構わない。もともと検察官と対等ではありえない被告人を支えるものとして、法律の専門家たる弁護人は存在するのである。であっても、被告人自らが「私はやっていません」と真摯に訴えなければ誰が信じるだろう。被告人でないどころか、都民の代表たる首長が弁護人に頼りきり、自らの言葉で語らないとはどういうことだ? 非難されている一連の使途にはそれぞれこうした理由がある、と都民に向けて弁明する責務を彼は負っている。

例えば、ヒラリー・クリントン。私用メールを公務に使うのは違法であり(公務メールは一定の期間経過後国民に開示される)、そのことが彼女の信用を大きく失墜させているのだが、もし彼女が弁護士に「違法ではない」と言わせ、自らはそれを援用するだけであれば、もとより政治家失格だ。また、最近頻出する会社の不祥事では、トップ自らが弁明や謝罪をしている。弁護士に説明させる図などありえないことを思えば、本件がいかほどずれているか分かろうというものだ。弁護士はあくまでも法的なアドバイザーである。人に信じて貰いたければ本人が語らなければならない。

ところで先般、甘利氏及びその元秘書のあっせん利得処罰法違反容疑が不起訴になった。甘利氏の立件は(秘書との共謀が成立しないかぎり)難しいだろうが、秘書は起訴するのだとばかり思っていた。2000年に議員立法で成立した本法は、政治家や国会議員秘書が公務員に口利きをした見返りに報酬を受け取ることを禁じ、違反した場合には3年以下の懲役を科すとしている。本件はまさに典型的な口利き事案だが、検察は条文の「議員権限に基づく影響力行使」の「権限」とは議決権や質問権を指す、公務員の判断を左右する言動などが該当するとし、本件は当たらないとした。そこまで狭く解釈するのであれば、この法律はおよそ使えない。

この事件で、甘利氏は大臣を辞職し、その後も病気を理由に長く登院していない。自らの口では何も語っていないのだ。ずいぶん前に問題となった小渕議員もそうだった。弁護士で構成をする第三者委員会(この時の弁護士は舛添事件の弁護士と同じ人である!)に調査を委ね、依頼者に対しておよそ違法とは言わないであろうことを幸い、結局何も議員本人の口からは語られないままだ。こういう政治家で良いはずはない。私も東京都民として舛添知事は恥ずかしい。どんどん顔つきが悪くなるばかり、見るに堪えない。

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