一連の安保法制に思うこと

過日開催された衆議院憲法審査会の結果はすごかった。野党推薦2名はもちろん、与党推薦の参考人(全員が著名な憲法学教授)までもが、今内閣が進めている集団的自衛権行使に関する一連の法案を違憲と断じたのである!(こんな審査会あったっけと思ったら、私が11年前に参院を引退した後、安倍第一次内閣時に新設されたのだった) まずもって、著作も読まずに、何も分からずに推薦しただなんて、あまりに稚拙すぎてお話にならない。そもそも憲法学者は(というか、おそらくほとんどの法律家は)違憲論である。中に合憲だと言う憲法学者も少数ながらいると聞くから、人を選ぶならそちらからに決まっている。

日本の政府見解はずっと、集団的自衛権は存するが行使は容認できない、であった。行使のためには憲法9条を改正しなければいけないのだが、そのハードルが高すぎる故であろう、政府与党は閣議決定という手法により、一連の法案整備を進めている。しかも議会にかける前に、首相がアメリカ議会で演説し、「夏までには整備する」旨断言したのだ! もちろん、立法権はひとり国会にあり(憲法41条)、内閣には法案の提出権及び制定された法律を執行する行政権しかない。立法も行政も同じであれば、それは三権分立ではなく、独裁体制というものであろう。

この度、担当大臣が「憲法を法律に合わせる」といった発言までして、世論を騒がせている。正しくはもちろん、「法律を憲法に合わせる」。憲法に違反する法律を制定することはできないし、また制定された法律を実際に適用するにあたっては憲法の趣旨に違反しないようにしなければならない。それが権力に縛りをかける立憲主義というものだ。しかしながら、政府の一連の動きを見ていると、民主主義もそうだが、立憲主義そのものが理解されていない危うさを感じる。

そもそも政府与党が理論的に依拠しているとされる最高裁砂川判決(昭和34年12月)の頃は未だに、自衛隊は憲法9条2項が禁ずる「戦力」に当たるとして、違憲論が強い頃であった。そんな中、一審東京地裁(裁判長の名前をとって「伊達判決」として名高い)は、駐留米軍は違憲だとし、米軍基地内に立ち入って、安保条約に基づく特別刑事法に問われた被告人全員を無罪とした。検察の跳躍上告を受けた最高裁は、自衛権は国家固有の権利であるとはしたものの、司法は安保条約の是非など高度な政治判断には立ち入らないといういわゆる「統治行為論」を出し、結局被告人らは有罪となった(罰金。高名な最高裁長官であったが、この件で自ら政治的に関わっていたことが判明して、ケチをつけた)。もちろん、集団的自衛権は当時何も問題にされていなかったし、当該事案を解決するには持ち出す必要もなかった(もし勝手に判断したとしても傍論にすぎず、なんの拘束力もない)。こういう判決を出してこなければいけないこと自体が論拠の弱さを示すことになりはしないか。

国民の代表者である国会議員に対して「早く質問しろよ」と野次を飛ばしたことなど、これまでにはついぞなかったことであり、なんとも品がなさすぎてコメントもしたくないのだが、これが立憲主義を理解しない独裁体制のなせる業なのだと思うと、すとんと落ちてくるものがある。そうした意味で、ひとり安保法制に限らず、政治そのものが危機的状況にあるように思えてきて仕方がない。

カテゴリー: 最近思うこと パーマリンク