佐世保でまたもや起こった、少女猟奇事件に思うこと

岡山のロリータ事件が吹っ飛んでしまった。まさに、事実は小説より奇なり。佐世保ではちょうど10年前、当時小学6年の少女が校内で、仲の良かった同級生をカッターナイフで滅多切りにし、首を切断するという猟奇的事件が起こっている。そしてまたまた、なぜか佐世保である。今度は高校1年生、被害者はやはり仲の良かった同級生。首切り、惨殺も同じである。加えて、死体の損壊。佐世保の人たちはどれほど落ち込んでいることだろうか。

今回の加害少女の父親は弁護士。母親もその一族も地元の名士だという。少女は母親と仲が良かったが、その母親を昨年秋に癌で亡くした。母親を失うことほど悲惨なことはないが、父親は、娘と共に嘆き悲しむどころか、喪の明けない半年後には再婚したという。20歳も年下の女性との再婚を急いだのは、彼女が妊娠していたからである(としか思えない)。癌で苦しむ妻を放って、女との逢瀬を楽しめるという感覚も通常人を超えている。ゆえに、少女が金属バットで父親を襲ったという行動自体はある程度理解のできるところだが、父親はそんな娘を一人マンションに住まわせ、親としての立場・監督責任を完全に放棄する。

加害少女は小学6年時に、同級生の給食に異物を混入する事件を起こしている。刑事責任年齢に達しないため不問に付されたのかもしれないが、その後小動物の解剖にも興味を示したとのことである。そして今回は何の恨みもない同級生に対し、ただ、殺してみたい解剖をしたいと、道具をいくつも用意したうえ、マンションに誘い込み、襲って首を切り、手首も切り、お腹を切り開いていたのだという。精神異常は間違いがなく、これほどの凄惨な事件はそうそう起こるものではない。

17年前、神戸児童連続殺傷事件の14歳もまた何の恨みもない男児の首を切り、校門に掲げた。快楽殺人は、まずはその対象を小動物から始める。その14歳もそうだったし、4人の女児を殺害して一審審理7年の後に死刑になった宮崎勤も同様だった(東京地検公判部の係属は私の前任者だった)。その脳には何らかの異常があるはずだが、脳の解明は医学が最も苦手としているところであるようだ。

しかし少女の環境が劣悪でなければ、先天的な異常も深刻化することはなく、隠されたまま、その人生を終えたかもしれない。どんな場合にも言えることだが、人格を作るのは素質と環境である。父親は一般人より高い倫理を要求される弁護士なのだし、何より一人の親として人間として、真摯に、被害者遺族及び関係者、そして社会に対して、謝罪をしなければならない。もちろん賠償もしなければいけない。

10年前の小学6年生は、刑事責任年齢に達していないため捜査すらされず(調査だけ)、家裁審判で児童自立支援施設に入所しただけである。発達障害か何かの障害はあったとされるが、ほとんど報道もされず、堅い匿名性に守られ、今は21歳の女性として普通に生活していると思われる。しかし被害者にとって、惨劇は永遠に続く。当時毎日新聞の佐世保支局長だった父親は、癌で妻を亡くし男手で息子2人と末娘を育てていたという。父や兄らにとってもその人生はこの事件で破壊されたというのに、いまだに一片の謝罪もないという。

今回の児童もまだ16歳なので、刑事処分になることはおそらくないと思われる。少年院に何年か入った後出院し、あとは大学でも、あるいは国家試験でも就職試験でも何の障害もなく受けることができる(少年時代の犯罪は前科ではないので欠格事由には当たらない)。そして何より、生きている以上、その人生をいくらでも謳歌することができるのである。その差はあまりに大きすぎる。被害者遺族の今後のことを思うと、絶望的な気持ちになる。

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