死刑廃止論について思うこと

 先日、某EU国から、来月法務関係国会議員が来日するので、その際考えを聞かせてもらいたいとの話があった。しかし英語でプリゼンの準備をするのも大変である。そもそも日本人の80%以上は死刑存置派だ。弁護士会は廃止決議をしたようだがほとんどの弁護士はやはり国民と同じ考えだし、死刑容認の理由といった一般論は法務省にでも聞けば答えてくれる。まったくのボランティアだし、その国には何の義理もないので、お断りをした。

 EU諸国はすべて死刑を廃止している(廃止が加盟の条件である)。アムネスティ報告書によると、2009年末現在、死刑廃止国139、存置国は58である(存置国の一つである韓国は実際にはこの15年執行を停止している)。世界のすう勢が廃止の方向にあることについては誤りがないと思う。その内訳を宗教的に見ると、キリスト教国はたいてい廃止であり(ただしアメリカでは連邦政府と35州は存置。南米では2割程度存置)、イスラム教国は必ず存置している(韓国はアジアでフィリピンに継ぐキリスト教国である)。仏教国が廃止したりしていなかったり…といった感じである。

 宗教を別にすれば、いわゆる先進国中、死刑を廃止していない国は日本とアメリカだけである。これも事実である。EU諸国が日本に圧力をかけているのは、一つには犯罪も国際化する時代、犯罪人の引渡しを相手国に請求しても死刑を存置していれば引き渡せないといった理由もあるからだとは承知している。しかし、例えばドイツの法務大臣が「国には人を殺す権利はない」とコメントしたりするのを聞くと、違和感を覚えずにはいられない。彼らの本音は、遅れた国を啓蒙しなければといったキリスト教的使命感であり優越感であると私は見ている。

 まったくもって自分たちの国が平和な国だというのであれば、それを言う資格はあるだろう。しかし、では戦争はどうなのか。戦争で人を殺すのは野蛮ではないのか、その場合には人を殺す権利はあるのか。つまり「人」は「自国民」に限るのであろうか。この度のアルジェリアの悲惨な事件も、元はといえばマリへのフランスの介入にあり、そこでは日常茶飯に人(現地の人)は殺されている。これは正当化できるのだろうか。残酷極まりない事件を起こした犯人を国が処刑するのは野蛮なことで、国益のために他国で他国民をどれだけ無残に殺害してもそれは構わないことなのだろうか。フセイン国王も、ビンラディンも裁判なしに現場で射殺された。これに対する非難声明がいわゆる先進諸国からまったくもって聞かれないことに非常な違和感を覚えた日本人は多いはずである。

 死刑は、残酷極まりない事件を起こし更生の余地もない犯人に対する究極の刑罰である。普通の1人殺人ではありえない。強盗殺人であったり、死者が3人以上だったり…そうした究極の事件に対して、死刑は年に5人から10人程度言い渡されている。しかも日本では現場射殺は殆どなく、すべて刑事司法手続きに乗せて丁寧に裁判をしている。もちろん冤罪のおそれは皆無ではなく、言うならば死刑存置派の唯一の弱点はそれに尽きるといってよいと思うが、冤罪が許されないのは死刑に限った話ではない。疑わしきは罰せずは刑事司法の要なのだ。

 やむをえない事件における死刑は、我々にとって正義の実現である。捕鯨問題しかり、その他いろいろ、日本は自らの拠って立つ文化なり主張をもっともっと明らかにしなければならないはずである。 

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