光市母子殺害事件確定に思うこと

 一昨日、ようやくに光市事件が死刑で確定した。事件から実に13年! 本村さん、本当にお疲れ様でした。前にも書いたし、報道で見て誰もが分かるように、実に誠実で立派な方なのである。だからこそ、ここまで頑張れたのだろう。犯人が死刑になっても最愛のご家族は戻ってはこないが、しかし、犯罪被害者の地位は格段に向上した。

 残忍極まりない事件であった。犯人が成人であれば、あるいは19歳であれば、文句なく死刑相当事案である。しかし、犯時18歳1か月。少年法は犯時18歳未満は死刑に処せられない旨規定しているため、もし1か月前であれば死刑に処せず、そのことが1審・2審の無期懲役につながった(求刑は死刑)。検察の上告を受けて、最高裁は審理を高裁に差し戻す。そこで死刑判決。これまでの経緯からして最高裁もそのまま死刑を維持すると踏んでいたが、予想どおりであった。ちなみに現行少年法が施行されたのは昭和24年だから、以前はたとえ17歳でも死刑が執行されていた。また、諸外国では少年故にそれほどの特別扱いはない。

 今回の最高裁の反対意見に、被告人は精神的に未熟で18歳未満に等しいとの意見があり(弁護士出身)、弁護団もそう言っているが、これはおかしい。法律は法律であり、適用は一律でなければならない。こうした意見がまかり通るのであれば、成人だが精神的には未熟で少年に等しいと言えば、少年法が適用されるのかということにもなろう。知的に遅れていることを理由に心神耗弱と認定されるのであれば、刑は必要的に減軽となり(刑法39条2項)、死刑相当が無期懲役以下に下がるのであるから、そちらに拠るべきである。

 被告人の、父親に暴力を受け続け母親に自殺されたという境遇は、たしかに気の毒である。だが、被害者には何の関係もなく、何の落ち度もないから、それ故に罪を減じる理由にはならない。世の中にはよく、凶悪な事件が起こる度に、なぜこんなことをしたのか分からない、裁判でそれが解明されるべきなのに解明されていないと真顔で論評する人がいるが(例えば、宮崎勤事件やオウム事件などもそうだった)、しかし世の中には理由なり原因が分からないことが山ほどあるだろう。癌も各種難病も各種精神病もそうだ。ひとり犯罪だけは解明されるべきだ、裁判にかけさえすればと期待なり要望をするのは不思議でならない。もっとも考えようによれば、唯一絶対の神が存在しない日本だから、司法に神の役割が担わされているのかもしれないのだが。

 被告人は荒唐無稽な弁解に終始し、殺意と強姦の故意を争った。それも決定的に裁判官の心証を悪くし、死刑の結論につながったと思われる。更生は、自らがやったことを認め、深く反省することによってのみ可能である。神に対してであれば懺悔であり、刑事司法では自白が必須である。被害者が悪い、故意はない、運が悪い、と言っているうちは反省もなく、更生もありえない。更生できない者に無期懲役の選択はないであろう。事案が事案だし、法律的に死刑は科しうるのであるから。

 この度本村さんが再婚されていると知って、少しく安堵した。どうぞこれで一区切りをつけ、新しい人生を歩まれてほしいと心より願っている。横田めぐみさんのお母様もやはり立派な方で心打たれた思い出が鮮明だ。まもなく1年になる大震災の時にも立派な方々の報道に接したが、市井に生きる中に実に立派な方々がおられるものである。

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