政界のごたごたに思うこと

? 近頃、周りの誰もがとんと政治の話をしなくなったことに気がついた。怒っているうちはまだいいのだ。怒りにはエネルギーが要る。無駄だと分かれば、人はもう怒らない。呆れ、諦めたら、何も言わず微笑すら浮かべることができる。テレビを見ないようにしているという人も結構いる。見ると腹が立って精神衛生によくないからだという。私ももうあまり見ていない。政治のありようはもちろんのこと、マスコミの報道の仕方にも腹が立つからだ。

 主要国首脳会議(ドービル・サミット)冒頭、菅首相は福島第一原発事故を巡って、国際社会の支援に謝意を表明し、採択された宣言中には日本政府と人々に対する連帯が表明された。その1週間後の6月2日、首相が震災対応後辞任する旨表明することで、内閣不信任案は大差で否決された。ニュースは瞬時に世界をかけ巡る。国際社会が唖然としたことは想像に難くない。自国内、政界、いわんや与党内ですら連帯を示せないで国際社会からの連帯を求めることなど出来はしない。何であれ、まずは身内から、なのだ。大震災以来せっかく、日本人の威厳ある対応、現場で献身する自衛隊員・原発関係者に対して海外からの賛辞が注がれていたのに、一挙に水の泡である。

 辞任の時期を巡る混乱が続く。前首相が現首相を「ペテン師」よばわりする笑劇(お前が言うなと思った人が多い)、ポスト菅を巡る報道等々、いつもながらにマスコミは視聴率だけを狙い、問題の本質を深く取り上げることはしない。立法府は第1の権力でありマスコミは第4の権力。2つの大きな権力が共に手を取り合って(?)痴呆化してきた印象を受ける。

 一昨日、とある会合に出た際、来賓の国会議員(民主党)から「恥ずかしくて街を歩けない」と打ち明けられた私は正直少しほっとした。だがその口から続けて出たのは、菅さん批判であった(そう、この方は小沢派であった)。しかし、少なくとも自らの党が正当な選挙で選んだ代表者を(内々であればともかく)外向きに批判することは、どの組織であってもおかしなことである。続けて挨拶に立った自民党議員のほうは、終始堂々とした態度であった。悪いのは民主党で自分だちではないと思っているからであろう。だが、これまた政界の外に対して、また国外に対しては恥ずかしいことでしかない。

 1853年、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀沖に来航した後、もし薩長が手を結ぶことなく、また大政奉還によって平和裏に政権を移行させることがなければ、日本は間違いなく、アメリカの植民地になっていたであろう。当時世界中を見渡して、欧米の植民地でなかったのはエチオピアとタイくらいである(清は大国に飲まれてへとへと状態であった。)。坂本龍馬が「コップの中の嵐。日本国がなくなってしまう」と言ったように、コップの中でぐちゃぐちゃやっていた日には日本そのものがなくなってしまう。今もし戦争をしかけられたら、日本はひとたまりもないだろう。戦争という形ではなくても侵略は起こる。未曾有の国難にあってもなおコップの嵐に終始している日本を見ていると、平和ぼけもここまで来たのだと暗澹たる気持ちになる。戦勝国アメリカとしてはこれ以上ないほどの敗戦処理が出来たということであろう。

 その会合の後、タクシーに乗ったら、運転手さんが言った(このところ、上品な運転手さんにあたることが多くてほっとする)。「よく永田町で議員さんをお乗せするんですけどねえ。それが…若い議員さんが乗ってすぐに携帯で話し始めるのですが、話し方といいその内容といい、もうとても聞いてはおれません」。そこらへんのギャルや兄ちゃんの乗りだそうだ。「まあ数さえ取れればいいと議員にしてるんでしょうけどねえ」。もちろん、それではダメなのだ。しかしそういう人たちに代表されているのが日本の現実だ。歴史を知らない、教養もない人が国民の代表者になってはいけない。人としての素養は政治家になる前に定まっている。それがない人が政治家になっては国が弱体化するのは当然だ。

 小選挙区のままでは新陳代謝を図れない。選挙制度を変えないといけないし、やはりその根源には教育の問題があると思う。ひとり政治だけではなく、至る所で劣化が目立つ。人材がいないことこそが、そういう人しか育ててこなかったことこそが、まさしく日本の国難であるように思う。

 

 

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