検察大不祥事に思うこと

 9月21日、主任検事が証拠隠滅で逮捕され、先週末10月1日にはその直属の上司だった当時の副部長、部長が犯人隠避で逮捕された。報道によると、主任検事は当初「遊びで…」と馬鹿な弁解をしていたがやがて認めるようになり、その際上司2人の指示があったとの供述、及び裏付けの報告書がパソコンから復元されたことが決め手になったという。
 上司2人は否認なので在宅のままでは起訴できず、最高検は逮捕に踏み切ったとのことである。

 この2人が、主任検事の証拠改ざんを過失であると認識していた(故意がなければ犯人隠避は不成立)というような言い訳はばかばかしくて取れないし、常々偉そうに「本当のことを言えよ」と迫っていた立場上、観念して本当のことを言いなさいよと思う気持ちが強いのだが、今回の一連の逮捕劇には非常に後味の悪いものが残る。

 突き詰めていえば、組織としての自浄作用がまるで働いていないということであるし、だからこそ今回の事後処理も当を得ていないことはなはだしいというべきだからである。
 今回のことも新聞にスクープされなければそのままだった。スクープされて慌てて、内部だからうやむやに処理されたと言われないよう、ことさらに強気で行ったのだと思われる。 
 では本来はどうであるべきだったというのかというと、もちろん前2回に指摘したように、まずは起訴をすべきではなかったのである。ひとり主任検事に嘘を言われて決裁官が騙されたなどということはばかばかしくて聞いておれない。この筋悪の事件で、完全否認であるし、そもそも肝心の偽造文書の作成日付は間違いないかどうか、誰も確かめていないなどとは信じられないことである。おまけに気付いている検事もいたというのだから(その検事が指示をしてその立会事務官が昨年6月29日付けの捜査報告書を作ったのである。)、どうして主任検事ひとりの暴走でこんな大事がまかりとったのか、組織としての体をなしていないことはなはだしい。
 その次に証拠品管理の問題もあることを指摘している。

 次は、改ざん事実が明らかになった今年初めの時点で、内部で報告を上げ、きちんと公表をし、公訴取り消し及び謝罪をすることが組織としては当然であったのだ。人権を守るべき検察組織が自らの組織、というより自らの保身に走ったのは衝撃である。

 今回公判部検事たちが正義の味方のように報道されている向きがあるが、ではなぜ彼らは次席検事、検事正にこの事実を上げなかったのか。副部長、部長に阻止されるともうダメという組織ではないし、今回のような最悪の形で取り上げるまで手をこまねいていただけというのは情けなさすぎる。普通の会社員であれば首になれば食べていけなくなるかもしれないが、彼らには法曹資格がある。検事になった以上、不正を見過ごさないためにこそ命を賭けるべきではないのか。

 情けないという意味では次席検事や検事正も同じである。

 部長らから「公判部検事との間でトラブルがあったが問題ない」という報告を受けて、ああそうか、で終わるようなトップがどこにいるだろう。会社にそんなトップがいたら、その会社はすぐに潰れる。対して、検察その他官庁は決して潰れない。自分もすぐに異動になる。少なくとも「今この時」を無事に過ごせれば、自分には関係がない。泥をかぶらなくて済む。かぶりたくない。そう思っていたのであろうと容易に想像がつく。それで検事なのだから、それもエリートなのだから、情けなさすぎて涙が出そうだ。
 当然ながらこの無責任体質こそが問題なのだ。ことは現職局長を逮捕して、無罪を真剣に争われている注目の事件なのである。トラブルと言われるものの真実を確かめるべきはトップの当然の責務である。この件はおそらく大阪地検中にひそひそと、知れ渡っていたのではないか。彼らにしてもどこかで耳に入らなかったはずはない。

 問題の村木さんの起訴状には副部長、部長、次席検事、検事正の決裁印がある。上に立つということはそれだけ重い責任を担うということだ。だからこそ給料も高いのだ。

 今回の件の後味が悪さは、今回逮捕された2人よりもずっと監督責任の重い次席検事、検事正の責任がなおざりにされているからである。
 もちろん知らなかったのであれば、刑事責任には問えない。それが刑事責任というものの宿命なのだ。だからこそ事故が起こったとき、社長ではなく現場担当者のみが業務上過失致死傷罪に問われる。民事責任とは異なるのである。
 今回の事件の本質は組織としての在り方の問題であり、現場の当事者として検事正以下がきっちり処分をされて初めて、その下の責任も問える性質のものである。その意味で今回逮捕された2人は、なんで自分たちばかりがと内心では思っているはずだし、刑事事件での処理は問題の本質を取り違えていると思われてならない。

 最高検がやるべきであったことは、徹底した調査のうえ、速やかに「真実」を明らかにすることであった。そもそも刑事司法は真実究明が目的であるし、検察はその担い手なのである。その力がまったくなくなり、あろうことか自ら存在感を示すために事実をねつ造するようになってしまったことが問題の本質なのである。

 最高検がすべきであるのは、明らかになった真実を村木さんを含むすべての国民に開示して謝罪をすることである。そして関係者を然るべき懲戒処分にすることである。その際には高検や最高検まで当然含まれることになる。そのうえで組織改編をし、徹底した再発防止策を提示すること、である。
 真実解明を刑事事件としての処理に委ねるというのは、組織のあるべき姿ではなかったと思う。最高検の慌てぶりが、目に見える形で一連の経過に現れているのだろう。検察は攻めには強くても守りには弱い。守ったことがないからだ。最初のボタンをかけ違え、以後歴史に汚点を残す泥仕合、茶番劇が続くであろう。こういう形で自らを見世物にしなくてもよかったのに。OBとしては、報道を見るのが嫌で仕方がない。政治も嫌だし、明るいニュースがまるでない。

 芸術がいい。今回、人間としてあるまじき行為をした検事たちが、もし芸術を愛し、人間としてのあるべき座標軸を持っていたならば、こんな馬鹿げたことをしたはずはないとそれは断言が出来る。

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