新潟の女子殺害事件に思うこと

あの事件はどうなったのだろうか、と時々思うことがある。10年前に裁判員裁判が導入されてからというもの、起訴後第1回公判までの間に、争点と証拠を整理するための公判前整理手続が行われ、その間「事件」が我々の前から消えるのである。その期間はだんだん長くなっているとも言われ、1年はもちろん、2年かかることも珍しくない。

新潟で、小2の可愛い女児が、線路上で轢断されて発見された衝撃的な事件。昨年5月のことだ。近くに住む25歳の男が猥褻目的で女児に車をぶつけて自車に引き入れ、猥褻行為をしたうえ首を絞めて殺害した。そして轢死を装い、線路上に死体を置いた。事件後1年半経った今月に公判が開かれた。男は殺意はなかった等の弁解をしていたが、検察は死刑を求刑。裁判員裁判であるし、おそらくは死刑判決が下るであろう(裁判員は被害者・遺族側である。とはいえ、千葉のPTA会長がベトナム人女児を殺害した非道極まりない事件は、完全否認で、死刑求刑に対し無期懲役だった!)。その後、控訴審である東京高裁が無期懲役に落とさないよう、願っている。

殺人事件で被害者1人の場合、死刑判決はそう多くはない(被害者1人でも必ず死刑になるのは身代金目的誘拐殺人や保険金殺人である)。それ故、動機に情状酌量の余地がまったくないことや轢死に見せかけたことなど犯情は悪質極まりないものの、求刑は無期懲役になるのではないかといささか危惧をしていた。それで思い出したのだが、奈良の新聞販売店勤務の男による小1女児誘拐・殺害事件は、被害者1人だったが、やはり死刑だった。事件は2004年11月、当時は裁判員裁判ではなく、死刑判決は2006年9月。被告人は控訴を取り下げて死刑が確定し、すでに執行済みである。男は36歳で強制猥褻の前科があった。

無防備な子供を狙うこの種の事件は、一般予防の見地からいっても、最高刑をもって臨むべきだと常々思っている。とはいえ、刑罰を重くさえすれば防げるわけでもなく、この種の被害者が出ないことが一番なので、精神病理的な対応がもっと図られて然るべきだと思っている。窃盗を繰り返す者(いわゆる手癖が悪い人)の病理として「クレプトマニア」が昨今注目を浴びるようになっている。刑事司法に携わる者には精神医学も必須である。

ところで、これらの事件は違うのだが、昨今SNSが、加害者と被害者を結びつける手段としてずいぶんと幅を効かせている。これまでは接点がなかった人間同士が、一瞬にして知り合う。2年前に起こった衝撃的な座間の大量殺人事件もそうだったし、この度大阪の小6少女が栃木の35歳男に連れられてその家に匿われていた事件にも唖然とさせられた。親や学校の先生その他身近な人が信用できない、嫌いといって、では見も知らない人たちが信用できるのか? まさか。もしその家で殺されてもそのまま発覚しなかったであろうことを思えば、危ない目にも遭わず自ら逃げ出して助かってよかったねということなのだろうが、親たるもの大人たるもの、子供らに、見知らぬ人についていけばどんな危険が生じうるか(見知った人でも危なかったりするが)、ずっと小さなうちから教えないといけないと感じる次第である。

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