今年は諸般の事情によりお盆の前に帰省したので、夏季休暇が結構長かった。葬儀参列や顧問先の懇親会出席などのほか、15日には全国戦没者追悼式(武道館)に、たぶん初めて、参列した。中央ブロックの国会議員席に案内され、両陛下ご臨席の下、首相、衆参両議長、そして最高裁長官の式辞を身近で聞くことが出来た。法曹と国会を経験したので、その方たちは皆個人的に知っている。天皇陛下のお言葉はとても聞きやすかった。
有吉佐和子に嵌まっている。その昔、『華岡青州の妻』や『助左衛門四代記』などを読んだのだが、復刻された『青い壺』が大ベストセラーになっていると聞いて手に取り、度肝を抜かれた。一陶芸家がたまたま作った「青い壺」。それがデパートで展示されて、購入者が世話になった人に差し上げて…青い壺が転々としていく、全13話のストーリーである。時空を超えて、20年後、創作者の元に(明時代の銘品だとして)戻ってくるのだが、壺に関わったそれぞれの人生が丁寧に、いずれもリアリティをもって描かれ、彼女が稀代のストーリーテラーであることをまざまざと見せてくれる。こんな作家がいたのだ、とただただ感激した。自伝的な女性3代記である『紀ノ川』、芸能ものである『連舞・乱舞』『一の糸』、社会的な問題を取り上げた『非色』『恍惚の人』。ジャンルが広いことにもびっくりする。どの分野も社会問題も丁寧に調べられ、書き上げられている。あとまだ有名な作品がいくつもあるので、すべて読みたいと思っている。ちなみに彼女は昭和6年生まれ。母と同い年なのだ。
さて、『日本人が学ぶべき西洋哲学入門 なぜ、彼らはそう考えるのか?』(ジェイソン・モーガン&茂木誠著 TAC出版)。著者2人はどちらも存じ上げないが、知る人ぞ知るの方なのだろうか。モーガン氏はアメリカ・ルイジアナ出身で未だ40代、日本で教鞭を執っているとのこと。対談形式のため、少なくとも通常の哲学書よりは読みやすいだろうと思ったのだが、たしかに日本の歴史・古典への造詣が深いことがよく分かる。哲学はかつて若い頃勉強しなくちゃと思い、いろいろと買って読んだが、ある程度分かったように思えたのはショーペンハウエルのみ、キエルケゴールもニーチェもさっぱりで、聖書も読んでないような者にはどだい無理だよねと思わされたものである。中年になって手に取った各種仏教書もまた然り。法律家であればルソー・ヴォルテール・モンテスキュー、ホッブズ、そしてカント・ヘーゲル辺りは読んでおくべきだと思うし、昔の偉い方々(ことに旧制高校を出られたような方々)はもちろん、それこそ原文ででも読破されたのだろうが、私にはたぶんもう無理である。高度な抽象論がすらすらと読み解ければどんなにか面白いだろうと思うが、残念ながら持って生まれた知能がそのレベルに達しないことを、最近諦念をもって達観するようになった。これも年の功かもしれない。
古今東西の偉人の名前がたくさん出てくるので、ある意味歴史を復習しているかのようである。古代ギリシアのソクラテス、プラトン、アリストテレス。アリストテレスは広く科学者であった。アレクサンダー大王の師であったことでも知られる。対談者2人は互いに様々な名前を出しながら、その人を好きか嫌いか、私生活は…性格は…といった話も多い。面白い指摘があった。バッハは音楽を数学的に徹底して極めているため、彼の音楽は計算式で出来ていて、人の温もりが感じられないと。私はバッハは大好きだが、バッハを聴いて「感動」することは確かにないかもしれない。モーツアルトやベートーベンと全く違うのは、バッハの音楽が数学だからだと考えれば納得できる。バッハの時代は今のピアノではなくチェンバロ(ハープシコード)だから、打鍵で音色は変わらず、よって一つ一つの音に精を込めることがないのが違いかと思っていたのだが(もちろん対位法など作曲技法のせいもあるが、ベートーベンが対位法を使って作曲したソナタなどは感動する)。
ヨーロッパでは身分制ががっちり固まっていたが、中国では科挙(高級官僚登用試験)が1300年にわたって実施され、家柄に拘わらず、科挙に合格しさえすれば出世の道が開かれていたことはよく知られている。科挙に毎年不合格であるばかりに高齢になっても悲惨な生活をしていた人の話は聞いていたが、改めて考えると、これは素晴らしい平等主義ではないのか。なぜ中国が早くから平等主義を採っていたのか、他民族国家であったが故なのか。布教のために中国に送り込まれたイエズス会宣教師から科挙の話を聞いて倣い、ルイ14世が高等文官試験を始めた、という話は初耳である(本当?)。身分制はフランス革命でギロチンに掛けられたルイ16世(ルイ15世は14世の曽孫。16世は15世の孫である)の時代までずっと続いていたのだが。
この本で、よくぞ言ってくれたと思ったのは、LGBTのことである。彼らは各種政党同様、一緒になることで力を持つのだと言っている評論家がいたが(なにせ、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーに加えて、最後にQ=自分の性志向が分からない、まで加えるのだから、なんでもありなのである)、対談者2人は、これは政治運動であって、性差の問題ではないと喝破している。かつてゲイが厳しく取り締まられていた西洋の歴史はあるにしろ(イスラムでは未だに犯罪である)、日本では犯罪ではなかったし、性に対してはおおらかであって、プライベートのことを誰も糾弾することはなかった。しかるにアメリカの圧力でこの度LGBT理解増進法を可決してしまったのはパブリックとプライベートの区別が出来なくなって、社会人の一般常識が崩れた結果であると。この法律は、日本の伝統文化の中でとってつけたような感じがして、違和感が半端ない。
アメリカのネオコン(新保守主義者)は、冷戦終結後のアメリカの外交政策において、特に軍事力を用いた積極的な世界戦略を目指す勢力である。1960年代後半にアメリカの左派勢力から分離する形で登場し、2000年代初頭のブッシュ政権(息子のほう)下で、イラク戦争を推進するうえで大きな影響力を持つようになった。強硬な外交姿勢(国際社会においてアメリカのリーダーシップの下、民主主義の普及を目的とした積極的な外交政策を目指す)、軍事力重視、イスラエル支持、反共産主義などが特徴である。彼らは湾岸戦争、イラク戦争を主導して煽り、紛争の火種を撒き、次はウクライナ戦争の背後で暗躍している。ウクライナはロシアに領土を侵略され、「民主主義のために戦っている」のだが、まさに民主主義がアメリカの宗教で、聖戦なのである。地図を見て「ウクライナはどこですか?」と聞いたら9割のアメリカ人は分からないだろうが(日本がどこにあるかもたいていは分からないと聞く)、ウクライナは絶対に守らなければならないとも言う。
対談者2人いわく、アメリカはキリスト教国ではなく「啓蒙思想教国」で、爆弾による「民主化」が聖戦なのであって、キリスト教とは無関係どころか正反対だと。世界の民主化をするのがアメリカの役割だと考えている人がたくさんいるのが国際紛争の多くの要因になっていると。日本が敗戦後アメリカの占領下で見事民主国家に転じたことがアメリカの成功例になったのはよく知られている事実である。これまでもそうだったが、クライナでも日本政府はただ「アメリカについていくのが正しい」だけで、そこには何の思想も哲学もありはしない。ロシアが国連憲章違反の侵略戦争をしていることは事実だが、プーチンには思想があり(「ウクライナを諦めるわけにはいかない理由」を彼は自分で論文に書いている。「ロシア人とウクライナ人の歴史性一体性について」)、米英主導のグローバルな価値観が世界を覆い尽くすことは許されないと考えている。ロシアにはロシアの、インドにはインド、中国には中国のそれぞれの価値観があると。このことについては私も前にブログで指摘していることである。日本の政治家は歴史を知っているのだろうか、確固とした思想があるのだろうか。
とにかく暑い。毎日35~36度で、よくまあ生きていられるものだと思う。いろいろとしたいこともあるのだが、少し過ごしやすくなってからにしよう。今は健康を損なわずサバイバルすることである。コロナ禍の影響も大きかったが、着る物がだんだんラフになり、だらっとしたワンピースがいちばん風が通って過ごしやすいため、このところずっとそんな格好をしているが、同じような格好をした女性が多い。その点男性はズボンを穿くので、ネクタイはしないまでも大層暑いだろうと気の毒になる。3ヶ月予報だと11月頃まで暑いらしい。着物は長い間着られない。