執筆「限られた時間をどう使い,優先順位をつけるか。 生き方上手とは時間の使い方が上手ということ。」

 あれっと気がついた。いつの間にか携帯メールをしなくなっている!
 5年前、携帯メールを始めた。会議中、通話せずに用件を伝えられて便利だよと教えられたのだ。以後、秘書あてに「長引きそう。〇〇はキャンセルして」とか、待ち合わせ相手に「ごめん、10分遅れる」とか、実に優れた効果を発揮した。
 まもなくチャットをするようになった。パソコンと違って、指で一つ一つ打つから面倒だが、慣れればどうということはない。どころか、無味乾燥なパソコンメールとは違い、多種の絵文字が使えて楽しいし、電車の中やちょっとした空き時間に、軽いお喋りをする乗りで打てる。同じメールを複数に送信するのも簡単だ。まさに、手軽なチャット。だからこそ、手紙を出すときには返信など期待しないのに、メールだと返信は当然なのである。
 誰もが気軽にメル友になるこの時代、隣りに座って黙ってメールを打ち合うカップルが変だとか、歩行中のメールが危険だと感じる以外は、もはや見慣れた光景でしかない。
 それなのに、私はなぜ携帯メールをやめたのか。ピアノに熱中しだした時期と重なるから関係があるのだろうとは思うが、過去にも漫画やファッション雑誌や着物や宝石など、熱中していたのにいつとはなく止んだものがいくつもあるから、単にそうした潮時だったのかもしれない。
 面白いというか当然というか、自分が打たなくなると、人からもさっぱり来なくなり、かくして携帯メールチャットの習慣は消えた。今思えば、よほど他にすることがなかったようでもあり、恥ずかしい。
考えれば、これは一例なのである。生活を見渡すと、なければないで済むものがいくつもある。
 例えば、テレビ。もともとあまりテレビを見なかったのだが、携帯メールに合わせるように、最近はとんと見なくなった。当然「今」には遅れるが、新聞は丹念に読んでいるから、さして困ることはないと気がついた。携帯電話で常にニュース配信を追っている知人がいるが、それが単なる趣味を超えて、常に「今」が気になるとしたら、もはや中毒であろう。手段と目的を間違えてはいけない。手段に振り回されては、なんのための便利さか分からない。
 世の中が変わっても、人の本質は変わらない。持ち時間は同じ。限られた時間を、何に、どう使うか。優先順位は何か。生き方が上手な人というのは結局、時間の使い方が上手な人のことを言うのかもしれない。そんなことを思わされる。

自由民主党月刊女性誌
『りぶる』

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